唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第二能変 所依門 (2) 「依」 について 第一義

2011-01-11 22:34:37 | 第二能変 所依門

Images  本願寺聖人伝絵 下末  熊野霊告

 「其の比、常陸国那荷西郡大部郷に、平太郎なにがしという庶民あり。聖人の御訓を信じて、専ら弐なかりき。しかるに、或時、件の平太郎、所務に駈られて熊野に詣すべしとて、事のよしをたずね申さんために、聖人へまいりたるに仰せられて云わく、「それ、聖教万差なり。いずれも機に相応すれば巨益あり。但、末法の今時、聖道の修行におきては成ずべからず。すなわち「我末法時中億々衆生起行修道未有一人得者」(安楽集)といい、「唯有浄土一門可通入路」(同)云々 此皆、経釈の明文、如来の金言なり。しかるに今、唯有浄土の真説に就きて、忝く彼の三国の祖師、各此の一宗を興行す。所以、愚禿勧るところ、更にわたくしなし。・・・」(真聖p735)

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 第二能変 所依門 (2) 「依」 について

  「次は依の字を解するに其の二説有り。」(『述記』)

 第一義は、難陀・最勝子の説 ・ 第ニ義は正説、護法等の説。 初は第一の説を挙げる。

 「有義は、此の意は、彼の識の種を以て而も所依と為す、彼の現の識には非ず、此は間断すること無きを以て、現の識を仮って倶有依と為して、方に生ずることを得るものにはあらざるが故にという。」(『論』第四・十三右)

 難陀・最勝子は、皆、この説を述べる。此の師の説くところは、第七の現行識は、唯だ第八の種子識(第八識の中の第七を生ずる種子)のみに依り、第八の現行識には依らない、と説くのである。第七識は恒に間断がなく、現行識を仮て(借りて)倶有依とはしないのである。種子に依るということを以て、「依彼」というのである。

 難陀・最勝子は第七識に倶有依の存在を認めないのですね。第七識の所依は心を生じる根本原因である因縁(第八識の中に蔵されている種子)であるとする立場です。理由は第七識は無間断であるので、現行識を借りて倶有依とする必要がないからである、というのです。

 尚、彼の識(第八識)の中に蔵されている種子とは、第八識の中の第七を生ずる種子で、第七識の自種子(因縁依)であると解されています。

  次に正義が示されます。次回に述べます。        


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