詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

草森紳一/嵩文彦共著『「明日の王」詩と評論』

2018-02-15 10:27:38 | 詩集
草森紳一/嵩文彦共著『「明日の王」詩と評論』(未知谷、2018年02月10日発行)

 草森紳一/嵩文彦共著『「明日の王」詩と評論』は嵩文彦の詩集『明日の王』と草森紳一の『明日の王』に対する批評が一冊になったもの。(ほかに嵩文彦の評論もあるのだが。)
 草森紳一の評論は、作品と嵩文彦のプライバシーを強く結びつけて展開される。父と子の関係が「神話」を目指して動いている。私は、こういう批評(評論)を読むのが「苦手」である。「意味」が強すぎて、窮屈に感じる。
 
 というわけで。
 草森紳一の評論がこの本のメーンなのだけれど、それには触れず嵩文彦の詩集についてだけ感想を書く。
 「明日の王」の書き出し。

深い緑の藻が繁茂している川を
清流が一杯に流れている
その流れを深い緑色の魚たちが
一斉に遡ってゆくのである
魚たちの骨は白く透けて見えている
緑色の肉の中で螢光を発しているのである

 「色」へのこだわりが感じられる。「緑」と「緑」が重なる。そうすると、そこから「白」が「透けて見える」。同じものが重なると、透明になる。そして「内部(構造)」を浮かび上がらせる。
 ここから、草森紳一が読み取っている「父-子」の「神話」が始まる。同じものが重なることで、同じをつらぬくものが強調される、ということなのだが、同じもの(男)だけでは、「父-子」は成立しない。
 同じは、「異質」を必要とする。
 こんな具合だ。

私は突然女のことを思う
女たちの赤い肉を透かして
白い骨が見えるのである

 「緑」に対して「赤」。補色によって、「緑」と「緑」の重なりが、より凝縮される。ここで見える「白い骨」は「女の骨」であると同時に、女と向き合う「緑の魚」の「白い骨」である。「男の本質」である。
 「父と女」(緑と赤)の出会いによって、「子(緑)」が誕生する。「緑」はやがて「赤(女)」と出会うことで「父」になる。そのとき「父と子」の「白い骨」は「神話」に昇華する。
 ただ「女(赤)」と「子(緑)」の出会いは、この詩ではすこし複雑である。「異性」に出会う前に、「母」という「女(赤)」に出会う。「母」をとおして「不在の父(神話)」を意識する。
 嵩のプライバシーとして、それは「事実」なのだろうが、あまりにも「神話」になりすぎるので、私は、そういうところへは踏み込みたくない。
 と、書きながら、かなり書いてしまった感じもするが。

 私が注目するのは、

一斉に遡ってゆくのである

緑色の肉の中で蛍光を発しているのである

白い骨が見えるのである

 という具合に登場する「……のである」という文体だ。これは、いったい、何なのだろう。「……のである」はなくても、「意味」は同じ、に見える。ない方が「事実」がすっきりと浮かび上がるような気がする。「……のである」があると「事実」というよりも、それを「認識している」という感じ、その「認識」の感じが強くなる。
 「自分はここにいる」という主張が強くなる。
 逆に言うと「事実」(世界)に溶け込まない。常に「世界」から自分を切り離している。「世界」を「認識」として向き合おうとしている。究極の「二元論」という感じ。
 肉体対精神、ではなく、世界対精神、自己以外対自己。自己にとって自己以外とは何なのか、と非常に強く意識している。自己を失わないという意識が強い。
 この意識のために世界の構造がより明確になる、とは言えるのだろうけれど、うーん、私には、これが窮屈に感じられる。我を忘れてしまう、という感じが私は好きなのだが、我を忘れることができない人間に出会い、ちょっと身構えてしまう気持ちなのだ。
 我を忘れない、というところに、一種の「清潔」を感じるというひともいるだろうけれど、私はたぶん「あいまい」なもの、「区別」のないものが好きなのだろうなあ。わけがわからなくなって、「誤読」する瞬間が好きなんだろうなあ、と自分のことを振り返る。
 で、そんな私が好きな作品は「水槽」。まあ、「誤読」した、ということだけれど。(もちろん、「明日の王」について書いたことも「誤読」なんだろうけれど。)

