唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

『成唯識論』 四月度講義概要 (4) 第六 心所例同門

2016-04-20 06:50:02 | 『成唯識論』に学ぶ
  

 おはようございます。予習です。 『三十頌』第四頌第二句を釈します。本科段は、「諸の心所法を心に例同(レイドウ)するなり。是れ識の自体を分別する門には非ず。」(『述記』と述べられ、例同とは、阿頼耶識が無覆無記であるのと同じように、相応する心所である五遍行も亦た同じく無覆無記にあてはまることを意味します。
 「触等亦如是」(触(ソク)等も亦た是の如し)(『論』第三・五左)
 第一句の「是無覆無記」(是れ無覆無記(ムブクムキ)なり)をうけて、阿頼耶識における五遍行の「触等亦如是」も無覆無記に摂められるのである、と釈します。阿頼耶識の心所を阿頼耶識に例同して、五遍行の意義を明らかにしているのですね。
 五遍行は、八識全体にわたって遍く具っているものでありますが、阿頼耶識に相応する五遍行の意義と第七・前六に遍行する心所の意義とは違うということです。
 ・ 阿頼耶識に起こった触等の心所は無覆無記性である。
 ・ 前六識に起こった触等の心所は善・悪・無記の三性に通じ、
 ・ 第七末那識に起こった触等の心所は有覆無記性である。
 科文をみますと、本科段は、第六の段。心所を例同する門なり。「亦如是」が問題になっています。ここに三つの解釈が述べられます。
 第一が三性例同の義。先の三性分別門で、阿頼耶識は無覆無記であると明らかにされましたが、これに例同するように、触等の五遍行も亦、無覆無記性であると解釈されます。
 「謂く阿頼耶識の唯是れ無覆無記性に摂めらるるが如し。触(ソク)と作意(サイ)と受(ジュ)と想(ソウ)と思(シ)も亦爾(マタシカ)なり。諸の相応法は必ず同性(ドウショウ)なるが故に。」(『論第三・五左)
  これは護法の別義と云われ、上記に述べましたように、一番素朴な単純な解釈になります。「諸の相応法は必ず同性(ドウショウ)なるが故に。」相応法である心所は必ず心王と同性である。従って、第八阿頼耶識が無覆無記ならば、識と相応する触等の五遍行も亦た無覆無記である。
 「初師は唯だ五の心所法を以て心王の無記性のみに例同すと云う。無記性の言に次で後に「亦如是」の言有るが故に。・・・」(『述記』第三末・三十三右)
 まとめますと、本科段は三性に約して、無覆無記性であるという点だけで例同していますが、性だけの問題ではなく、次に第二・五門例同の義、そして、第三・六門例同の義を以て解釈されます。
 五門例同の義・護法別義
 「又触等の五も阿頼耶の如く亦是れ異熟なり。所縁・行相倶に不可知なり。三種の境を縁ず。五法と相応す。無覆無記なり。故に触等亦如是の言を説けり。」(『論』第三・六右) 五門について「亦た是の如し」と説かれているという解釈です。
 五門とは、
 (1) 異熟。
 (2) 所縁・行相倶に不可知。
 (3) 三種の境(種子・有根身・器世間)を縁ずる。
 (4) 五法と相応す。
 (5) 無覆無記。
 「異熟」については、触・作意・受・想・思の五は、阿頼耶識の無覆無記だけにかかるのではなく、触等の五遍行もまた異熟であるという。
 阿頼耶識の「所縁・行相倶に不可知である」。「触」等の五遍行もまた所縁・行相倶に不可知である。
 所縁について、三種の境、即ち、内に身と種子、外には器世間ですね。阿頼耶識は三種の境を所縁(対象)としました。これと同じように、触等の心所も三種の境について触等があると説いています。 
 「五法と相応す」。阿頼耶識は触等と相応すると云われていましたが、触の心所はどうなるのかということについて説明しています。自己を除いた他の心・心所と相応するのだと。つまり、心王である阿頼耶識と心所である作意・受・想・思と相応するのだということですね。
そして、無覆無記であるということ。この五門が例同であるということなんです。
 六門例同の義を述べる。先ず、難陀等の説を挙げ、第四において護法の正義を述べます。
 先ず、難陀等の主張を挙げます。
 「有義は、触等も、阿頼耶の如く、亦た是れ異熟なり、及び一切種なり、広く説かば乃至無覆無記なり。亦如是という言、簡別(ケンベツ)せること無きが故に。」(『論』第三・六・右)
