唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

初能変 第二 所縁行相門 四分義(23) 性境について(2)

2014-12-14 11:19:09 | 初能変 第二 所縁行相門
 第八識所変の境は執受(有根身と種子)と処であると教えられていました。執受は衆生世間、処は器世間です。種子は有漏であり、心法に属し、有根身と器世間は色法である。器世間と有根身は五根五境。五境によって成り立っている世界が器世間、有根身は五根をもって成り立っている。共に色法ですね。
 性境についていえば、性境は、実の種子から生じたもので、実の体用をもって、その能縁心の作用は現量であること。そして、境の自相を得る、対象それ自らのありのままの相をもっていることである。でしうから、処とは何であるかと云いますと、五境で成り立った世界、即ち色・声・香・味・触の五つで、この五つは欲望の対象となって心を汚すところから塵に喩えて五塵(ゴジン)といわれています。五識の対象です。そしてですね、これらは因縁変であるということです。
 「第八所変の五塵の境は、実種より生ずるを以て復、因縁変なる如きを名づけて性境と為す。」(『了義燈』)
 第八所変という転変には、一つに因縁変、二つには分別変があり、因縁変は、「因縁の勢力に随うが故に変ず」と云われ、「分別の勢力に随うが故に変ず」るのを分別変といわれているのです。因縁変には実の体用がある。例えば火傷です。火にふれれば火傷をしますが、考えてだけでは火傷はしません。他人の火傷には「熱かったでしょう」という思いはあるでしょうが、私には熱いということはないわけです。実用があるということは、火傷をするということなのですね。分別では火傷はしません。考えられたものだからです。
 第八識は因縁変、前五も因縁変、五根五境によって成り立つ識が前五識で、それを転変したのが第八識である。第七識・第六識も第八識の転変した識ですが、有分別の識であり、第六は第七末那識と関係する識ですから、考えられた識ということになりますから分別変です。第八・前五は無分別であるり、これは因縁によって変化するもの、因縁変である、と。
 阿頼耶識が現行する時は、種子生現行。能縁の用きのある転識は阿頼耶識の種子から生ずるものであって、その他のものから生ずるということはないのです。
 相分である器世間も阿頼耶識所変の境でありますから本質があるわけです。本質があるということが、実の体用が有るということなのです。

 「性境は心に随わず」とは、『了義燈』に「四の不随あり」と釈され、(1)性不随心、(2)繋不随心、(3)種不随心、(4)異熟不随心の四つが挙げられています。
 「一つには能縁に随って善染の性を同じくせず。二には能縁に従って一界繋を同じくせず。三に能縁に随って同一種より生ずるにあらず。四には能縁に随って是れ異熟等にあらず。」
 (1)性不随心
 「識体転じて能縁の見分と所縁の相分に似て現ずる」のですが、性不随心とは、すべて性境は能縁の見分から独立して、それぞれの実の種子を第八識の中に能蔵し、能縁の見分と共同時に現行して所縁の相分となるものである。
 「設え能縁の心と同界・同性なること有りとも、是れ境の自性なり。能縁の心の力に由って是れ此の性・界・地等にあらざるを、性不随心と名づく。且く五識は三性に通ずれども、相と質とは倶に無記にして、五に従って亦、三性に通ぜざるが如し。」
不随心というのは、このように能縁心に随従しないことをいう。すべて性境は能縁の見分に独立して、それぞれの実の種子を第八識中に蔵し、能縁の見分と共に同時に現行して所縁の相分となるものである。 (つづく)

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