白雲去来

蜷川正大の日々是口実

力を過信するものの末路は哀れ

2010-09-30 09:21:39 | インポート

九月ニ十九日(水)晴れ。

 秋晴れの良い天気である。この季節の晴天は気持ちが良い。空には羊雲が浮かんでいた。午前中は、印刷所から送られてきた「大吼」の秋季号に執筆して頂いた各界の諸先生に、お礼状を添えて発送をした。

 執筆者の方々のみならず、お世話になっているマスコミ関係者や同志の方々にも、簡単な手紙を添えて送らせて頂いた。今回の「心に残る一冊の本」の特集は、四十二名の方より原稿を頂いた。自画自賛しても仕方がないが、今回の特集には力を入れた。第一線で活躍している方々が、どのような本を感動して読んだか、また本によって勇気付けられたのか。機会がありましたなら是非ご一読を賜りたい。

Img421_2 ※是非ご一読をお願い致します。

 尖閣問題で、中国側のトーンが下がってきたという。それはそうだろう、このまま理不尽な強硬手段を続けていたならば、日本の国民の全てが反中国となってしまうからだ。その空気を察したに違いあるまい。確かに、昨今、軍備の拡大を続け、核兵器も保有している中国は、我が国の軍事力を凌駕している。

 また、「レアアース」といった貴重な資源を独占して、日本の経済に圧力をかけられるかもしれない。しかし、こんなことは、一瞬の出来事でしかないのだ。日本人の頭脳をもってすれば、かならずや中国に頼らずとも、ハイテク機の生産も中国の資源に頼らずに済むに違いあるまい。その証拠に、レアアースを使用しないハイブリッド車の開発に成功したと新聞報道にあった。更に、軍事力を背景に理不尽な外交を続けていけば、国際間の信用は失墜し、どれほど自国の経済にダメージを与えるかは自明の理である。

 今回、漁船の船長の逮捕の報復として行ったレアアースの禁輸の教訓は、我が国のみならず、中国からレアアースを輸入している全ての国に、警戒感を与えただろうし、中国と言う国は、信用ならないというイメージも与えたのである。結果、それらの国々は、中国との貿易を見直し、経済の中国離れが加速するに違いない。

 力を過信し、力で他を圧倒するものは、必ず力によって倒されることを歴史が証明している。 それは個人でも国家でも同じことと言える。一瞬頭を下げたとしても、腹の中では軽蔑されていることに気がつかないから始末が悪い。礼を持って接すれば、必ず、礼をもって遇されることを、実践しない者は、尊敬の対象ではなくなる。

 「阿Q正伝」を書いた小説家、魯迅の言葉として知られているのが「水に落ちた犬は叩く」。つまり、「苦境に陥っている者を、さらにいじめる」という意味に使われるが、現在の中国共産党の体質を良く表している。力を過信したものの末路がいかに哀れなものであるか、中国の過去の歴代王朝が示している。

 午後は、お世話になっている方に、ご挨拶に出向いた。いつも、勉強させて頂き感謝している。帰宅後は、真面目に机に向かった。八時すぎから、月下独酌。


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「大津事件」もう一つのエピソード。

2010-09-29 10:51:42 | インポート

九月二十八日(火)雨のち曇り。

 二十四日の、ブログに、明治時代に日本に来訪したロシアの皇太子を切りつけた、いわゆる「大津事件」について書かせて頂いた。当時の我が国の司法当局者が、政治家の圧力に屈せず、司法の独立を守ったことを当時の国際世論は評価したのである。

 

 歴史に学び、それを教訓とすることは誰もが考えることで、二十八日の「産経抄」にも大津事件に触れて書いてあった。産経抄では、「大津事件で犯人の津田三蔵には無期判決が下った。死刑を望んだ政府の圧力に抗し、大審院長、児島惟謙が『司法の独立』を守った、と歴史の教科書にある。今回の中国漁船の衝突事件は、『その場しのぎの男たち』が中国に屈した、最悪の外交の事例として、紹介されることだろう」と書いた。

 その大津事件には、もう一つのエピソードがある。

 来日中のロシアのニコライ皇太子が暴漢に襲われて重傷を負う事件が発生(大津事件)、日本中が騒然となった。そうした中、ロシア皇太子が本国からの命令で急遽神戸港から帰国の途につくことになった。