 簡別(ケンベツ) ― 選んで区別することで、否定を指します。
 j本科段は、第三六門例同ですが、第四で第三を否定、批判をしています。「彼が説くこと理に非ず。所以は何ん。」と。
 難陀等の主張は、前の五門に一切種を加えました。如是という言は、「簡別せること無きが故に」。亦如是には簡びがないと、なにも一切種子を除外するとは言っていないから、一切種子を加えてもいいだろうと主張します。ちうまり、第二護法別義の上に更に一切種の因相門をも例同しているということです。触等の五遍行も第八識と同じく熏習を受けて一切の種子を執持するという主張ですが、護法別義においては、五門を述べる中で、先ず異熟なり、と。果相門が示され、自相門と因相門は除外されていました。
 触等の五の心所は、所熏の四義を備えていないからです。熏習を受けないということですから、熏習を受けなければ、種子を持することは出来ないということですね。
 「述して曰く、此は難陀論師等の多の人此の解を為す。初に触等も熏を受くと許し、後に難ぜられ已って転計(テンケ)して方に種を縁ずるを以て一切種と名づくと言うなり。・・」(『述記』第三末・三十四右)
 難陀等の説には随分無理がありますが、次科段において、護法論師が論破する中で詳細を述べておられます。
 護法の正義(ショウギ)を述べます。
 「彼が説くこと理に非ず。所以は何(イカ)ん。」(『論』第三・六右)
 難陀等の説くことは理にあわない。その理由は次の通りである。
 「触等は識に依る、自在にあらざるが故に、貪・信等の如く、熏を受くること能わざるべし。如何ぞ識に同じく能く種子を持せむ。」(『論』第三・六右)
 論主(護法)の答えが述べられます。
 「触等は)心王ではなく、自在でもない。「既に心王に非ざるが故に、自在に非ず。」と。
 難陀等の主張の間違いは、触等も識と同じように熏習を受ける、そして種子を持っているんだと、ここが間違っていると指摘しているんです。
 理由の第一は、
 「触等は識に依る」。識は心王ですね。触等は心王に依って生起するんだと。いわば、心王に依っかかって起こるのであるから、自在ではないであろう。つまり、識に依って起こるので自在ではないと論破してきます。
 次は、喩をもって説きます。
 「貪・信等の如く、熏を受くること能わざるべし。」と。
 心王は熏習を受けるが、心所である貪や信には熏習を受ける力はないのと同じように、心所である触等は熏習を受ける力はない。
 「如何ぞ識に同じく能く種子を持せむ」と。
 熏習を受けなければ、種子を持することはできないだろう、と喩を以て難陀等の主張は誤りであると破斥してきます。
 この科段は、能熏の四義に依って、心所には熏習を受けることはないと示しているわけですね。先の熏習論では、抽象的であった説明が、具体性をもって解き明かされてる科段になります。
 「触等亦如是」の解釈について六門において例同する説を挙げていますが、難陀等の義(異説)と護法の正義を以て結ばれます。触等の心所は、阿頼耶識と同じように無覆無記性であり、触等も異熟であり、触等の所縁・行相倶に不可知であり、第八識と同じく種子・五色根・器世間の三種の境を所縁とし、五の法と相応するんだと、それが「亦如是」の意味であると述べられていました。
 そこに、難陀等は「一切種」も例同すると解釈してきたのですね。つまり、触等の心所も熏習を受けることが出来るんだというわけです。ここで大事なことが、熏習論ですね。種子の六義を学び、所熏の四義、能熏の四義を学んできました。記憶をたどりながら、種子と成り得るものは何か、熏習されるところの条件とは、熏習させるものは何かです。
 一切の経験が熏習される場所について四つの条件があげられていました。その中で、所熏は可熏が条件になってるのですが、所熏の四義について思い出してください。
 「亦如是」について論議されているところです。「触等は識に依る」わけです。独自に起こるのではないのですね。心所法は不自在である。心所は心王に付随するもので、心王を前提として生起するものなんです。ここを踏まえて難陀等の主張を聞いていきますと見えるものがあります。
 論主の答えに対して難陀等から反論が起こります。
 「外人(難陀等)復言く、六の種ありと云はば何の失かある。」(『述記』)
