白雲去来

蜷川正大の日々是口実

辻さんのこと。

2012-11-29 11:34:16 | インポート

十一月二十八日(木)曇り。

 

二十六日のブログは、かつて弊社の編集長だった辻想一さんの訃報についてふれたが、実は、それを書いたのは二十八日のことだった。その日の午後、何と辻さんが働いていた会社の社長から、辻さんが今月の十八日に亡くなられたことの知らせと、訃報が掲載された新聞が送られてきた。偶然とはいえ「虫の知らせ」というものが本当にあるものだと少し驚いた。

 

辻さんのことで思い出すのは、野村先生の遺著となった「さらば群青」の「帯」に書かれた文章のことである。余談ではあるが「さらば群青」は、先生が自決なされた日、すなわち平成五年の十月二十日が発行日となっている。これは多分、三島由紀夫が、「豊穣の海」四部作の最後となった「天人五衰」の発行日を、市ケ谷台での決起、自決の日としたことを意識したものではないかと思っている。

 

発行日は十月二十日となっているが、実は、半月ほど前に出来上がっている。そうでなければ発行日とされている日に書店には出回らない。完成する前の校正で、本の帯に書かれた文章を見て、先生は、「これじゃあ辻ちゃんに殺されちゃうなぁー」と呵々大笑した。そこには「戦闘的ナショナリストの遺書」とあったからだ。

 

辻さんが、先生の決意を知っていたかどうかは分からない。恐らく知らなかったのではないか。奥さんはもちろん、私を含めて事務所の者は誰一人として、気が付いた者はいなかった。直前になって秘書の古澤俊一が察しただけであった。私は、辻さんの最初の仕事である先生の単行本にインパクトを与えようとして、そういったコピーを用いたのではないかと思っている。普段から先生は、私たちに「俺はお前たちに、民族派としての生きざまを見せてきた。最後に見せられるのは死にざまだけだ」ということを言っていた。きっと辻さんも聞いたことがあったと思う。そういった先生の日々の言動から「戦闘的ナショナリストの遺書」という言葉を使用したのだと思う。

Photo※辻さんが書いた「さらば群青」の帯。

 

辻さんは、先生に関する取材の依頼があっても一切応じなかった。先生の本の帯に「遺書」と書いたことによる辻さんの自責の念が、亡くなられるまで先生のことを語らずにいたのではないだろうか。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

Photo_2※送って頂いた辻さんの訃報記事。「元株式会社二十一世紀書院編集長」とある。

夜は、奥方が仕事で地方に行って一人留守番をしているカメちゃんを誘って「颯」へ。その後「やまと」に転戦してから帰宅。

 


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やっぱり小沢か?

2012-11-28 11:10:50 | インポート

十一月二十七日(火)晴れ。

東北や北海道では、低気圧でものすごいことになっていることをニュースや、札幌在住の社友、梶浦、雪田両兄のフェイスブックで知った。室蘭や登別などでは風速四十メートルもの暴風雪に見舞われ送電線が切れたり、電信柱が倒れたりで大規模な停電となっているらしい。この寒さの中で停電とはさぞかし大変だろう。電線などは地下に埋めたらいかがと以前から思っていた。電信柱が街の景観を汚しているかはご存じのとおり。全国で共同溝の工事をやったならばどれほどの雇用が生まれるか。専門家ではないから確実なことは言えないが、マイナスにはならないと思う。


一日、パソコンの前に座って仕事。滋賀県知事の嘉田由紀子知事が新党「日本未来の党」を結成したとの報道。「脱原発」だけで主義主張の違う人たちが一堂に会するというのも茶番だが、私は、この仕掛け人は小沢一郎ではないかと思っている。この大事な時に、小沢は、ほとんど何も発せず、動きらしい動きをしてこなかった。ともすれば、自民、民主、維新の勢力の中に埋没してしまう恐れのある「国民の生活」が、このまま黙って選挙戦に入るとは思ってもいなかった。私には、嘉田知事の会見を見ていて、「やっぱりな」という感を覚えざるを得なかった。


好むと好まざるも、現在の政治家の中で力量としては、私は小沢が一番だと思う。しかし、残念ながら彼には「徳」と「華」が欠けている。所詮は清河八郎でしかないような気がする。国運がかかっていなければ、今回の選挙ほど面白いものはないだろう。しかし「脱原発」なとではなく、国の在り方や国防、外交と言う国の根幹をなすもので争って貰いたいものだ。


夜は、寒いので「おでん」を作って一杯やった。そう言えば、錦糸町の美人スナック「223」のママさんからキムチとカクテキをどっさりと送って頂いた。先日、川崎で「キムチ祭り」があって、評判の「慶」のキムチを原品君が並んで買ってくれた。このキムチも美味しいが「223」のキムチも絶品である。辛いだけではなく甘さの中に、様々な想いと味がある。一度食べたならばやみつきになる。最近は、錦糸町と言えば「223」がすぐに頭に浮かぶ。キムチだけではなく、美人のママさんとオネエサンとのお酒も楽しいですよ。


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また訃報が・・・。

2012-11-28 10:17:09 | インポート

十一月二十六日(月)晴れ。

 

先日、一水会の木村会長から珍しく早朝に電話が入り、何事かと思ったら、野村先生がご存命の頃に、赤坂のみすじ通りにあった二十一世紀の編集長であった辻想一さんが今月の半ばに亡くなられたとのこと。辻さんは野村先生の遺著となった「さらば群青」を編集した人でもある。


先生が亡くなられてから約一年ほどは、みすじ通りで頑張っていたが、何と言っても経費がかかり過ぎて事務所を赤坂の七丁目に引っ越し、その際に退社された。それから年に一度の群青忌などで顔を合わせていたが、もともと民族派の人ではなく、また仕事が違うという事もあって疎遠になっていた。


