唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 随煩悩 大随煩悩  不正知 (2) 性と業 

2015-12-25 23:52:27 | 第三能変 随煩悩の心所
  

 「云何なるか不正知(ふしょうち)。所観(しょかん)の境に於いて謬解(みょうげー誤った理解)するを以って性と為し。能く正知を障えて毀犯(きぼんーそこなうこと)するを以って業と為す。謂く不正知の者は、毀犯する所多きが故に。」(『論』第六・三十一左)) 
 (どのようなものが不正知の心所なのか。不正知とは、所観の境(知られるべき対象)に対して誤って理解をすることが本質的な働きであり、よく正知を障礙し、本当のことを損なうことを以て、具体的な働きをする心所である。)
 「不正知ハ、シルベキ事ヲアヤマチテ知ル心ナリ。」(『ニ巻抄』)
 不正知とは、本当に知るべきことを誤って理解する心である、と良遍は釈しています。本当に知るべきことは物事の理ですが、物事の理が解らないために、本当でないもの(我)を立てて、(我が)本当のものであると錯覚をしているのが私たちの姿であると教えています。
 正知は善の心所に入るべきものなのですが、十一の善の心所には数えられていません。そのことは、正知は善慧(正慧)の一分なのです。別境の分位である心所について説明されています。
 
 不散乱と正見と正知と不妄念について、別境(欲・勝解・念・定・慧)の分位としての善の心所であることを明らかにする中で、
 「不散乱の体は、即ち正定に摂めらる。正見と正知とは、倶に善の慧に摂めらる。不妄念とは、即ち是れ正念なり。」(『論』第六・九左) 
 「述して曰く。不(散)乱の体は即ち正定なり。散乱は別に体有り、或は体無しと雖も、即ち定の少分にして皆な彼(散乱)に翻ずれば正定と名づく。性は対治なるが故に。
 •(体) 正定 - (能対治)不散乱 → (所対治)散乱
  根本の中の染の見と随の中の不正知とを、今翻じて皆な善の慧に入れ摂せらる。
 不正知は、或は別境の慧の分、或は癡が分皆な爾なり。性は対治なり。
 •(体) 正慧 - (能対治)正知 →(所対治)不正知 不妄失念は是れ正念なり。設い別境の念の分、或は是れ癡の分と云うも亦爾なり。
 •(体) 正念 - (能対治)不妄念 →(所対治)妄念
 正知の体は正慧であり、正知は善の慧のみではなく、無癡もその体の一分としている。本科段である不正知は正知によって対治されますから、不正知も慧と癡の一分から成り立っていることが知らされるわけです。
  
 「述して曰く、境に迷って而も闇鈍(あんどん)なるに非ず。ただ是れ錯謬邪解(しゃくみょうじゃげ。認識的に間違いっている邪な理解)するを不正知と名く。不正知なれば多く業を発す。多く悪の身語業を起こし、而も戒を犯す。顕揚、対法、五蘊みな同なり。」(『述記』第六末・八十八右)
 
 不正知は、闇鈍(愚か)である為に、認識対象に迷って(認識対象が理解できず)いるのではない。ただ錯謬邪解であると、間違って理解している、それは不正である、と。対象を理解することが誤っていますから、多くは悪の身業と語業を起こして戒を犯すと説明しています。
 五逆謗法が何故起こるのか、いいヒントが与えられていますね。   (つづく)

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