白雲去来

蜷川正大の日々是口実

靖国神社の桜の標本木は、神雷桜。

2024-03-30 11:02:57 | 日記

3月28日(木)曇り。

朝食は、抜いた。昼は、王将の丸餃子、シジミの味噌汁。夜は、盟友より送られた毛ガニ、タコとトマトのマリネ。お供は「黒霧島」の「EX」愚妻と酔狂亭にて対酌。まだヨコハマに桜の便りがない。

大東亜戦争の後期、戦局の悪化に伴い、日本海軍は対艦攻撃手段としての特攻兵器の開発・運用を本格化させていた。1944年8月に桜花の開発が開始されると、10月1日に実験・練成部隊として、百里原飛行場を基地にて第七二一海軍航空隊(神雷部隊)が編成された。特攻兵器桜花の実験開発及び練成部隊であるのみならず、後に実戦部隊も兼ねた。昭和20(1945)年3月21日、野中五郎を指揮官とした第一次神雷桜花特別攻撃隊出撃。陸攻18機、直掩零戦19機、間接援護零戦11機出撃するも、敵戦闘機の迎撃を受け、陸攻隊全滅、零戦10機未帰還、戦死者160名。

この通称、海軍神雷部隊の戦友たちが、戦後に靖国神社に奉納した桜が、開花予想の標本木となっている。一輪咲き、二輪咲いて、満開となる。「靖国神社で会おう」と約して散っていた特攻隊の人たちや、その戦友がこの時期に桜の花となって一人、また一人と帰り咲き、そして満開となって全員が揃う。桜は、日本人の心の花でもある。初陣の3月21日は、奇しくも私の誕生日でもあり、指揮官の野中五郎少佐の兄は2・26事件の首謀者の一人で自決した野中四郎大尉。神雷部隊の慰霊碑は、鎌倉の建長寺に建立されている。

貴様と俺とは同期の桜 離れ離れに散ろうとも 花の都の靖国神社 春の梢に咲いて会おう。(「同期の桜」)


  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

一杯一杯復(ま)た一杯。

2024-03-29 13:15:20 | 日記

3月27日(水)晴れ。

朝食は、サバの文化干し、新玉ねぎのオイスターソース炒め、大根の味噌汁。昼は抜いた。夜は、お世話になっている方と、自宅近くの「浜一寿司」にて一献会。8時過ぎに自宅に戻る。

今月が誕生日だったせいもあり、お世話になっている方々から、様々なお祝いのお酒を頂いた。私のスタンダードなお酒は「黒霧島」であるが、その「霧島」にも様々な種類があることを最近知った。高いのは「金霧島」で、1万円以上もする。そして「黒霧島MELT」。更に白、黒、赤、茜などがあり、「EX」と言うものもある。そして「黒霧島」の「原酒」というものも送って頂いた。いやーどれも美味すぎて、あっという間に飲んでしまう。そういえば、有名な李白の詩に「山中にて幽人対酌す」というものがある。ちなみに「幽人」とは、世俗を避けてひっそりと隠れ住む人。隠者の事で「幽霊」ではない。

両人(りょうじん)対酌して山花(さんか)開く 一杯一杯復(ま)た一杯 我酔いて眠らんと欲す 卿(きみ)且(しばら)く去れ 明朝意有らば琴を抱いて来たれ。

この詩を読むと、道の先輩で若くして亡くなられた、元楯の会の阿部勉さんを思い出す。しかし、李白先生、人を招いておいて(多分)、「酔って眠くなったから、君はひとまず帰ってくれ。明日また良かったら、琴を持ってまた来てくれ」。とは、随分身勝手だなぁー。それでも憎めない。阿部勉さんも、そんなところがあったが好きな先輩だった。

 

 


  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

盧溝橋(ろこうきょう)

2024-03-27 12:00:00 | 日記

3月26日(火)雨。

朝食は抜いた。昼は、冷食のエビフライにキャベツの千切り添え、新ワカメのスープ。夜は、仲良しさんたちとの月に一度の食事会。場所は、関内のイタリアン「ビートレ」。美味しかった。食後は有志にて「HIRO」に転戦。10時過ぎに帰宅。