それを知った畠山勇子という二十七歳の女性は、帰郷するからと奉公先の魚問屋を辞め、下谷の伯父の榎本六兵衛宅に押しかけた。榎本は貿易商で、島津・毛利・山内・前田・蜂須賀ら大名家が幕府に内緒で銃を買い入れていた武器商人で、維新後は生糸の輸出で財をなしていた。

勇子は伯父ならば自分の気持ちを理解してくれるだろうと考え、「このまま帰られたのでは、わざわざ京都まで行って謝罪した天皇陛下の面目が立たない」と口説いた。

伯父は一介の平民女性が国家の大事を案じてもどうなるものでもあるまいと諫めたが、思い詰めた勇子は汽車で京都へ旅立った。

勇子は、一八六五年、安房国長狭郡鴨川町横渚(現・千葉県鴨川市)に畠山治平の長女として生まれる。畠山家は鴨川の農家で、かつては資産家であったが、明治維新のおりに私財を投じたため、生活は貧困であったという。五歳で父を失い、十七歳で隣の千歳村(現南房総市)の平民に嫁いだが、うまくいかず二十三歳で離婚。東京に出て華族の邸宅や横浜の銀行家宅の女中として働いた後、伯父の世話で日本橋区(現・中央区)室町の魚問屋にお針子として住み込みで奉公する。

父や伯父の影響で、政治や歴史に興味を持ち、政治色の強い新聞などを熱心に読み、店の主人や同輩たちから変人とみなされていた。大津事件が起こるや、国家の有事としきりに嘆いたが、周囲は「またいつもの癖が始まった」と相手にもしなかったという。

勇子は京都で様々な寺を人力車で回った後、五月二十日の午後七時過ぎ、「露国御官吏様」「日本政府様」「政府御中様」と書かれた嘆願書を京都府庁に投じ、府庁前で死後見苦しからぬようにと両足を手拭で括って、剃刀で咽喉と胸部を深く切って自殺を謀った。しかしすぐには死ぬことができず、すぐに病院に運ばれて治療が施されたが、傷の深さゆえ出血多量で絶命した。享年二十七。

当時の日本はまだ極東の弱小国であり、この事件を口実に大国ロシアに宣戦布告でもされたら国家滅亡さえ危ぶまれる、彼女はそう判断したのである。伯父や母、弟にあてた遺書は別に郵便で投函しており、総計十通を遺していた。

その壮絶な死は「烈女勇子」とメディアが喧伝して世間に広まり、盛大な追悼式が行われた。

墓は末慶寺(京都市下京区万寿寺櫛筍上ガル)にある。彼女の墓にはラフカディオ・ハーン(小泉八雲)やポルトガル領事・モラエスも訪れている。モラエスはまた、リスボンの雑誌『セロエーズ』 Seroes に彼女を紹介している。

彼女の死は、ニコライ皇太子に宛てた遺書やセンセーショナルな新聞の報道などによって国際社会の同情をかい、ロシア側の寛容な態度(武力報復・賠償請求ともになし)につながったとの評価もあるそうだ。


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いざわが友よ、まず一献。

2010-09-29 10:31:22 | インポート

九月二十七日(月)雨。

 昨日の、晴天から、一転して雨である。休日の雨は好きだが、今日のように朝から忙しい日の雨は、イヤガラセのように思えてならない。毎月、二十七日は、支払いの日でもあり、朝から、郵便局や銀行、加えて、歯医者にも行かねばならず、夕方まで駆けずり回った。

 

 夜七時に、来訪した盟友と待ち合わせて、後輩の尼野保氏の店で、簡単な打合せ。世の中が不景気になると、今まで「安い」部類に入っていた保氏の「炉端焼き」などの店よりも、もっと安い店が巷に溢れて、苦戦しているとの事。保氏とは、亡くなられたご母堂が元気に店を切り盛りしている頃からのお付き合いである。頑張って良い店にして欲しいと思っている。

 

 盟友氏と、その友人とで、久しぶりに、若葉町の「たん右エ門」へ行く。世の不景気などどこ吹く風で、八割方席は埋まっていた。オヤジや親しい従業員にご無沙汰を詫びて、いつものコースを堪能した。九州男児のオヤジは、このたびの尖閣問題に悲憤慷慨していた。これが日本人の平均的な感覚だろう。

 

