令和4年3月23日(水)
高度成長期、私の地元である富士市は製紙業が盛んで、「日本一の紙の街」として地域経済を牽引してきました。製紙業に関しては日本経済を牽引してきたといっても過言ではありません。
一方で、その副産物として大気汚染や水質汚濁などの公害をもたらしてきた現実があります。市内の工場から流れ出た汚水は、それぞれの河川を流れ、ほぼ全てが田子の浦港に集まり、港湾には排出物が浮遊し、また港底にはヘドロがたまり、常に悪臭を放っていました。
富士山を仰ぎ見る田子の浦は、山辺赤人の歌にあるように、また、多くの人が駿河湾沿いの白砂青松と富士山を眺める度に、日本の誇りを感じていたこととは裏腹に、近代、足下では公害が発生していました。
この状況をいつまでもそのままにしておくわけにはいきません。富士市は当時、日本一厳しい環境基準を設定し、行政と企業、市民が一体となって環境の改善を図ってきました。あれから半世紀近く経過し、ようやく最後の負の遺産が解消することになります。
田子の浦港を管理する県は、令和4年度、田子の浦港のクリーン宣言(仮称)をすることになり、私は県議会2月定例会建設委員会で、その意義と活用について当局を質しました。
県の担当者の答弁では、田子の浦港の公害対策事業は、平成15年から港内に体積している汚染底質、約54万2000立方メートルの除去を進めており、令和2年度までに鈴川地区以外の54万1000立方メートルの除去を完了し、有識者で構成される田子の浦港底質浄化対策委員会に事業の達成状況を報告している。
残りの鈴川泊地については、3月3日に除去が完了したため、現在、除去完了を確認するための底質調査を実施している。これも今回、この完了、底質を全部除去することによって、今後、田子の浦港のさらなるイメージアップとなるよう、富士市や漁協など関係者とPR方法を十分調整した上で、今後決定していこうと考えている。
過去、田子の浦港はヘドロやダイオキシンという、そういう負のイメージがあるので、ぜひこれについて、払拭するような対応を今後、考えている。
これに対し私は、半世紀以上、引きずってきた話が、ここでようやくリセットとできると思っている。港湾の活性化は、例えばクルーズ船の話とかがあるが、やはり負のイメージを何とか払拭しないと、田子の浦港の特性も含めた中で、あの地域のまさに富士山に一番近い港のイメージが、いつも何か後ろめたさを感じていた地元の1人であった。この課題が解消できることをきっかけに、港の活性化、特に観光面等についても働きかけをしていただきたいということを要望しました。
汚染底質の除去が平成15年から始まったとありますが、港湾の浚渫は昭和40年代に始まっています。その多くは、富士川河口に安全対策を講じて埋め立てられ、現在のスポーツ公園になっています。しかし、港底に溜まった濃度の濃い汚染物質の処理は、法整備が整った以降でなければ処理ができず、ようやくそれが整い平成15年から最後の処理が始まったという背景があります。
「へドラ」という怪獣が田子の浦港で生まれたという題材の怪獣映画が懐かしく思えますが、ようやく、ここで昔の田子の浦が戻ってくることになり、地元民の一人として大変喜んでいます。