今度は〝中舘武左衛門宛書簡下書〟に関して少し考えてみたい。
1.『年表作家読本 宮沢賢治』より
荒木 実は、この本『年表作家読本 宮沢賢治』(山内修編著、河出書房新社)の昭和7年6月に関する記載の中にも、高瀬露の名前を見つけたんだ。知ってたか?
と言って、荒木は同著の97pを開いて見せてくれた。そこには次のようなことが記されていた。
荒木 それはこの頁の〝下段〟のところ。
と指さすのでそこを見てみると以下のような註釈などがしてあった。
と私は独りごちた。
すると、その時玄関の方で
吉田 呼ばれたから来てやったぞ。
と大きな声がした。
鈴木 おっ、吉田か。鍵は開いてるから入って来いよ。
荒木 こっちだ、こっち。
息を弾ませながら吉田が部屋に入ってきた。
吉田 いよいよ〝高瀬露は悪女ではない〟の総仕上げ、僕がいなけりゃまとまるものもまとまらんだろうから助けに来てやったぜ。
荒木 よく言うよ。それにしても随分速かったな。こんなに速く来るとは思ってなかったよ。
吉田 へへっ、まあな。
鈴木 実はまとめの段階に入っていた訳ではないんだ。荒木がまた露に関しての新たな情報を手に入れてくれたので、その話をしていたところだ。
荒木 今回のは知ってるか、中舘武左衛門という人物がらみのものだ。
吉田 ある程度知ってるよ。
鈴木 いや~ぁ、この著者山内修のこの見方確かに説得力がある。が、それだけではなくてその次にこんな事も続けて書いてあったかなおさら興味津々だ。
吉田 いや、ちょっと待てよ。少し違うな。たしか関登久也は『宮澤賢治素描』では
鈴木 それは『イーハトーヴォ第十號』でもほぼ同じで、それを見てみるとやはり
吉田 とは言っても、はたしてその女の人、つまり露が実際言っていたのかどうかは検証されている訳ではなく、せいぜい賢治がそう言ったということでしかない。
荒木 賢治がそう思い込んだのかも知れない、ということか。
鈴木 いずれ、中舘が昭和7年に賢治に手紙を寄こしたということはこれでほぼ確かであったであろうことが分かった。すると、この手紙の中に〝露に関する賢治への中傷〟が書かれていたという可能性がかなりあり、それは賢治にとっては耐え難いものであったという図式か。
吉田 可能性としては
×賢治氏の知合の女の人が賢治氏を中傷的に言う
→○賢治氏の知合の女の人が賢治氏を中傷的に言う
=賢治氏の知合の中舘武左衛門が賢治氏を中傷的に言う
ということかも知れないな。
鈴木 う~む、ありかもな…。この女の人を高瀬露としたのでは、露は濡れ衣を着せられてしまうということもありうるな。
以前作った露の略年譜では
昭和 7年3月 上郷尋常高等小学校
〃 4月11日 小笠原牧夫と結婚。
〃 秋頃 露が賢治を中傷しているということで、賢治は了解求めに関家訪う。←?
であったから、その頃の露は3月からは遠野で勤務、4月には小笠原牧夫と結婚していたのだから、なにも露自身が賢治のことを中傷する理由も動機も一般にはないと思うしな…。
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1.『年表作家読本 宮沢賢治』より
荒木 実は、この本『年表作家読本 宮沢賢治』(山内修編著、河出書房新社)の昭和7年6月に関する記載の中にも、高瀬露の名前を見つけたんだ。知ってたか?