 (六の種子から生ずるとしてそのどこに問題があるのか。) 
 この難陀等の反論に対して、徴答するのが本科段になります。難陀等に問いただします。
 五に種生を徴答す。
 「若し爾らば、果の起こることは何の種従(シュヨ)りか生ずる。」(論』第三・六左)
 (もしそうであるならば(種子が六あるならば)、種子生現行の果の現行が起こるのは、いずれの種子より起こるのか。)
 この問いに対しても、難陀等は、「皆な彼(六種)従(ヨ)り起こると答えます。
 論主復云く、(論主の批判)
 「理いい六の種従り起こると言うべからず。未だ多の種いい一の芽(ゲ)を生ずるということを見ざるが故に。」(『論』第三・六左)
  語句説明
 芽(ゲ) ― 植物の芽を以て、因果を説明するときの喩えとして用いられる。「芽は種子の果であり茎などの因であるが如く、一法は因であり亦果でもある。」
 (理とは道理です。道理からいっても、六の種子から一つの身体起こるとは言い得ない、まして多の種子から一つの芽が生ずるということは見たことがない。)
 六に果生を徴破す。
 「五」の種生に対して果生になります。
 種子より生ずることを問いただし、果より生ずることを問いただして破斥します。
 「若し果の生ずることは唯だ一の種(シュウ)のみに従ると説かば、則ち余の五の種は便ち無用(ムユウ)に為んぬ。」(『論』第三・六左)
 (果の生ずることは、六の種子の中の一つだけから生ずるというのならば、残りの五の種子は無用、要らないものとなる。)
 「亦た次第に果を生ずるとは説く可からず。」(『論』第三・六左)
 (また、六が順番に果を生ずる。つまり、現行するということもできないであろう。)
 「熏習すること同時にして勢力(セイリキ)等しきが故に。」(『論』第三・六左)
 (三法展転同時因果ですから、熏種子は同時に、勢力も同じであるが故に、どうして順番が決まるのか?)
 『述記』はこのことの説明を、
 「述して曰く、同熏の種、一が果を生ずる時には、余も亦た生ずべし。熏習すること同時にして勢力等しきが故に。果を生ずる種の如きが故に。心の種は先ず生じて余の触等の種は次第に果を生ずとは説く可からず。・・・」(『述記』(第三・四十右)
 もう少し読み込んできますと、難陀等論師の「一切種」についての解釈が示されます。煩雑な繰り返しのように見えますが、難陀等論師と論主の問答は非常に考えさせられます。こここは説明だけに終始しますが、『論』は何を伝えたいのかを考えていただければいいかなと思います。
 難陀等は論主の設問に対して、次第に果を生ずるのであると云い、論主はさらに問いただして、
 「亦、次第に果を生ずるとは説くべからず。熏習すること同時にして勢力等しきが故に。」と。
 熏習することは、種子が縁を伴って現行し、現行の果を熏習するのは同時因果であり、勢力も同じなんですね。六の種子があるというならば、どうして現行する時に順番が決められるのか、決められないであろう、それは即ち説くことができない机上の空論である。
 七・六果頓生を破す。
 「又は果頓に生ずるとは説く可からず。勿(マナ)、一有情に一刹那の頃(ケイ)に六の眼識の等(ゴト)き倶時(クジ)に生じなむが故に。」(『論』第三・六左)
 六の果が漸(順番)に生ずるのではなく、頓(一気に)六の種子から六の現行が生ずるのだというkとも説くことはできないであろう。勿(、マナ)勿れという否定を表す意味ですが、(果頓に生ずるとは)言ってはいけないといい、若しそう言うのであればと、起下(キゲ)を開きます。下に説くようにおかしなことになってしまう、と。
 「勿(マナ)、一有情に一刹那の頃(ケイ)に六の眼識の等(ゴト)き倶時(クジ)に生じなむが故に。」と。
 「頃」はケイと読ましています。一刹那、しばらく時間のことをいいます。
 「一有情に六種の体有りぬ応し」一人に六の身体があり、現行も六有ることになるという難陀等の主張でいえば、六の眼根が頓に生ずるなら、六の眼識が同時に生ずることになる。面白い発想だと思いますね。六つの眼根から六つの眼識が生ずるという、今までこのような目線で仏像を見たことは有りませんが、十一面観音菩薩像というのは、十一の眼根から十一の眼識が生じて遍く見透しておられるということでしょうか。では無いんですね。識体は一つなんです。識体転んじて所縁が遍智なのが十一面という姿をとるのでしょう。
