白雲去来

蜷川正大の日々是口実

正気時に光を放つ

2019-02-26 10:19:32 | 日記
二月二十四日(日)晴れ。

今日も良い天気だ。沖縄の住民投票と言う「政治ショー」など無視して、朝から贅沢に、カツオのズケ、マーボー豆腐、大根とお揚げの味噌汁。午前中に、四十分ほど歩いた。昼食は抜いた。夜は、正気塾の若島和美さんの古希の祝いがあり東京行き。

新宿からタクシーに乗ったが、運転手さんが場所が分からず、ナビを入れたが、これが全く役に立たず、変な所で下ろされてしまい。ウロウロ二十分近くも歩いてしまった。会場となったお店は、とても素晴らしく、高級料亭のような感じだった。諸先輩や同志諸兄にご挨拶をして着席。

昨年の九月に、阿形先生らのお世話で、若島さんと共に北京を訪れる機会を得た。その折に、日本文化を研究している各界の人たちとの討論の後に、訪中団を代表して阿形先生と若島さんが中国側の求めに応じて揮毫をすることになった。私は、若島さんがどういった言葉を書くのかと傍で見ていた所、若島さんが書いたのは「正気時に光を放つ」。

いうまでもなく、正気塾の名前の謂れとなった中国は南宋後期の政治家・軍人として有名な文天祥の正気の歌に和した藤田東湖の「正気の歌」の一節である。文天祥の「正気の歌」は、わが国でも、男児の志操、つまり志の堅さを表すものとして、吉田松陰、藤田東湖、日露戦争の折の広瀬武夫と言った人たちが、和して同様の詩を書いている。文天祥は、滅亡へと向かう宋の臣下として戦い、宋が滅びた後は元に捕らえられ何度も元に仕えるようにと勧誘されたが忠節を守るために断って刑死した殉国節義の人として知られている。

若島さんもまた、平成二年に、不敬発言をした当時の長崎市長に天誅の一撃を加え、十二年という囹圄を経験した。その志操の堅さは、文天祥に勝るとも劣らない。若島さんが戦線に復帰後の、東奔西走、縦横無尽のご活躍は、あらためて私が説明をするまでもない。これからも健康に留意なされて、民族派運動の指導者、コーディネーターとしてご活躍をして頂きたいと思っている。

終了後に、無理を言って吉岡亜樹さんと蒲田へ。お店の終了近くに仲程通也さんが合流。自宅まで送って頂いた。申し訳なし。

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