唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

「唯有識無外境」、果たして三界は唯心か? (67)九難義 (7) 聖教相違難 (7) まとめ 

2016-08-14 10:04:11 | 『成唯識論』に学ぶ


 昨日は真言のメッカ高野山金剛峰寺に参拝、奥の院をゆっくり歩かせていただきました。何も考えずに行ったのですが、昨日は万燈会で観光客の方々が多く見えられていました。これもご縁ですね。
 奥の院の茶処で、13時より法話がありました。真言といいますと、すぐに護摩修行とか真言陀羅尼を思い浮かべてしまうのですが、法話はやはり大乗でした。自らの体験の中から己の姿を見つめておられました。部屋の中に迷い込んできたトンボを観察して、トンボは私の姿、トンボが私の姿を教えてくれている、明るい方へはいかず、暗いところで出口を探している、私はそっちではないよ、出口はこちらだよと指示してもなかなかいうことを聞いてくれません。出口を指示しているのは仏陀です。教えに逆らっているのは私です。私の思いが出口を塞いでいることに気づかされました。とお話しくださいました。
 この法話に出遇えたことだけで参拝させていただいた意義があったと思います。
 
 この出口が開いている、暗闇に迷い込んだのは出口が入り口になったのですね。私の姿は空に迷っているのですね、そのことを聖教相違の難は教えてくれています。世尊が十二処を説かれたのは、仏において別に密意趣があって説かれたのであって、心外実有の意味ではないのです。機に応じて説かれた、対機説法です。
 五蘊・十二処・十八界の意義については、『倶舎論』第二十頌に、
 「聚生門種族 是蘊処界義 愚根楽三故 説蘊処界三」
 (聚と生門と種族とは、是れ蘊処界の義なり。愚と根と楽と、三の故に、蘊処界の三を説く。)という言葉があります。
 聚とは、多くのものの集まり。集積(集合体)のことで、「聚の義は蘊の義なり」といわれています。
 また、生門は、心・心所の生じてくる門。六根六境は心・心所を生長させる門で、処の義である、と云われます。
 また、種族は、種族・種類という意味で、界の義なのです。
 蘊は積聚という意味をもっており、多くのものが集まっているという意です。例えば、色法でいうと、過去の色・現在の色・未来の色そして、麤色・細色という様に種々様々の色があるわけですが、これらを一つ(一聚)として色蘊という。このように様々の種類が一つとして集積されていることに依って蘊は聚の義というのです。
 処ですが、処とは生長門の義であると云われています。六根六境という処に於て、心・心所が生長するということです。
 界は、種族・種類という意味ですが、生本の義、種類の義という二釈がだされます。種族は物の生ずる本となるという意味があり。種類の義というのは、それぞれ種類が別別になっているということ。界は、物が生ずる本であるということと、三界という種類は別別であるという意味ですね。
 ここでですね、論主は蘊・処・界の三科が何故仏によって説かれたのかという所以を説明しているのです。

 つまり、有情の愚かさに三通りあるとして、心所の解釈に愚なる者の為に、心所を詳しく説いて五蘊とし、色の解釈に愚なる者の為に、色を詳しく説いて十二処とし、色心の解釈に愚なる者の為に、色心を詳しく説いて十八界とされたという。根(有情の機根=資質)の三種は、上根の為には略して五蘊を説き、中根の為には中を取って十二処を説き、下根の為には詳しく十八界を説かれたのである。

 楽の三種とは、有情が希求するところに三通りがあるということで、略を願う者の為には五蘊を説き、中を願う者の為には十二処を説き、広を願う者のためには十八界を説かれた、のです。
 以上のようなことが説かれるのは、五蘊の「色」と十二処・十八界の「色」とは、同じ言葉(ルーパ)であるけれども、意味に広狭の差があることから、有情の愚と機根と希求とに応じて説かれている、という意味があります。五蘊の中の五蘊は物質的存在を意味するが、十二処・十八界の色処・色界は「眼」の対象に限られるわけです。色蘊は五根と五境とを合わせたもので広義の「色」となりますが、五境は狭義の「色」ということになります。

 このように、『倶舎論』において十二処が説かれた背景がすでに述べられており、この十二処は機根に応じてということなのですね。これは内界の六識が各自の種子より現行する時、その識の上に色等の相を変現しているわけです。つまり、対象として色等が心外の法に似て現ずるけれども、識所変なのです。識所変でありますから、識に離れて有るわけではないのですね。
 これはね、私たちの現実の生活が仏法道場という意味があるということを示唆しています。日常生活をご縁として空無我に触れよということなのです。

 もう一つの意味が、「法空に入れんが為に復た唯識のみと説けたまえり。外法も亦非有と知らしめんが故なり。」ということです。
 すべては識所変であると説かれたのですが、心外に実の色等の法が無いことを知らせる為には、更に「唯識のみ」の教えを説かれるのです。ここは法空を悟らしめんが為に
説かれてくるわけです。

 坂木恵定仏教随想 『憂うるに足らず」より
   大智は愚の如し

 私の人生は
 失敗であったと
 云っても 
 繰り返しがつかない

 ここに
 そんなこと云うことの
 いらない
 人生がある

 私の人生には
 失敗と云うことがない
 だから成功と云うこともない
 成功を云うから
 失敗と云う
 成功
 失敗
 みなそれでよいではないか

 人々は
 失敗者を
 愚かな者と
 呼ばわるが
 成功
 失敗の
 なくなった世界を
 みつけたものは
 他から愚と
 云われようと
 現に
 大智慧の若(ゴト)しに
 呼吸する
 甘味を知っている
 失敗は愚の果ではなく
 成功は賢いのではない
 失敗とか
 成功に惑わされ
 日夜苦しむは
 私の人生には失敗がないと
 云い決(キ)れないからだ
 清沢満之は出発点に
 極端なピユーリタン生活して
 肺病になり 
 大学、本山の改革に
 つぎつぎ失敗した
 愚者であり
 良寛は
 おさな児の輪の中に
 おいてけぼりされて
 夜明けまで
 知らなかった
 愚者であり 
 ソクラテスは
 仕事をせぬと云われて
 妻君に
 頭からバケツの水を
 ぶっかけられた
 愚者だと云うが
 かく云う汝こそ
 賢い愚者でないか
 私のやることが
 どんな下手なことで
 あろうと
 それでよいのだ
 私のやることが
 どんな成功であろうと
 私には落ち着く場所がない
 人々は落ち着く場所を
 失敗の所に見付けたら
 現にここに落着がある