唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

雑感

2017-04-04 23:35:50 | 雑感

 ブログに、にしはら君が貴重なコメントをくれました。国土はfieldと翻訳されている文献があります、と。国・国土のことですが、僕たちのイメージとしてはどうでしょうか。僕は、日本国・米国・英国等の国家を思い浮かべてしまうのですが。国家は国土の上に立っているわけでしょう。counntry或はlandと翻訳されます。浄土はcountryなのでしょうか。本願文でも先ず国土荘厳が説かれます。「たとい我、仏を得んに、国に地獄・餓鬼・畜生あらば、正覚を取らじ」。そして国中人天に対して願いがかけられますね。依正二報は相離れずことを以て国土が語られているわけですが、土は本来無分別ですね。そこに国家を形成するのは人間の分別の上に立っている事柄でしょう。歴史的にみても国家は流動的です。分別起のものですね。有漏の種子に依って共依されている環境であるわけです。
 有漏の種子に依って覆われてしまっている環境も、fieldとしては無分別であるわけです。野原とか地面と翻訳されますが、国土荘厳は、野原とか地面が持っている無分別性を明らかにしようとしたのではないのかなと思っているんですが。そこに還れば平等の大地、水平の地平が存在する。それは存在性を超えた無為無漏の真如法性の世界であるわけでしょう。清浄仏国、つまり浄土と翻訳されていることなのでしょう。浄土はcountryではなくfieldだと。土の叫び、それが本願なのかも知れませんね。
 そしてそこに還れば、還った功徳として、土の叫びが与えられるのではと思うわけですが、国中人天から十方衆生に呼びかけられ、二十二願を境に菩薩衆へ、そして国土清浄にして、やがて国中人天へ願いがかけられる、これらは、counntry或はlandの出来事ではなく、fieldとして人天としては還っていくべく場所であり、菩薩としてはそこから願いをかけ得られる場所として、国土はfieldと翻訳されたのではないのかな、と。にしはら君のコメントから伺いました。
 国土荘厳が問題なのではなく、人間の分別心が領土の奪い合いになり、政争の具になり、境界のいざこざになる愚かさを、国土荘厳をあらわすことにおいて彼岸は此岸の問題であることをはっきりさせたのではないでしょうか。

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