唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 第七所依門 (5) 所依の三義

2010-10-23 21:21:53 | 心の構造について

         第三能変 第七所依門 (5)

          - 所依の三義について -

 所依について述べていますが、第二能変においてですね、それまでは漠然としていた「依」の問題が、精密に、丁寧に応えられてあるのです。

 「諸の心・心所をば、皆有所依と云う。然も彼の所依に総じて三種有り」(『論』巻第四・十三右)

 「有所依」とは、『述記』には「能く所依を有するが故に。・・・心・心所法をば、有所依と名づけ等と云へり。・・・然るに彼に所依と言うは、唯倶有依に約して説く。・・・眼識の倶有依と云うは、謂く眼なり。等無間依と云うは、意なり。種子依と云うは、謂く阿頼耶識なりと云う。この中の三の依は、三縁に約して名を作れり」と説かれています。また『瑜伽論』巻第一に「彼の識の所依に三つある。一つには倶有依であり、根である。二つには等無間依であり、意根である。三には種子依である。一切種子を執受する所依であって、異熟に摂められる阿頼耶識である、と説かれています。

 有所依とは「所依を有していること。心が生じる依り所である感覚器官(根)を有していること」なのです。

 所依に三種有り(心が生じる三つの因)、と説かれていますが、(1) 因縁依(種子依)・末那識の依り所 (2)増上縁依(倶有依) (3) 等無間縁依(開導依)といい、自己はどう生きているのか、そしてどう生きなければならないのかと云う問題が、この「依」という問題なのですね。自己と関わりのないところで述べられているのではなく、主体的に自己存在の在り方を問うているのです。我執の問題です。阿頼耶識から末那識が生まれ、その末那識が阿頼耶識を対象として自分を汚していく。これが循環していくわけですね。これが所依の問題です。

 ここにまたですね。根本識に依るということがありますけれども、また五識が五根に依り、意識が意根に依るということもある。倶有依ということです。「依」に根本依として四依がいわれます。(1) 同境依 (2) 分別依 (3) 染浄依 (4) 根本依で、五識のいずれかが生じるための四つの所依である。 第六識は阿頼耶を根本依、末那識を染浄依としているのです。

 上のことについては、初能変・第二能変で詳しく述べたいと思います。

 「根本識を以て共と親との依」にもどります。

          種子識 ー 因縁 ー 親依           

  第八識  { 

               現行識 ー 増上縁 ー 共依

 第八識の種子は自己の種子であって、他の種子を持ってくることはできませんから、共依というわけにはいきませんね。因縁依といわれます。第八識の中の種子が前六識を生んでくるのです。「ものはもの自身からものになる・・・他から演繹されない」と安田先生は教えておられます。「各別の種なるが故に」です。そして前六識は第八識を離れてはない、ということ。眼・耳・鼻・舌・身・意という六つの心は共通して第八識を所依とするわけですから共依といいます。現行の本識が共依ですね。

 次は五識と六識にわけて説明されます。

 「五識とは謂く前の五転識ぞ。種類相似せり。故に総じて之を説く」(『論』第七・九左)

 前の五転識とは、眼等の五根所生の識ということを顕す。五つの心はお互いによく似ているので、「種々相似せり」といわれます。「故に総じて」というのに、五つの説明がされます。(1) 五識は倶に色根に依る。 (2) 倶に色境を縁じる。 (3) 倶にただ、現在を縁じる。 (4) 倶に現量である。 (5) 倶に間断がある。 それぞれ分野は違うけれども構造は相似しているということです。

              ―  ・  ―

 種子依について再考

 「種と現行との互いに因と為る義を顕す。・・・種子と果とは必ず倶なりと。・・・是の如く八識と及び諸の心所とは、定めて各別に種子の所依有り」(『論』巻第四)

 護法の正義は、因と果は時間的な流れがあるという一面と、同時であるという一面の、その二面があるという。種子と現行が同時にお互いに関わり合う、「今」という一瞬の時間の中で同時に捉えられてくるという一面、これを種子生現行といわれています。また、時間的な経過の中で捉えられてくる一面があるのだという見方です。種子生種子といわれるんですね。この二面の見方なのですが、総ては自己の種子から生じるということを教えています。

 

 

 


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