 「一有情に六の本識有るべし。便ち六の身と為って一体と為るに非ずなりぬ。」(『述記』)と批判されています。
  八 、転救(テング)を問答す。
 転救とは、本科段では護法の論難に対して、難陀等の論師は自説を転換して、別の角度から自説の正しいことを述べ、自説を救おうとすることをいいます。
 「誰(タレ)か言う、触(ソク)等(トウ)も亦(マ)た能く熏(クン)を受け諸(モロモロ)の種子(シュウジ)を持(ジ)すとは。爾(シカ)らずば、如何ぞ触等をも、識の如く、一切種(イッサイシュウ)と名づけむ。」(『論』第三・六左)
 「述して曰く、外人(ゲニン)の転計(テンケ)なり。此れは即ち本識(第八識)の種(シュウ)を持(ジ)し熏(クン)を受くるに例同(レイドウ)して、一切種(イッサイシュウ)と名づくるにはあざるが故に。」(『述記』第三末・四十一右)
 誰か言う、と。六つの眼識が生ずということになってしまうとは。触等も熏習(クンジュウ)を受け、諸の種子を持するとは言っていませんよ、と。
 そして、論主が復た問いかえされます。
 「爾(シカ)らずんば、如何ぞ触等をも、識の如く、一切種と名づけむ。」と。
 そうじゃないというのであれば(触等は熏を受け、種を持しないのに)、触等も第八識の如く一切種子と名づけるのか、その所由(ショユ)を問われます。
 難陀等は、似種(ジジュウ)を以て転救の根拠とします。
 九、「似種を挙げ破す」として、論主の問いを論破しようと試みます。
 「謂く触等の五いい種(シュウ)に似(ノ)る相有るを以て一切種と名づく。」(『論』第三・七右)
 『述記』は似種(ジジュウ)を解す。つまり、種子に似る相が有るんだと。真種(シンシュウ)と似種を以て反論をしています。
 本識が変為する種子は果を生ずる、種子は因、種子が変現する現行は果。因よく果を生ずるのを真種という。いうなれば本当の種子ですね。しかし、触等は識と同一所縁である。触等と識とは所縁が等しいわけです。識の所縁は種子(シュウジ)と五色根(ゴシキコン)と外器(ゲキ)ですが、識と相応の心所である触等もまた種子と五色根と外器を所縁としているのです。このような訳で、触等もまた種子を変為するのだけれども、果を生ずるということはないので、似種という。触等に種子に似る相があるので種子と言うだけであって実の種子ではないんだ、と。
 論主は外人に問います。何故そのようなことが言えるのか?
 外人が答えます。
 触等に似る相があるので種子と名づけたのだ、という根拠を述べます。三つの理由が示されます。
 (1) 触等と識とは所縁等しきが故に。
 (2) 無色(ムシキ)の触等も所縁有るが故に。
 (3) 親所縁縁(シンショエンエン)は定めて有る応(ベ)きが故に。
 三つの理由の詳細については明日紹介しますが、護法(論主)は「彼が救(グ)いい理に非ず。」と難陀等の主張を退けます。難陀等はもっともなことを言っているようだけれど、道理に適っていない、と。
 難陀等論師の反論になります。三因を以て似種(じしゅう)を顕す。
 (種子に似る相が有る)という先ず第一の理由です。
 「触(そく)等と識(しき)とは所縁(しょえん)等(ひと)しきが故に。」
 相応(そうおう)の二字を解する中で、心王(しんのう)と心所(しんじょ)は体一であることを明らかにし、四義平等(しぎびょうどう)と云う、「五十五に四つの等しきに由るが故に説いて相応と名づくと説けり。」と述べられていました。
 四義平等とは、
 (1) 事(じ)等と、(事とは体なり。)
 (2) 処(しょ)等と、(処とは所縁(しょえん)の相分(そうぶん)である。)
 (3) 時(じ)等と、(時とは心王・心所所起をあらわす。)
 (4) 所依(しょえ)等なり。(所依の根(こん)を云う。)
 事と処は等しい、とされ、
 心王と心所とは、時と所依の根とは同一(どういつ)であるとされます。
 『述記』(正式には、『成唯識論述記』じょうゆいしきろんじゅつき)に、
 「事と処とは相似(そうじ)せるを以て之(これ)を名づけて等(とう)とす。時と依とは定(さだ)んで一たるを以て之れを名づけて等と為す。」と。