遠くまで歩いてみたい気がする
朝はいつも僅かながら男を促がすのである
男は昨夜の手紙を持って下駄を突掛ける

 この「手紙」は、後半にもう一度出てくる。

下駄の男がもっと歩きたいと思っていると
もうポストに着いてしまっている
手紙はいとおしまれながら闇の内腔に消えるのである

 「昨夜の手紙」は「昨夜書いた手紙」だったのだが、私は「昨夜読んだ手紙」と「誤読」した。
 「手紙」には大事なことが書いてある。それを確かめるために、男は「手紙」をもったまま歩く。「手紙」に書かれていることを「現実」に確かめる。「とおくまで」歩きたいが、それは意外と近い。
 歩き始めると、「手紙」に書いてあった通りのことが展開する。

薄汚れた商店の前に空地がある
そこに何時の間にか水槽が置かれているのである
薄暗い水の中に男の背中が見えた

 これは、水の中に緑の藻を見て、それから緑の魚を見るという構造に似ている。「水(透明)」が、それまで隠していたものを明らかにする。「薄暗い水」はかならずしも「透明」を意味しないが、水は「透明」という性質を持っている。(手紙も、それまで隠していたものを透かしてみせる。つまり、あばいている。秘密が書かれていたのだ。)

裸になって服を着ようとしているのである
女は男の脇に立って僅かに腕を動かした

 「裸になって服を着ようとする」は奇妙な言い方である。男は「裸だった」。なぜ裸だったかといえば、女とセックスしたからである。「裸になって」は女といっしょのベッドから出て、くらいの意味になるだろう。
 このとき、ここに描かれる男は「手紙」を読んだ男ではなく、別の男である。
 それを確かめるために、男は朝を急いでいる。
 そのとき、「手紙」を読んだ男は、「幻想」を見る。いや、見ようとする。

こんな澱んだ水槽には
大きな鮫が廻游していなければならぬ
今しも男の肩に牙を剥き
血が煙のように濁った水槽に漂わなければならぬ

 水槽の水が「澱ん」でいる。「濁っ」ているのは、水槽の中に映っている男が、「手紙」を読んだ男ではないからだろう。男にとっては、「敵(否定すべき)」男だからだろう。
 男が、別の男(恋敵?)を見てしまうのは、男にもそういう体験があるからだろう。人はどういうときでも、ただ「他者」を見つめるのではない。「他者」を見ることは「自分」を見ることなのだ。
 「手紙」は恋敵(あるいは、女)のことを書いているのかもしれないが、そのことばから男が思い描くのは、あくまで「自分」である。

 で。

 こういうことを考えると。
 草森紳一の評論は、この詩の中に書かれている「手紙」のようなものかもしれない。嵩は、草森の書いたことばをとおして、恋敵の存在(父?)を見る。そして、その恋敵(父)とは自分そのものであるという「神話」を確認している。
 草森の評論をとおして、嵩は自己を客観化しているということになるのかも。

 「誤読」というか、私の書いている感想は「論理」になっていないのだけれど。
 詩のことばをつまみぐいして、そこに私の「妄想」をねじ込んでいるのだけれど。

*


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目次

瀬尾育生「ベテルにて」2  閻連科『硬きこと水のごとし』8
田原「小説家 閻連科に」12  谷川俊太郎「詩の鳥」17
江代充「想起」21  井坂洋子「キューピー」27
堤美代「尾っぽ」32  伊藤浩子「帰心」37
伊武トーマ「反時代的ラブソング」42  喜多昭夫『いとしい一日』47
アタオル・ベフラモール「ある朝、馴染みの街に入る時」51
吉田修「養石」、大西美千代「途中下車」55  壱岐梢『一粒の』59
金堀則夫『ひの土』62  福田知子『あけやらぬ みずのゆめ』67
岡野絵里子「Winterning」74  池田瑛子「坂」、田島安江「ミミへの旅」 78
田代田「ヒト」84  植村初子『SONG BOOK』90
小川三郎「帰路」94  岩佐なを「色鉛筆」98
柄谷行人『意味という病』105  藤井晴美『電波、異臭、工学の枝』111
瀬尾育生「マージナル」116  宗近真一郎「「去勢」不全における消音、あるいは、揺動の行方」122
森口みや「余暇」129
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問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com











「明日の王」 詩と評論
クリエーター情報なし
未知谷

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