三月二十八日(木)晴れ。
私が道の兄と慕った、元楯の会の阿部勉さんは、結婚式などでスピーチを頼まれると、「歌を歌います」と言って必ず「惜別の歌」を歌った。その場違いな歌は、シャレの分かる人たちに大いにウケたものだった。その「惜別の歌」は、小林旭が歌ってヒットし、昭和三十七年(一九六二)に同名の映画が公開された。
今でも送別会などで歌われているその「惜別の歌」は島崎藤村の「若菜集」の中にある「高殿」という詩に曲をつけたものである。元の詩は「悲しむなかれ我が姉よ」が、「我が友」に代わっている。その詩に曲をつけたいきさつが、以前、産経新聞の湯浅博氏のコラム「くにのあとさき」で読んで、とても感動した。
「歌には、終戦間際の若者たちの過酷な歴史が刻まれていた」と。戦時中、勤労動員された中央大学の学生、藤江英輔が、藤村の詩に曲をつけた。当時、藤江は学生仲間に召集令状の赤紙を配る役割を担わされていた。赤紙が配られると、誰もがその刹那に青ざめたものだという。それでも藤江は「おめでとう」と言わざるをえない。その心の葛藤が、友を戦場に送り出す「惜別の歌」を生んだ。
戦場に行く友へ、「旅の衣を整えよ」の「旅の衣」とは、軍歌「出征兵士を送る歌」の中にある、「華(はな)と咲く身の感激を、戎衣(じゅうい)の胸に引き緊(し)めて」の「戎衣」(注・戦争に出る時の衣服・軍服のこと)であったに違いない。
酒が入り興にのればその「惜別の歌」を良く歌った。しかし、そのいわれを知った時から、胸が詰まって、余り歌わなくなった。私の好きなブログに「二木紘三のうた物語」というものがある。様々な歌のエピソードが書かれており、とても勉強になる。そこに「惜別の歌」に曲をつけた藤江英輔氏の原稿が掲載されている。是非、読んで頂きたいと思っている。
下の子供を連れて、事務所に寄ってから松原商店街に晩酌の肴を買いに行った。カツオを発見。長ネギと生姜も買って帰った。しかし、しかしだ。やはり今時のカツオ。色も味も悪かった。仕方がないので、少しだけ刺身にして、残りを「ズケ」にした。あーあがっかりな夜だった。