唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

「唯有識無外境」、果たして三界は唯心か? (28)九難義 (8) 唯識所因 (7)

2016-06-05 10:32:34 | 『成唯識論』に学ぶ
   浄土宗洗心寺様掲示板より

 唯識所因難・六教証の中の『阿毘達磨経』に説かれる四智について。
 (一) 相違識相智
 「一つは相違識の相をする智」について述べられます。
 「(無性摂論第四)に云く、更に相い違返す、故に相違と名く。相違するは即ち境なり。各別あるが故に。」(『述記』第七末・十一右)
相違は、私とあなたの意見が相違するという、相反する見方・見解になりますね。思い出すのですが、高校時代に担任とぶつかって、こちらの主張を云い張っていたんですが、担任は、見解の相違ということで幕を引いてしまいました。その時はそれでよかったんですが、今になって思うことは、お互いの見解の依り所はどこにあったのかな、ということなんです。
 ある事柄について、先生の見方と、私の見方が異なっていた。同じ環境にあって、認識する心が違ったわけです。浄土真宗と聞いて、大乗の至極と受け止める人もおいででしょうが、念仏無間として念仏は謗法であると破折されるかたもおいででしょう。八万四千の法門を対象として捉えたら、百人百色で、それぞれの識が対象を色づけしていくわけですね。私たちは、このことに対して無知なんです。
 浄土真宗の教えに触れていてもです。浄土真宗を対象化して、私と真宗という構図ですと、外道と何等変わりはないわけです。そうではなく、私は私の見方、聞き方でしか対象を捉えることしかできないんですという、自分自身の認識の有りようの頷きが智慧に転じていくんだと教えているのが、「相違識の相をする智」ではないかなと思います。相手を認める智慧ですね。
 直接的に解釈しますと、相違識は、何が相違するのかと云いますと、違った心が違った相を浮かべる智になります。相は相分ですから対象(境)です。「相違するは即ち境なり」そして「相違者の識を相違識という」んだと慈恩大師は教えておられます。
 根と境に依って識が生ずるというのは大・小乗共許の教えですが、「相とは境の体相、相状なり。l境に依って識の生ずる故に、識を生ずる因という。」と『唯識義章』(三本・三右)は『述記』『の釈を補足されています。
 『述記』には、「この識を生ずる因を説いて名けて相と為す。菩薩の智は、この相がただ内心のみなり、故に一切法もまた唯心の変なりと了知す。」と簡潔です。
 そして具体的な喩が出されます。
 「鬼等は膿河、魚等は宅路、天は宝の厳池、人は清冷の水、空無辺処は唯空なり。一の実物が互相に違返するに非ざるべし。・・・各変ずること不同なり。・・・一境は四心なるべしと云う。いま境という、定めて一に非ざるが故に、一処と云うべし。天人等の解が成ずること瑠璃・水等に差えるを以て、唯有識と証知するなり。」(『述記』第七末・十一左)
 一処四見の喩になりますが、
 此処に水(水という実体はありませんが、人から見れば水とします。)があります。私たちは飲料水(清涼水)と思っていますが、五趣の在り方によって、主体の相違によって見方が違ってきます。先ず餓鬼が出されています。餓鬼にとっては、どろどろとした膿の河に見えるのですね。魚にとっては住居空間と見えるわけです。人にとっては清らかな水、命を養う源泉になっているわけです。天人がみると瑠璃のような宝石でちりばめられた空間に見えるわけでしょう。
 対象は一つですが、それぞれの立場によって見方が変わってくることを喩をもって教えているのですね。すべては、見る側の知覚によって、その対象が変わっていくと云う極端な例を引きて、ただ心のみの世界を生きているんだと教えているように思います。
 つづく

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