詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

池澤夏樹のカヴァフィス(84)

2019-03-13 09:49:23 | 池澤夏樹「カヴァフィス全詩」
84 隣のテーブル

見たところはやっと二十歳くらい。
だがわたしはちょうどそれだけの歳月の昔に
その同じ身体を楽しんだおぼえがある。

 と始まる詩に、池澤は、こう書く。

 二十年の歳月をへだてて昔日の恋人と同じ「身体」に出会う。主人公にはそれが同じであるという確信があり、衣服の下までが歴然と目に映じる。/しかしこれは既視感ではなく、肉体の型の分類の問題に属するのではないだろうか。論理の記憶とは異なって官能の記憶には脈絡がない。

 「論理の記憶とは異なって官能の記憶には脈絡がない」という文章に、私は考え込んでしまった。論理に記憶というものがあるのだろうか。論理というのは「記憶」のためにあるのではないか。何かを記憶するために論理をつかう。体験を(現実を)論理に整え、未来へ動かしていくために記憶がつかわれる。記憶しなくていいものは論理を必要としない。
 官能の記憶には脈絡がない、というのもよくわからない。官能には「いま」があるだけで、記憶というものはない。そのつど生まれてくるもの、けっして自分の好みを間違えることがない(記憶に頼って行動する必要がない)ものではないだろうか。
 「肉体の型」の問題ではなく、「肉体の動き」の問題だろう。「型」は変わるが、「動き」の根本は変らない。一度泳いだ人間は何歳になっても泳げる。一度自転車に乗った人間は長い間乗っていなくても乗れる。
 カヴァフィスは三連目で、こう書いている。

それがどこだったか思い出さなければ--この記憶の欠落に意味はない。

 「それがどこだったか思い出さなければ」とは言ってみただけのこと。思い出せなくても関係がない。「思い出」に意味はない。肉体(官能)は一度体験したことは忘れない。
 一連目に「その同じ身体を楽しんだおぼえがある。」とあるが、「おぼえがある」とは、いま官能が反応して動いているということだろう。官能は「いま」を生きている。だから、「それがどこだったか」というのは、どうでもいいことだ。官能には「いま/ここ」しかない。
 「ここ」は「隣のテーブル」だ。
 だから「既視感」ではなくて、「いま」「ここ」で、カヴァフィスの「官能」はセックスをしているのだ。



カヴァフィス全詩
クリエーター情報なし
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1 コメント

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池澤夏樹のカヴァフィス84 (大井川賢治)
2024-05-09 21:25:33
谷内さんの感想文ー論理に記憶はあるのだろうか?ー私も、谷内さんの反論に同意します。

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