かつてマルコポーロが訪れ、「世界一美しい橋」と驚嘆した北京郊外にある橋「盧溝橋」と聞いて、日本人の歴史好きの人なら、すぐに思い浮かべるのが、昭和12年7月7日に発生した日本軍と中国軍の衝突事件の、いわゆる「溝橋事件(ろこうきょうじけん)」であろう。その衝突事件は、比較的小規模な戦闘が繰り返された後、9日には中国側からの申し入れにより一時停戦状態となったが、その後も小競り合いが続き、幾つかの和平交渉が行われたものの、結果として日中戦争(当時の呼称は支那事変)の発端となった。ちなみに「事変」とは、非常事態や総覧のことを表す言葉で、「事件」よりも規模が大きく、また宣戦布告なしの戦争状態や小規模、短期間の国家紛争に用いられる言葉である。

先日、メルカリで買ったNHKの『漢詩紀行』の第六巻に、清の乾隆帝がその盧溝橋から月を眺めて詠んだ「盧溝暁月(ろこうぎょうげつ)」という漢詩があり、解説も良くてとても感動した。何年か前に北京を訪れたが、何で盧溝橋に行かなかったのかと悔やまれた。その橋のたもとには、乾隆帝の筆とされている「盧溝暁月」の石碑が建っているとのこと。中秋の名月の折には、多くの北京市民が盧溝橋から月を眺めることが恒例になっていると解説にあった。その「暁月」は、金沢八景ならぬ北京八景の一つに数えられているそうだ。※写真は、盧溝橋。


  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

菜種梅雨 寒し便器は桶である。

2024-03-26 12:31:13 | 日記

3月25日(月)雨。

この時期に雨が続くのは「菜種梅雨」という。野村先生の句集『銀河蒼茫』に「八下独居は如何にも古めかしい造りなり、一句」として「菜種梅雨 寒し便器は桶である」というものがある。いかにも時代を感じさせるもので、先生が入所した昭和30年代の千葉刑務所は戦前の佇まいを色濃く残していた。

春眠暁を覚えず。ではないが、のんびりと起きて、昼食を兼ねた遅い朝食は、天ぷらうどん。夜は、手羽先の塩焼き、新ワカメのしゃぶしゃぶ、鍋焼きうどん。お供は、「黒霧島」の「MELT」。新ワカメは、しゃぶしゃぶが美味しい。ポン酢、金のゴマダレの二種類で食べる。お湯に入れると、アッというの間に鮮やかな深緑色に変わる。これを観ているだけでも楽しい。残りは、ウェイパーを使ってわかめスープにした。午後から、かかりつけの病院へ常備薬を貰いに行く。

ある旅行記で知った本がある。新潮選書の『中華美味紀行』(南條竹則著)。古い本なのでネットで探そうと思ったらヒットした。700円ぐらいの物で早速取り寄せようとしたら、支払いがカードのみとなっていた。ネットで買い物をするときに、ちょっと怖くてカードを使わないようにしている。支払い手番号を貰ってコンビニで入金を心がけている。面倒なのだが、カードを使うと、怪しいメールが連日のように届くので、ネットの支払いは現金で行っている。返却したカード会社から、支払いの催促のメールが来たり、最近は、東京電力を装った会社から「支払いがされていません」とかの督促のメールが頻繁に来る。「他人を出し抜く」「利益のためなら手段を選ばない」というネガティブな意味合いで使われる言葉が、「生き馬の目を抜く」。嫌な時代になったものだ。※三上卓先生から野村先生に宛てた手紙。この時、野村先生が入っていた房が「八下10房」であることが分かる。


  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

好事魔多し。

2024-03-25 16:51:15 | 日記

3月24日(日)雨のち曇り。

寒い朝。梅は咲いたか、桜はまだかいな。大岡川の桜は枝ばかり。朝食は取らずに、福富町の焼き肉屋にランチに行ったが、店の女の子は無愛想で、肉も最低だった。怒鳴りつけてやろうかとも思ったが、家族の手前ぐっとこらえた。もう二度と行かねぇーよ。何とかさんの台所。

食後は、横浜駅の西口にある電気の量販店に行き、電池の切れた時計と、頂いた時計のバンドの調節をして貰った。ついでに高島屋の地下で、大好きな能登屋の「玉ねぎ天」と「もやし揚げ」を買い、東京に戻る子供と別れた。

自分にとってとても調子のよい状態の時、何をやってもうまくいくような、上昇気流に乗っているようなときに、妬みによる誰かからの邪魔や、慢心による気の緩みなどで、良からぬことが起きる。つまり、調子がよいときほど、邪魔をされたりミスをしたりして痛い目にあうもので、気を付けるべきだということを、先人は「好事魔多し」として教えてくれる。誰のことを言ってているのかお分かりかと思うが、ダーティーなこととは、全く無関係なイメージのあるオオタニサン。そんなことにめげずに、ホームランを量産してもらいたいとおもっている。


  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする