唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

「唯有識無外境」、果たして三界は唯心か?  (6)

2016-04-27 23:30:20 | 『成唯識論』に学ぶ
  

 第十七頌の『成唯識論』の記述を読んでみます。
 「論に曰く。是の諸識とは、前所説の三能変の識と及び彼の心所となり。皆能く変じて見・相二分に似(の)るに、転変(てんぺん)と云う名(みょう)を立つと云う。」(『論』第七・十九右)
 諸識とは「本識等の三能変の識並びに心所法なり。」(『述記』第七末・二右)
 つまり、上に既に説いてきた三能変の識(八識)とそれに相応する六位(遍行・別境・善・煩悩・随煩悩・不定)の心所法のことです。諸識と云うときは、自体分を押さえちます。これは安慧・護法ともに自体分を認めている点では同じです。
 「安慧解して云う、何んが転変と名づくや。謂く是の三識の自体は皆転変して見・相二分に似れり。識自体分を名づけて転変と為す。」(『述記』)
 転変する能動的働きは識自体が持ってる、そして見・相二分は所転変なんですね。この所転変である二分について、安慧菩薩は遍計所執とみますが、護法菩薩はどこまでも依他起とみてきます。
 「護法菩薩は解して云く、又改転の義なり。謂く一の識体改転して二の相と為って起こって自体に異なるを以てなり。即ち見は能取の用有り。相は質礙(ぜつげ)の用有るが等きなり。」(『述記』)
 「二分に似る」というのは、識自体が二分に似て現ずるわけです。能取・所取の二分です。これは遍計所執の二分になります。二分とはもともと自他分別の相なんです。現実の私の心のあり方は自分を実体化して執着をしています。見・相二分という限りは遍計所執であって実体のないものということになります。
 「無始の時より来た、虚妄に熏習の内因力の故に」、私たちは、無意識のうちに、見る私と、見られる貴方。主体と客体に分けて認識を起こしていることに何の疑問ももっておりませんが、安慧菩薩は端的に有るのは自体分だけだと。転変された見・相二分は、無いものが有るように現じているにすぎない。従って転変は変現の義であり、変異の義であるといいます。
 論理的には安慧菩薩の識体一分説が的を得ているのかも知れません。唯識無境ですからね、しかし、外境は有ると執着している私が存在しています。この執着をしている私に、執着している外境は、実は自体分が(私の執着のあり方に光をあてるように)見・相の二分に似て現じているのだと護法菩薩は明らかにしておられるのですね。つまりですね、見る主体も、見られる客体も、自体分が転じたもの、自体分の具体相であるとして、迷いのあり方が転じえる構造をも明らかにされているのでしょう。
 「所変の用は是れ依他起なり。此の用は実に見相二分に非ず。此の二の用に依って能所取を計するを方に二分と名づく。用の是二分と云う、執の所起処なり。二分の用なり、用を二分と名づう。」(『演秘』第六本・二十左)
 自体分が転じるところの所変の用は依他起である。自体分の具体相は依他起であることを云っているのだと思います。自体分・見分・相分がバラバラであるのではなく、一つのものの二つの側面であるということになりますね。
 その上に、能分別・所分別を起こして執着をしているのが私の相だと思います。存在のありかたは見相二分しかないのですね。事実の上に「自体転じて二分に似る」似て生じているという真実を示されているということになりましょうか。識所変を離れていかなる存在もないということでしょう。

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