唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

唯識入門(18)

2020-03-01 11:00:19 | 『成唯識論』は何を教えているのか。

 おはようございます。今回より熏習(くんじゅう)についてですが、阿頼耶識に熏習されることを意味します。つまり、身・口(語)・意の三業の種子が人間の心の要である阿頼耶識に植え付けていく、阿頼耶識からは植え付けられていくことになります。
 これを、現行熏種子(げんぎょうくんしゅうじ)といっています。阿頼耶識は、「The store-consciousness」と訳されていますが、storeは倉庫・貯蔵所・con-scious-nessは知覚としての意識になります。つまり、現実の私の行動のすべてが貯蔵所としての阿頼耶識に収められることになります。この収められたのが種子ですから、この一瞬に何を熏習させるのかが問われているのですね。
 過去は取り戻すことはできませんが、過去を受け止め、未来を開いていくのは、この一瞬の行動が決定権を握っているといえましょうね。それによって、過去のすべてが意味あるものとして頷けるのではないでしょうか。
 それでは、『成唯識論』から、熏習について学びます。
  熏習とは何か。『論』には、
 「何等の義に依ってか熏習の名を立つるや。所熏(しょくん)と能熏(のうくん)と各四義を具して種(しゅう)を生長(しょうちょう)せ令るが故に熏習と名く。」と。
 どのような理由から熏習という名を立てるのか。それは所熏と能熏に各々四義を備えて種子を生(新熏種子)・長(本有種子)するが故に熏習と名づけるのですね。
 一は所熏
 二は能熏
 三は種をして生・長せしめるが故に熏習と名づける。 
種子の六義の最後に引自果(いんじか)の意味が説明されていますが、色(しき)は色という自己の種子を熏し、生じるときも同じ自己の色の種子から生じ、心は心という自己の種子を熏じ、生じるときも同じ自己の心の種子から生じる。けっして色から心が生じたり、心から色が生じるということはないのです。
 よって因果の道理に錯乱はないことが証明されます。これを受けて、熏習に所熏の四つの性質と、能熏の四つの性質を明らかにしたのです。ようするに、熏習されるもの(所熏)と熏習するもの(能熏)とに分けて説明し、所熏になりえるものと、能熏になりえるものの特質を述べているのですね。
 所熏の四義は『摂大乗論)(しょうだいじょうろん)』にも説かれているのですが、能熏の四義は『成唯識論』独自の解釈になり、『摂論』を受けて『成論』が成立し、『成論』の背景に『摂論』があることがわかります。所熏の四義を備えたものが阿頼耶識なのですね。阿頼耶識を立てて初めて人間存在が立てられるのですが、これは唯識以前の仏教が六識で考えられていたと云う背景があります。それは意識の根拠、即ち意根の存在証明が不十分であるということなのです。眼識は眼根を所依とし、乃至身識は身根を所依とするわけですが、第六意識の所依は意根であるというわけです。意根は前滅の識を所依として成り立つと説明されるのですが、経験の積み重ね(種子)はどこに収まるのかの説明がつかないのです。無始以来の一切の経験が蓄積されている場所の説明ですね、表層の意識の奥深い所、深層に人間の非常に深い心があるのではないのかという眼差しが阿頼耶識を見出してきたのですね。そして阿頼耶識が阿頼耶識と名づけられるのは一切種においてであり、阿頼耶識はまた一切種識と呼ばれる所以なのですね。
 無始以来(曠劫以来といってもいいでしょう)の一切の経験の蓄積されている場所はどこにあるのか。これが所熏の四義になります。六識が六識が成り立っているのではなく、六識の行為を残し、蓄積していく場所があって、はじめて六識が生きて働いているのであることを明らかにしてきたのが大乗仏教であり、とりわけ唯識仏教であるわけです。
 ここからが唯識worldが始まります。また。

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