その辻さんと最後に話したのは、虫の知らせだったのか先月のことだったと記憶している。それは、先生のなくなられた十月二十日に、当日開催されていた全日空ホテルでのシンポジュウムの会場の予約が先か、朝日新聞側との面談の日が決まったのが先かという単純な疑問の解明のためであった。


私は、神風特別攻撃隊の命令が下った十月二十日と言う日をあらかじめ先生が設定して、朝日側との面談、シンポジュウムの会場設定をしていたと思うのだが、中小企業の社長ではなく、朝日新聞社の社長が、果たして野村先生のスケジュールに合わせたのだろうかと言う疑問を当時、編集長だった辻さんに電話して聞いたのである。


辻さんから、「当然、朝日に非があり、当時の野村先生の力ならば、そのくらいのことはできた」という答えが返ってきた。私もそう思っていたので、あらためて納得したのである。このいきさつはことは、いずれ書いてみたいと思っている。そんな話をしながらお互いの近況を語り合ったばかりである。しかしご自身の病気のことなどはおくびにも出さなかった。その辻さんが亡くなられた。


当時の野村事務所には、先生が最も信頼していた小山内さんと言う事務員がいたが、私が、事務所を東京から撤退するときに、ご主人の仕事の関係で、ご主人の郷里である青森に帰った。その後、胃がんで入院していることを聞き、愚妻の郷里がやはり青森という事もあって、帰郷するときにお見舞いに行ったが、亡くなられてしまった。お寺の住所をご主人に聞いて二度ほどお墓参りに行ったことがある。天国で、辻さんや小山内さんが野村先生と一緒に新しい本の話などをしているかもしれない。合掌。


夜は、月に一度の町内の仲間との飲み会。いつものラーメン屋さん「たつ屋」に集合してたわいもない話で盛り上がる。その後、近くの「魚くま」に転戦。十時過ぎに帰宅。


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三度目の忘年会へ。

2012-11-26 13:12:10 | インポート

十一月二十五日(日)晴れ。憂国忌。

 

今日は、憂国忌。あらためて言うまでもないが、三島・森田両烈士が「憲法の改正」などを訴えて自決なされた日である。日本学生同盟に関係する人たちが毎年、追悼祭「憂国忌」を行っている。この「憂国忌」は、今や季語として定着している。いつの日か、野村先生の追悼祭「群青忌」も広く国民の間に定着してもらいたいものだ。

 

今日は、六時半から二子玉川駅近くのレストランで、大行社の世田谷支部主催の忘年会があり出かけた。横浜から東急線に乗って自由が丘へ、ここから乗り換えて二子玉川へ。高校生の頃に、二子玉川の手前の上野毛駅近くにあるドライブインでアルバイトをしていたことがあった。

 

自由が丘に早く着くと、駅前にあった古書店に行き暇をつぶしたり、お金がある時は「5スポット」というジャズ喫茶に入った。今もあるのだろうか。上野毛で降りて玉美大の前を通ってアルバイト先へ行った。土曜日などは、朝まで働いて始発が通るまで、お店の周りを散歩したが、さすがに高級住宅街とあって、豪華な家を見て圧倒されたものだ。

 

後年、玉川高島屋の道路を隔てた前にあった「菩提樹」というレストランが好きで通った。地下に続く壁には日本鋼管の溶鉱炉の煉瓦が使用されていたり、椅子が日本商工会議所の椅子だったりで凝った造りのお店だった。書画骨董がお店のインテリアとなっていて中国の思想家で日本に亡命した胡蘭成の書があったことを覚えている。エビフライが特大で感激したものだ。このお店もまだあるのだろうか。

そんなことを思い出しているうちにニコタマ着。会場へ。大行社の人たちに挨拶して「もつ鍋」を囲む。帰りは、明鏡会の仲程通也会長や菊水国防連合の大塚正美氏らに送って頂き帰宅。


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しゃぶしゃぶの食べ放題。

2012-11-26 12:36:32 | インポート

十一月二十四日(土)晴れ。 野分祭。

今日は、野分祭。昭和四十五年十一月二十五日に、当時市ヶ谷にあった自衛隊の東部方面総監室において三島由紀夫烈士と共に自決なされた森田必勝烈士の自決前の思いや、心境に連帯しようと、烈士の辞世の歌から「野分祭」と名付けられた追悼祭の日。


一水会の主催で行われ、私は初期の頃から参加している。残念ながら、今回は大熊雄次氏に出席を依頼して心参した。隠岐康氏は「群青忌実行委員会」の名前で生花を奉納。


先日の、いわゆる「いい夫婦の日」が長女の誕生日だった。平日なので、食事にも出かけることが出来なかったので、今日となった。子供たちのリクエストで「しゃぶしゃぶ」を食べに出かけた。さあて、何処へ行こうかと悩んでネットで検索してみたら、みなとみらいのワールドポーターズにある「しゃぶ葉」というお店があったので、出かけてみた。六時前に着いたのだが三連休とあってすごい人手である。それでも二十分程で席に案内された。


一人、二九九〇円で九十分食べ放題。しかし我が家は女性が三人で男は私だけ。食べ放題と言っても、それほどの量は食べられない。考えてみたら普通のお店に行った方がのんびり食べることが出来たかもしれない。まあこんな店があるという事を知っただけでも良かったか。


一時間ほどで、店を出て、みなとみらいを散歩。街はすでにクリスマスモード。イルミネーションがとてもきれいだった。そのまま帰宅。

Dscf5080※こんな感じでした。


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