唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

逆縁教興(2)-興福寺奏状

2010-02-07 19:20:51 | 逆縁教興
バンクーバー冬季オリンピックもいよいよ開幕です。世界が一つになり熱い戦いが始まりますが、日本選手にもおおいに頑張っていただきたいと思います。四年間培ってきた心技体の集大成が見られると思いますと今から胸がドキドキします。楽しみですね。
 今朝の「比叡の光」で伝教大師最澄の精神「忘己利他」(己を忘れて他を利する)を現代の私たちに如何に伝えるのかが課題ですというお話がありました。その中で今の風潮は他を忘れて己を利することばかりを求めている、日本が病んでいるとしか思えないという事を言われていました。その通りですね。ものの考え方が顛倒しているのです。法然上人は「自行化他」を大切になさいました。そのことが問いとなり自行化他の実現は如何にしたら可能かを課題として浄土宗の独立を宣言されたのです。「念仏は易きが故に一切に通ず。諸行は難きが故に諸機に通ぜず。しからば則ち一切衆生をして平等に往生せしめんがために、難を捨て易を取りて、本願としたまふか。もしそれ造像起塔をもって本願とせば、貧窮困乏の類は定んで往生の望みを絶たん。しかも富貴の者は少なく、貧賤の者は甚だ多し。もし智慧高才をもって本願とせば、愚鈍下智の者は定んで往生の望み絶たん。しかも智慧の者は少なく、愚痴の者は甚だ多し。もし多聞多見をもって本願とせば、少聞少見の輩は定んで往生の望みを絶たむ。しかも多聞の者は少なく、少聞の者は甚だ多し。もし持戒持律をもって本願とせば、破戒無戒の人は定んで往生の望みを絶たむ。しかも持戒の者は少なく、破戒の者は甚だ多し。自余の諸行、これに準じてまさに知るべし。(『選択集』定本親鸞聖人全集第六巻P45~46)と衆生の心根を自身の上に見出され、「善導の『観経疏』は、これ西方の指南、行者の目足なり。」と善導を弥陀の化身と仰がれたのです。『観経疏』を披閲して以後「自行化他、ただ念仏を縡(こと)とす。」と生涯をただ念仏に生きられました。また親鸞聖人が大切になさいました書物に『唯信抄』がありますが、その中に孝養父母・読誦・布施・持戒・忍辱・精進をもって往生の因とすれば不孝のもの・文句をしらざるもの・慳貪・破戒のともがら・瞋恚・懈怠のたぐいはすてられぬべし。(六波羅蜜をもって往生の業とするなら煩悩熾盛のものは往生がかなわないことになる。それでは一切の衆生が救われるという教説はまやかしになってしまうではないか。)「これによりて、一切の善悪の凡夫、ひとしくむまれ、ともにねがはしめむがために、ただ阿弥陀の三字の名号をとなえむを、往生極楽の別因とせむと、」といわれるのです。このことは「時・處・諸縁(よろづのことなり)をきらはず、在家(おとこ・おむな)・出家(そう・あま)、若男(にゃくなんーわかきおとこ)・若女(にゃくにょーわかきおむな)、老(おいたる)・少(おさなき)、善・悪の人おもわかず、なに人かこれにもれむ・」(『唯信抄』(定本全P46)ここにすべての衆生が救済されゆく道が指し示されたのです。鎌倉期における底辺でうごめいていた人々に希望の光を与えました。それは「能令瓦礫変成金」(のうりょうがりゃくへんじょうこん)といわれ、親鸞聖人はそれを釈して「ひとすじに具縛の凡愚、屠沽の下類、無碍光仏の不可思議の本願、広大智慧の名号を信楽すれば、煩悩を具足しながら、無上大涅槃にいたるなり。具縛は、よろずの煩悩にしばられたるわれらなり。煩は、みをわずらわす。悩は、こころをなやますという屠は、よろずのいきたるものを、ころし、ほふるものなり。これは、りょうしちいうものなり。沽は、よろずのものを、うりかうものなり。これは、あき人なり。これらを下類というなり。「能令瓦礫変成金」というは、「能」は、よくという。「令」は、せしむという。「瓦」は、かわらという。「礫」は、つぶてという。「変成金」は、「変成」は、かえなすという。「金」はこがねという。かわら・つぶてをこがねにかえなさしめんがごとしと、たとえたまえるなり。りょうし・あき人、さまざまなものは、みな、いし・かわら。つぶてのごとくなるわれらなり。如来の御ちかいを、ふたごころなく信楽すれば、摂取のひかりのなかにおさめとられまいらせて、かならず大涅槃のさとりをひらかしめたまうは、すなわち、りょうし・あき人などは、いし・かわら・つぶてなんどを、よくこがねとなさしめんがごとしとたとえたまえるなり。摂取のひかりともうすは、阿弥陀仏の御こころにおさめとりたまうゆえなり。」(『唯信抄文意』(真聖P553)いし・かわら・つぶてのごとくなるわれらなりとご自身を見据えておいでになります。それはまた「しかればわれらは善人にもあらず、賢人にもあらず。」と。この視点に於いて「生死いづべき道」はもはや聖道の仏教のどこにも見当たらないという選択があったのではないかと思うのです。それは初めから凡夫の救済が不可能であるという質を持っていたのではないでしょうか。法然上人はその質を見抜かれ威風堂々と『選択本願念仏集』として世に公開せられたのでしょう。この公開は非常に危険を孕んでいることは上人もよくよくご存じでした。『選択集』跋文には「こひねがはくは、ひとたび高覧をへてのち、壁のそこにうづみて、まどのまへに、のこすことなかれ、恐らくは、破法の人をして、悪道に堕せしめざらむため也。」といわれています。歴史はこの事実を如実に証明しています。たび重なる法難がそれを物語っていますね。南都北嶺の糾弾には激しいものがありました。元久元年(1204年)比叡山延暦寺から「延暦寺奏状」六カ条がだされました。「一向専修の濫行を停止せられることを請う」というものでした。それに対し上人は『七箇条起請文』を延暦寺に提出しておられます。やがて南都興福寺から非難の声が専修念仏を焼き尽くさんがごとく上がってくるのです。元久二年(1205年)興福寺の僧貞慶が起草した「興福寺奏状」なのです。

貞慶(じょうけい、久寿2年5月21日1155年6月22日)- 建暦3年2月3日1213年2月24日))は、鎌倉時代前期の法相宗京都の生まれ。祖父は藤原通憲(信西)、父は藤原貞憲。号は解脱房。勅謚号は解脱上人。笠置寺上人とよばれた。

興福寺に入り叔父覚憲に師事して法相を学んだ。1182年寿永元年)維摩会竪義(ゆいまえりゅうぎ)を遂行し、御斎会・季御読経などの大法会に奉仕し、学僧として将来を嘱望されたが、僧の堕落を嫌って1193年建久4年)かねてからの弥勒信仰を媒介として信仰を寄せていた笠置寺に隠遁した。それ以後般若台や十三重塔を建立して笠置寺の寺観を整備する一方、龍香会を創始し弥勒講式を作るなど弥勒信仰をいっそう深めていった。なお、1205年元久2年)には興福寺奏状を起草し、法然専修念仏を批判し、停止を求めた。

 これが朝廷を動かし建永の法難という、念仏の僧伽にとっては大きな試練が待ち受けていたのです。法然上人(俗姓藤井元彦・ふじいのもとひこ)は土佐の国、 幡多に遠流され、当時三十五歳だった親鸞聖人(俗姓 藤井善信・ふじいのよしざね)は越後国、国府へと遠流されたのです。


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