みちのくの山野草

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花巻営業所長賢治営業活動開始

2014-06-25 09:00:00 | 東北砕石工場技師時代
《創られた賢治から愛すべき賢治に》
5,000通のダイレクトメール発送
 それでは宮澤賢治が『東北砕石工場』の技師を嘱託された直後の、いわば同花巻営業所長になった直後の仕事ぶりを見てみたい。『新校本年譜』の昭和6年の項の中には次のように記述されていた。
二月末~三月初 盛岡へ出、県庁で県内実行組合名簿一、〇〇〇写し取り<*>、帰花後、状袋書き始める。鈴木東藏へ昨日県庁で名簿を写したこと、宣伝発送用状袋書きを始めたが工場発送と重複しないよう指図のほしいこと、宣伝書の印刷部数は四県下へ五、〇〇〇、自分負担で送ってよいこと、宣伝書の印刷部数に右の五、〇〇〇を併せてほしいこと、校正もしたいことなどを書き送る(書簡302)。
              <『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)年譜篇』(筑摩書房)417p~より>
 そこで次に確認のためにこの“書簡302”を見てみよう。
 302〔二月末~三月初め〕鈴木東藏あて
拝啓 過日御来花の際は甚失礼仕候 その節御打合せの件、着々準備罷在昨日は県庁にて県内実行組合名簿約一千写し取り参り状袋書きを初め居り候処貴方様より直接御発送の分と重複致しても如何と存候処此辺如何致すべきや御指図被成下度候 次に宣伝書は小生の手にて三月二十日迠に四県下へ五千丈発送致し度右費用等小生持ちと致しても宜敷候へ共執れにせよ宣伝重複せざる様被案御考慮願上候 尚宣伝書は何部御印刷の御予定に候や 校正一辺小生致し度印刷の節右五千をも併せて可奉願と存居候 先は右貴意を仰ぎ度如斯御座候
              <『校本宮澤賢治全集第十三巻』(筑摩書房)304pより>
 たしかにこの書簡〔302〕に従えば、嘱託契約成立後の賢治は、すぐさま『東北砕石工場』製品の宣伝のためまずは実行組合員1,000人分の住所氏名をある名簿から書き写し、さらには昭和6年3月20日までには、四県(岩手、宮城、秋田、青森)県下に5,000通のダイレクトメールを発送することを企てたことになる。それには結構大変な労力を要したかもしれない。
(1) まずは1日で1,000人分の住所の書き写し作業だが大変であったであろう。
(2) 状袋の宛名書き期間が2月末~3月20日だとして仮にその期間を25日間とすれば
       5,000÷25=200
だから、1日当たり200通の宛名書きをせねばならなかったとになる。これも大変なことであったであろう。
 とはいえ、何しろ賢治はかなりの集中力がありしかも書くスピードが速かった、1か月で原稿用紙3,000枚(つまり約100枚/日)を書いたともいわれているようだから、これが仕事だとすればそれほど大変だというわけでもなかろう。一般には、賢治は嘱託契約をした途端またぞろ「疾走」し出したといわれているようだが、冷静に分析してみるとそれほど大変なわけでもなく、これしきのことは大人の仕事としてはよくあることであろう、という見方もできそうだ。

相変わらずの賢治の金銭感覚
 しかしそれよりも問題だと私が思ったことは、
   (3) 安易な「費用等小生持ち」。
をしていたことである。当時書状の郵送代は3銭であったようだから、もし5,000通のダイレクトメールを送るとなれば
    0.03×5,000=150円
だから、
 賢治は宣伝用ダイレクトメール郵送代150円を自己負担してもよい、と鈴木東藏に伝えていたことになる。
しかもさらには状袋代もかかるわけだからかなりの金額を自己負担することとなる。
 一方で、伊藤良治氏によれば、賢治は昭和6年2月24日に松川の東北砕石工場を訪れて契約金500円を引き渡したが、東藏からは当座の旅費として100円を受領しているという(『宮澤賢治と東北砕石工場の人々』(伊藤良治著、国文社)118p)。この旅費分を以てしても賄えない150円(賢治の月給の3ヶ月分相当)を賢治は自己負担しても構わないと言っていたことになる。勘定が全く合わない行為であり、これでは商業行為として成り立たないであろう。「東北砕石工場技師時代」の賢治と「下根子桜時代」に肥料設計を無料でしてやった賢治との間にはどれほどの違いがあったというのか。
 先に私は
 こうして賢治は生まれて初めて人並みの社会人としてのスタート台に立った。
と述べたのであったが、これはもはや撤回せねばならぬこととなってしまったと言わざるを得ない。賢治の金銭感覚は相も変わらずであったからだ。残念ながら、東北砕石工場花巻営業所の所長としての賢治にはその資質や適性は欠けていたままであったということになりそうだ。

《愛すべき賢治》
 しかしながら次のような見方もまたできよう。このようなアンバランスな金銭感覚を相変わらず持っていた賢治はまさに《創られた賢治ではなくて愛すべき賢治》である、と。あるいはまた、この時代の賢治の月給50円は現物支給だったからこれを売り捌かなければ一銭の現金収入もないことになるわけで、宣伝広告のためにダイレクトメール150円を自己負担することは最終的には十分にペイできると見通した上での賢治の商業活動だったのかもしれない。そう考えれば、賢治は『東北砕石工場技師時代』においては普通の商人たらんとしていたのだったと見ることもできて、再び羅須地人協会でのような活動をしようということはこの時代の賢治の頭の中からはもはや消えてしまっていた(賢治の炭酸石灰の販売活動によって貧しい農民が直接的に救われるということは基本的にはあり得なかったというのが当時の農業事情であったであろうことは容易に想像がつくからである)、と言える。まさにそのような賢治もまた《愛すべき賢治》であると言えよう。

<*:註> 伊藤良治氏は前掲書『宮澤賢治と東北砕石工場の人々』の119pに、典拠は明示していないものの、
    昭和6年3月2日 盛岡(県庁で広告発送先名簿書き写し<約一千>)
としている。

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