 その後、関内に転戦。早目に酔ったので、サリーの店に寄らずに帰宅。


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覇権の国の人、情の国の人を侮るなかれ。

2010-09-29 09:54:50 | インポート

九月二十六日(日)晴れ。

 朝の十時から、東京の平和の森と言うところにある葬儀場にて、去る七月十七日に亡くなられた、大行社の広報事業局局長の倉原邦雄氏の葬儀が行なわれて、有志らと共に出席した。倉原氏とは、長いお付き合いをさせて頂いた。個人的には、それほど親しいという間ではなかったが、共通の友人が多く、運動の場はもちろんのこと、祭りや様々な会合でご一緒させて頂いた。お元気だった頃の倉原氏を思い出しつつ、六十二歳で幽明堺を異にした倉原氏の遺影に手を合わせた。

 

 ご焼香を早く済ませたので、自宅に戻ってから、近くの団地のお祭りに顔を出した。上の子供が、その団地のお祭りのアトラクションに子供が入っている吹奏楽部の演奏会がある。秋の陽射しが強く、炎天下での演奏は少々可哀想だったが、最後まで聞かせてもらった。終了の曲は「故郷」である。この歌は、唱歌の中で私が一番好きな曲である。

 

 大リーグでは、七回に観客が「私を野球に連れて行って」という歌を歌うそうだが、日本も、試合の途中に「故郷」を歌えばいい。特に海外の遠征には、始まりは国歌、閉会には「故郷」を是非歌ってほしいと思っている。「志をはたして、いつの日にか帰らん」と・・・。

 

 夜は、みなとみらいにあるレストランで行なわれた、パーティーにサリーファミリーなど、親しい人たちと共に出席。いつも行っている、みなとみらい地区にこんなレストランがあったとは知らなかった。灯台下暗し、とはこのことだ。二時間ほどで終了。サリー夫妻と一緒に、桜木町にあるすし屋で二次会。二次会の方が盛り上がった。

 

 ニュースでは、相変わらず尖閣諸島での中国の理不尽な行為が話題になっている。拘留していた中国人の船長を釈放したにも関わらず、逮捕された四人の日本人を釈放しようともせず、さらに今回の尖閣での事件に対して「謝罪と倍賞」を要求しているという。

 

 力を過信して、無理難題を相手に押し付けるという行為は、その国の国民から、一瞬の快哉、賞賛を得るかもしれないが、国際的な信用を失墜させ、必ずやしっぺ返しを受ける。自分達が大国であるという意識があるならば、隣人には情をもって接するべきものなのだ。力を誇示しても、相手から軽蔑されるだけで、友好など生まれようもない。そういった道理が分からないからこそ、いつまでも尊敬の対象とならないことを、自覚しなければならない。


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環境問題から、反中共へ。

2010-09-27 17:18:24 | インポート

九月ニ十五日(土)曇り。

 いやはや、チョット前までは、異常気象の残暑にヘロヘロ状態だったのに、この朝晩の寒さ。あわてて布団を出した。でも、このくらいの気温の方が良く眠れて助かる。これから、冬に向ってまっしぐらか・・・。

 

 今日は、東陽町で、山口申先生が主宰する憂国青年同盟の勉強会があり、夕方に自宅を出た。道が不案内で五分ほど遅れてしまった。

 

 民族革新会議の犬塚博英議長が昨今の中国の尖閣諸島における領海侵犯問題について講演。その他、中西輝政氏の著書「日本人として知っておきたい近代史」(PHP新書)を紹介して頂き、その中から、戦前の帝国大学の学生の意識調査や、明治の「三太郎」、すなわち、桂太郎、児玉源太郎、小村寿太郎のエピソードなどをお聞きした。

 

 次は、山口申先生の総括的なお話があり、終了後は、直会。この直会の料理を担当して頂いているのが、新宿の民族派の梁山泊と化している「フェボナッチ」のママさん。今日は、「芋煮」である。久し振りの鍋料理に舌鼓を打ちつつ、話題は運動論へ。

 

 犬塚議長より、十一月に横浜で開催される「エイペック」に、中国の首脳が出席する。もとより環境問題など、騒ぐ気はなかったが、今回の中国漁船の領海侵犯や中国政府の言いがかりに対して、断固、抗議する意味もこめて、「暴支膺懲・胡錦濤来日阻止闘争」として、全国の民族派の同志に檄を発すべき、という意見が出た。

 

 日本人の、怒りの声を横浜に集結させ、尖閣諸島は、我が国の固有の領土であるという認識を広く国民に訴える事が必要ではないか。あまり感心のなかったエイペックが、今回の尖閣諸島の問題で、イッキに領土保全、反中共という新たな展開となるかもしれない。

 

 いろいろな意味で、実りのある勉強会だった。


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