詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

粕谷栄市『楽園』

2023-11-28 00:28:33 | 詩集

 

粕谷栄市『楽園』(思潮社、2023年10月25日発行)

 粕谷栄市『楽園』の、一連の詩を「森羅」で読み始めたとき、「困ったなあ」と思った。感想はあるのだが(そして何回か書いたことがあると思うのだが)、ほんとうの感想はないのだ。「あ、これは、おわらないなあ」と思う。簡単に言えば「夢をみた」、その夢を書いているのだが、「夢をみた」ということを繰り返し読んでも、それから先に進まない。「ああ、そういう夢をみたんですね」と言えば、それでお終い。
 いや、そうじゃないんだなあ。
 「要約」してしまえば、そうなってしまうが、その「要約」を拒んで、ただ、そこにことばがある。「要約」を粕谷はすでに知っていて、それでもことばを書いている。「要約」したとき、そこからこぼれおちるもの(?)こそが詩だからである。こぼれおちるではなく「要約」のシステムでは掬い取れないものが詩だからである。
 それは、なにか。
 「小さな花」は、こうはじまっている。

 この世の日々をよく生きるためには、どんなささやか
なものでもいい、何かしら楽しみを持つことだ。
 誰もが、そう思うだろう。特に、心に悩みがあって、
苦しい暮らしを過ごしている者には、一層、それが、必
要だと言える。

 一段落と二段落のあいだには「飛躍」がない。ずるずる、っとつづいている。粕谷は読点を多用する。読点は、一種の「区切り」だが、そこにあるのは「見せかけ」の区切りであって、それは「区切る」というよりは、むしろ「接続」を促している。ずるずる、っとつながっていく。
 一連目の「楽しみ」と二連目の「こころに悩みがあって」の関係など、反対のことば(概念)が、ずるずるつながっているのだが、それが、わかるように、わからないように、なっている。

 だが、そのような人々に限って、そのための自由な時
間がない。それでも、何とか、努力して、それを見つけ
て、悦びを得ている男を、私は知っている。もちろん、
誰も気づかないような、ささやかな楽しみだ。

 ここまで進んで、何か変わったのかなあ。「男」が出てきて、「私」も出てきたのだが、「ささやかな楽しみ」というくらいだから、びっくりするようなことは起きない。言い換えれば、特に書かなければならないようなことは起きない。
 でもね。
 「ささやか」。そう、それは「ささやか」と書くことができる。大したことではない。書くようなことではない。でも「ささやか」と書くことができる。この「ささやか」は、ほら、一行目にもあった。循環する。つまり、終わらない。
 これだね、問題は。
 書くことはない。しかし、書くことはできる、と書くことができるだろうと書いたのはベケットの小説のなかのだれかだったか、戯曲のなかのだれかだったか、私はもう忘れてしまったが、粕谷が書いているのはそういうことだ。ことばを書くということは、終わらないことだ。終わらなくても、かまわない。結論がなくてもかまわない。「要約」なんか、意味がない。どんなときにも、どんなことでも、大事ではないこと、いらないこと(不要なこと)でも、書くことができる。
 つまり。
 ことばは、なんにでも「かかわる」ことができる。「ささやか」なもの。書かなくてもいいようなこと、終わらないようなことも書くことができる。変化があればあったと書くし、変化がなければなかったと書くことができる。そうやって、ことばで「時間」を埋めていくことができる。
 そして、これがいちばんの問題なのだが。
 そのことばで時間を埋めていくときの「リズム」、これが、粕谷の場合、変わらないのだ。粕谷は「関わり方」を変えずに、生きているのだ。よくもまあ、こんなに変わらないリズムのまま、「夢をみた」の「夢の対象」だけを入れ替えたような詩を延々と(ずるずると)書けるもんだなあ。
 書けるもんだなあというのは、私のいい加減な感想なのだが、粕谷は「いい加減」なことはせず、実にていねいにていねいに「ずるずる」と書く。繰り返しになるが「関わり方」を変えない。「生きるとは関わることだ、関わり方を変えると死んでしまう」と言っているようにも感じられる。
 だから。
 わああ、すごいなあ。よく飽きないなあ。よく、終わらないことをつづけられるなあ。この変わることのない「文体」というのは、やっぱり、すごいものだ、と私は思わず書かずにはいられない。

 一度だけ、短い夢のなかで、私は、菫の花の鉢を抱え
て、笑っている彼のすがたを見た。
 おそらく、死ぬまで、私が、それを忘れないだろう。
彼は、本当に、楽しそうだった。深く、心に残ることは、
夢のなかにあるということだろうか。

 ここに書かれていることばをまねして言えば、私は、粕谷がことばがつまった鉢を抱え、彼が知っているたったひとつのリズムにのせて、その鉢のなかのことばを全部つかってしまおうと遊んでいる姿をみた。ほんとうに楽しそうだ。私のこころに残るのは、そのとぎれることのない「ずるずる」のリズム、読点を多用して「ずるずる」ではなく「ぶつぶつ」を装った果てしなさを愛している粕谷の姿である。

 

**********************************************************************

★「詩はどこにあるか」オンライン講座★

メール、googlemeetを使っての「現代詩オンライン講座」です。
メール(宛て先=yachisyuso@gmail.com)で作品を送ってください。
詩への感想、推敲のヒントをメール、ネット会議でお伝えします。

★メール講座★
随時受け付け。
料金は1篇(40字×20行以内、1000円)
(20行を超える場合は、40行まで2000円、60行まで3000円、20行ごとに1000円追加)
1週間以内に、講評を返信します。
講評後の、質問などのやりとりは、1回につき500円。

★ネット会議講座(googlemeetかskype使用)★
随時受け付け。ただし、予約制。
1回30分、1000円。(長い詩の場合は60分まで延長、2000円)
メール送信の際、対話希望日、希望時間をお書きください。折り返し、対話可能日をお知らせします。

費用は月末に 1か月分を指定口座(返信の際、お知らせします)に振り込んでください。
作品は、A判サイズのワード文書でお送りください。

お申し込み・問い合わせは、
yachisyuso@gmail.com


また朝日カルチャーセンター福岡でも、講座を開いています。
毎月第1、第3月曜日13時-14時30分。
〒812-0011 福岡県福岡市博多区博多駅前2-1-1
電話 092-431-7751 / FAX 092-412-8571

オンデマンドで以下の本を発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804


(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455

(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977

 

 

問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com

 

 

 

 

 


コメント    この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 中井久夫訳『現代ギリシャ詩... | トップ | 田原『犬とわたし』 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

詩集」カテゴリの最新記事