と言って、荒木は同著の97pを開いて見せてくれた。そこには次のようなことが記されていた。
二二日 中舘武左衛門(盛岡中学の先輩で、自称「行者」)宛返書。賢治の病気の原因が、父母に背いたことや女性との関係にあるというような内容の手紙がきたらしい。「大宗教」の教祖、中舘に対して、言葉は丁寧だが厳然たる調子で反発している。
<『年表作家読本 宮沢賢治』(山内修編著、河出書房新社)より>
鈴木 そうか、こんなこともあったんだ。でも高瀬露の名はないけど。荒木 それはこの頁の〝下段〟のところ。
と指さすのでそこを見てみると以下のような註釈などがしてあった。
…(略)…一時噂のあった高瀬露との関係についても「終始普通の訪客として遇したるのみ」と一蹴している。普通こうした中傷めいたことは、一笑に付して黙殺するはずだが、わざわざ反論しているのは、妹の死・父母への反抗・高瀬との関係、それぞれが、賢治の心の傷だったからかも知れない。
<『年表作家読本 宮沢賢治』(山内修編著、河出書房新社)より>
鈴木 そういうことか、たしかにありかもな。と私は独りごちた。
すると、その時玄関の方で
吉田 呼ばれたから来てやったぞ。
と大きな声がした。
鈴木 おっ、吉田か。鍵は開いてるから入って来いよ。
荒木 こっちだ、こっち。
息を弾ませながら吉田が部屋に入ってきた。
吉田 いよいよ〝高瀬露は悪女ではない〟の総仕上げ、僕がいなけりゃまとまるものもまとまらんだろうから助けに来てやったぜ。
荒木 よく言うよ。それにしても随分速かったな。こんなに速く来るとは思ってなかったよ。
吉田 へへっ、まあな。
鈴木 実はまとめの段階に入っていた訳ではないんだ。荒木がまた露に関しての新たな情報を手に入れてくれたので、その話をしていたところだ。
荒木 今回のは知ってるか、中舘武左衛門という人物がらみのものだ。
吉田 ある程度知ってるよ。
鈴木 いや~ぁ、この著者山内修のこの見方確かに説得力がある。が、それだけではなくてその次にこんな事も続けて書いてあったかなおさら興味津々だ。
この頃のことについて、関徳弥は次のようにいう。
「亡くなられる一年位前、病気がひとまず良くなって居られた頃、私の家を尋ねて来られた。それは賢治氏の知合の人が賢治氏を中傷的に言うのでそのことについて賢治氏は私に一応の了解を求めに来たのでした。
他人の言に対してそのいきさつを語り、了解を得る様なことは、かつての賢治氏にはなかったことですから、私は違った場合を見た様な感じを受けました」(『宮沢賢治素描』)
「亡くなられる一年位前、病気がひとまず良くなって居られた頃、私の家を尋ねて来られた。それは賢治氏の知合の人が賢治氏を中傷的に言うのでそのことについて賢治氏は私に一応の了解を求めに来たのでした。
他人の言に対してそのいきさつを語り、了解を得る様なことは、かつての賢治氏にはなかったことですから、私は違った場合を見た様な感じを受けました」(『宮沢賢治素描』)
<『年表作家読本 宮沢賢治』(山内修編著、河出書房新社より)>
たしかに『宮沢賢治素描』にはこんなことが書いてあったはずだ。そしてそれをかつて読んだ際に私は、なんで賢治はこの時に関登久也の家を訪れたのだろうかといま一つ腑に落ちなかったのだったが、もしこの中舘の手紙が来たことがその大きな理由だとすれば合点がいくなと思ったからなんだ。吉田 いや、ちょっと待てよ。少し違うな。たしか関登久也は『宮澤賢治素描』では
亡くなられる一年位前、病氣がひとまづ良くなつて居られた頃、私の家を尋ねて來らてました。それは賢治の知合の女の人が、賢治を中傷的に言ふのでそのことについて賢治は私に一應の了解を求めに來たのでした。…(略)…
<『宮澤賢治素描』(関登久也著、協栄出版)148pより>
となっていたはず。つまり『宮澤賢治素描』においては〝中傷的に言ったのは賢治の知り合いのその女〟となっていたはず。鈴木 それは『イーハトーヴォ第十號』でもほぼ同じで、それを見てみるとやはり
それは賢治氏知人の女の人が、賢治氏を中傷的に言ふ…(略)…
となっている。吉田 とは言っても、はたしてその女の人、つまり露が実際言っていたのかどうかは検証されている訳ではなく、せいぜい賢治がそう言ったということでしかない。
荒木 賢治がそう思い込んだのかも知れない、ということか。
鈴木 いずれ、中舘が昭和7年に賢治に手紙を寄こしたということはこれでほぼ確かであったであろうことが分かった。すると、この手紙の中に〝露に関する賢治への中傷〟が書かれていたという可能性がかなりあり、それは賢治にとっては耐え難いものであったという図式か。
吉田 可能性としては
×賢治氏の知合の女の人が賢治氏を中傷的に言う
→○賢治氏の知合の
=賢治氏の知合の中舘武左衛門が賢治氏を中傷的に言う
ということかも知れないな。
鈴木 う~む、ありかもな…。この女の人を高瀬露としたのでは、露は濡れ衣を着せられてしまうということもありうるな。
以前作った露の略年譜では
昭和 7年3月 上郷尋常高等小学校
〃 4月11日 小笠原牧夫と結婚。
〃 秋頃 露が賢治を中傷しているということで、賢治は了解求めに関家訪う。←?
であったから、その頃の露は3月からは遠野で勤務、4月には小笠原牧夫と結婚していたのだから、なにも露自身が賢治のことを中傷する理由も動機も一般にはないと思うしな…。
続きの
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