22歳の春、絵の基礎を学ぶために「セツ・モードセミナー」へ通い始めた須永博士。そこで、大きな自信に繋がる出来事がありました・・・・。
【21】河原淳先生との出逢い
港区にあった(現在は新宿)セツ・モードセミナーに通う日々、週3日のカリキュラムでした。ドキドキしながら、教室に入り、いつも一番後ろの席に座り「この道しかない。」と心の中で言いながら、真剣に学びました。
全国から服飾関係、デザイン関係を目指す人が集まっている場所でした。
「みんなかっこいいなあ。」
スタイルも良く、夢に向かっている人たちの中にいるだけでも、いい勉強になりました。良い刺激の中で、石膏のデザインや、モデルさんを見て描いたり、本格的な授業の日々、生まれて初めてと言えるほど、一生懸命でした。
ここで学んだ生徒さんが、先生になっていたりして、若い先生が教えてくれる中で、セミナーの設立者の「長沢節先生」も週に1度授業があり、もう1人イラストレーターの先生が、月に1度、教えてくれていました。
その先生が、「河原淳先生」です。
ある日の授業のテーマは、新聞広告に載せる為の絵でした。
「雨の日、傘を差した人」
というテーマです。
私が書いたのは、傘を差したかわいい子供達がいっぱい、空から降りてくるようなイラストです。
描き終え、周りを見ると、本格的な、かっこいいスタイル画でした。
「俺のこの絵じゃ、ダメだよな・・。」と思いながらも、思い切って提出しました。
先生に提出し、休憩時間に。
そして教室に戻り、河原先生の批評の時間です。
すると、突然、
「この絵を描いた、須永君、立ちなさい!!!」
と言われました。
一番後ろの席に座っていたので、立ち上がるとみんな振り返ります。
おそるおそる、立つと・・・
「この絵が今日の、1番です。
みんな、同じような絵を描いてもいけません。
この、須永君のように、人には描けないハッとするような絵を描きなさい。
須永君、君の絵は必ず世の中に認められます。がんばりなさい。」
「え!!!、僕の絵が、1番!?」
びっくりしました。
約40人の教室のみんなもびっくりしていました。
そして、褒められたことで、とても自信がもてました。
今まで褒められたことなんてない人生でしたから。
河原先生は、それからも須永博士を応援してくださいました。
「自宅で、河原ゼミといって色々な画家を呼んで勉強会をしているので、君も来なさい。」と言ってくださり、等々力という場所の自宅に何度も尋ねていきました。
有名なプロの画家、現在も名のあるイラストレーターの人などが来ていて、本当に嬉しく、楽しかったです。
「みんなすごいなあ。
世の中にはすごい人がたくさんいるんだ。」
毎日が輝き、希望に満ち、自分にも少しづつ、少しづつ自信が持ててきました。
・・・・
セツ・モードセミナーという学校は現在も、故・長沢節先生の遺志を引き継ぎ存在しています。
河原淳先生も、2006年に亡くなるまで、須永博士に手紙を下さったり、応援してくださっていたそうです。
私も、この記事を書くにあたって初めて調べてみました。
須永博士の話していた「スタイル画」は、現在の須永博士の絵とはまったく違うものですが、この時に学んだ基礎は、しっかりと胸の中にあります。
羅漢絵(須永博士が50歳から描き始めた五百羅漢の絵)を書くときのデッサンなどに役に立っているんですね。
2年間の絵の勉強を終え、次は写真の専門学校に通う決意をします。
その訳、それから・・・、明日へと続きます。
(今日の画像は、ひとりぼっちの愛の詩 3集より。)
【21】河原淳先生との出逢い
港区にあった(現在は新宿)セツ・モードセミナーに通う日々、週3日のカリキュラムでした。ドキドキしながら、教室に入り、いつも一番後ろの席に座り「この道しかない。」と心の中で言いながら、真剣に学びました。
全国から服飾関係、デザイン関係を目指す人が集まっている場所でした。
「みんなかっこいいなあ。」
スタイルも良く、夢に向かっている人たちの中にいるだけでも、いい勉強になりました。良い刺激の中で、石膏のデザインや、モデルさんを見て描いたり、本格的な授業の日々、生まれて初めてと言えるほど、一生懸命でした。
ここで学んだ生徒さんが、先生になっていたりして、若い先生が教えてくれる中で、セミナーの設立者の「長沢節先生」も週に1度授業があり、もう1人イラストレーターの先生が、月に1度、教えてくれていました。
その先生が、「河原淳先生」です。
ある日の授業のテーマは、新聞広告に載せる為の絵でした。
「雨の日、傘を差した人」
というテーマです。
私が書いたのは、傘を差したかわいい子供達がいっぱい、空から降りてくるようなイラストです。
描き終え、周りを見ると、本格的な、かっこいいスタイル画でした。
「俺のこの絵じゃ、ダメだよな・・。」と思いながらも、思い切って提出しました。
先生に提出し、休憩時間に。
そして教室に戻り、河原先生の批評の時間です。
すると、突然、
「この絵を描いた、須永君、立ちなさい!!!」
と言われました。
一番後ろの席に座っていたので、立ち上がるとみんな振り返ります。
おそるおそる、立つと・・・
「この絵が今日の、1番です。
みんな、同じような絵を描いてもいけません。
この、須永君のように、人には描けないハッとするような絵を描きなさい。
須永君、君の絵は必ず世の中に認められます。がんばりなさい。」
「え!!!、僕の絵が、1番!?」
びっくりしました。
約40人の教室のみんなもびっくりしていました。
そして、褒められたことで、とても自信がもてました。
今まで褒められたことなんてない人生でしたから。
河原先生は、それからも須永博士を応援してくださいました。
「自宅で、河原ゼミといって色々な画家を呼んで勉強会をしているので、君も来なさい。」と言ってくださり、等々力という場所の自宅に何度も尋ねていきました。
有名なプロの画家、現在も名のあるイラストレーターの人などが来ていて、本当に嬉しく、楽しかったです。
「みんなすごいなあ。
世の中にはすごい人がたくさんいるんだ。」
毎日が輝き、希望に満ち、自分にも少しづつ、少しづつ自信が持ててきました。
・・・・
セツ・モードセミナーという学校は現在も、故・長沢節先生の遺志を引き継ぎ存在しています。
河原淳先生も、2006年に亡くなるまで、須永博士に手紙を下さったり、応援してくださっていたそうです。
私も、この記事を書くにあたって初めて調べてみました。
須永博士の話していた「スタイル画」は、現在の須永博士の絵とはまったく違うものですが、この時に学んだ基礎は、しっかりと胸の中にあります。
羅漢絵(須永博士が50歳から描き始めた五百羅漢の絵)を書くときのデッサンなどに役に立っているんですね。
2年間の絵の勉強を終え、次は写真の専門学校に通う決意をします。
その訳、それから・・・、明日へと続きます。
(今日の画像は、ひとりぼっちの愛の詩 3集より。)
この出来事が 現在の須永先生のイラストなどにも脈々と息づいていますよね。
これまで ダメだダメだ と言われてきたのに
初めて褒められたときの感動は 一生忘れられないほどの感動だったことでしょう。
さて 昨日は「全力」についてコメントしました。
『自分が持っている力を全て出し切る』と書きました。
そして『仕方ない と、いい意味で開き直り 気持ちを切り替えることが大事です。
また次のチャンスに賭ければいいのです。』
とも書きました。
たしかに ここぞというときには全力投球する必要があります。
でも、人生 そんなときばかりじゃないですよね。
ある程度のところで「妥協」することも必要です。
妥協=手抜き ではありません。
世の中で成功する人は 仕事と趣味(息抜き)を両立できる人。 ということを聞いたことがあります。
しっかり働いたあとは 頭と身体を切り替えて
趣味や娯楽に没頭すること。
仕事を引きずらないことが重要です。
一見 時間をロスしたように感じるこの行動ですが、
案外 ストレスが発散され 仕事の効率が上がります。
やるときは しっかりやる。
休むときも しっかり休む。
簡単そうで なかなか出来ないことですね。
休養のしかたは 人それぞれです。
私みたいに、簡単に小国へ行けない人は
須永先生の詩集を開くだけでも 心が安らぐでしょう。
本を開く体力さえ残っていない人は、ボーと過ごすひと時があっても無駄ではないと思いますよ。
目線を机の上から 窓の外に移すだけでも 随分違うと思います。
ご自分なりの休養・ストレス発散の方法を見つけられることを おススメいたします。
まだ肌寒い三月初旬、全日本アンサンブルコンテストで金賞を受賞した県立盲学校アンサンブル部の練習をのぞいた。
体育館でストーブをたきながら、七人の部員が本大会に向け、演奏に明け暮れていた。
音のバランスや強弱まで、メンバーが意見を交わす。
客席には聞こえないような、息を吸うかすかな音を頼りに演奏が始まる。
マリンバやバスドラムなど十四種類の打楽器が織りなす音の迫力と精密さに圧倒された。
同部が、コンテスト初出場で金賞を受賞したのは三年前のこと。
演奏の反響は大きく、翌年から同じ演奏曲で出場する団体が相次いだ。この曲は 同部を指導する打楽器奏者の冨田篤さん(33)が、部員のために作曲したものだが「他団体が採用するのは珍しい。楽譜の表紙に彼らの演奏写真を張って出場するファンもいる」と、関係者も驚くほどの人気を見せている。
一方、現在のアンサンブル部は当時のメンバー一人を残し、全員が入れ替わった。
現部員にとって “日本一”はあくまで先輩の偉業。
要請を受け学外で演奏することもあったが、全員で達成したわけではない「金賞」という看板は、何となく荷が重かったという。
部員のうち二人は全盲、残り五人は視野が狭かったり、昼夜で視力が異なったりする。
目の不自由な状態でどうタイミングを計って合奏するのか―という疑問が先ず浮かんだ。
しかし、実際の演奏を聞くと、障害の有無という意識は消えた。
何よりも心に響くのは鋭敏で洗練された「音の感覚」だった。
障害の克服という見方にとらわれた自分の取材に反省もした。
本番当日。阿蘇の雄々しい火山と雲海の風景をイメージした冨田さんの楽曲で、七人は見事に実力を発揮した。
演奏後、約二千人の聴衆から拍手が鳴りやまなかったという。
「健常者と対等に競うことができる場所で力を出し切りたい。」
出場前のメンバーの言葉が印象に残っている。
自分の感性を磨き、夢を実現した彼らに、心から拍手を送りたい。
3月30日 熊本日日新聞 取材前線より
担当:勝木みゆき(文化部)