 触等の五は心所ですが、異熟識(いじゅくしき)は心王です。心王と心所の関係は、行相(ぎょうそう)(見分・了別)が異なる。識は了別(りょうべつ)の作用をもっているが、触等の五とは、それぞれ行相が違う。触は境(きょう・対象)に触れることを性とし、受(じゅ)は領納(りょうのう)することを性とし、想(そう)は取像(しゅぞう)を以て性とするように、それぞれ行相が異なっていますが、時と依とは同じである。現行する時と所依は同じであると、はっきりさせているわけです。
 時は同です。同じ刹那(せつな)に生起(しょうき)している。今の刹那に同時に起こっていて、時がずれることがない。時は=刹那です。遍行(へんぎょう)とはこういう意味があるのですね。所依が同じであるというのは、根に依って起こっているということなんですね。異熟識には、所依の根があります。何に依っているのかと云いますと、第七識に依って起こっていますから、同じく第八識の所依の根と、相応する心所とは同じ根に依って起こっていますから、時と依とは定んで同じであると説かれているのですね。
そして「所縁と事と等し」と説かれているのです。事は自体分。影像相分(ようぞうそうぶん)を所縁と、これは等しい、相似の義であると云われています。識体は各々一つですが、境相は相似しているので、所縁と事とは等しいといわれている。
 「触等の五の相は本識の相に託して生ずるを以て、心王・心所の所縁既に相似せるが故に。」と云われているわけです。
 触等と識(心王と心所)と所縁が等しいというのは、例えば、眼識が所縁である花を見る時(眼識所縁の花ですから影像相分になります。)、眼識と時を一にして相応する心所もまた花を見ているわけです。これは所縁が等しいというのであって、識の所縁は識の所変(しょへん)であり、心所の所縁は心所の所変であり、同一というわけにはいきません。それを等しいと云われているのです。
 本科段の論題ではありませんが、識体は能変です。この能変に三つあると、異熟と思量と及び了別境との識なり」(『第二頌・第一句、第二句)。ここで八識別体が明らかにされているのです。能変が所現として現れているのが所変であって、所変の中の、相分を相分として認識を起こしているのが行相見分です。行相見分を能縁として、影像相分を所縁として認識は成り立っているのですね。
 「彼の影像は唯だ是れ識なるに由るが故に、善男子(ぜんなんし)、我、識の所縁は唯識(ただしき)の所現(しょげん)なりと説くが故なり。」(『解深密経』分別瑜伽品第六(げじんみっきょうふんべつゆがほんだいろく))
 ・ 識(事・識体・心王)の所縁は識の所変。
 ・ 心所の所縁は心所の所変。

 第二の理由は、
 「無色(むしき)の触等も所縁有るが故に。」
 「述して曰く、無色界(むしきかい)に生じては既に色(しき)をも縁ぜず。種をも縁ぜずといはば此れ何をか所縁と云うや。」(『述記』第三末・四十一左)
 無色界に至りますと、色法(しきほう)がありませんから、第八識は五根(ごこん)と器世間(きせけん)を変現することはなく、第八識の所縁ではありませんが、種子は変現されますので、種子を所縁とされます。これと同じように心所も心所の種子を変現し、所縁とします。同じ構造ですね。
 
 第三の理由は、
 「親所縁縁(しんしょえんえん)は定めて有る応きが故に。」
 心王には親所縁縁があり、心所にも親所縁縁があり、所縁を等しくしていると云う。
 ここに、所縁縁がでてきました。所縁縁は所縁が識が生ずるための縁となっていることをいい、所縁としての縁という意味です。四縁の一つです。四縁は後ほど説明します。また所縁縁は親所縁縁と疎所縁縁(そしょえんえん)に分けて説明されます。
 親所縁縁は影像相分(ようぞうそうぶん)をいい、見分が直接に認識する相分としての対象を指します。疎所縁縁は本質相分(ほんぜつそうぶん)で、阿頼耶識が作り出し、阿頼耶識自らが認識しつづけている本来的な存在をいいます。つまり、阿頼耶識が捉えた対象は無分別なのえすが、直接に捉えられた対象は分別によるものなのです。でも、ここが非常に大切なことを教えているわけです。私たちは、分別を通して、分別の奥に在るものに触れることが求められているのだと思います。そして、触れたことが鏡となって私の心を映し出してくるわけですね。そこに分別することの意味があるように思います。
 本科段は、識には親所縁縁があり、また心所にも親所縁縁があり、所縁を等しくしていることを理由の一つにしています。心所の所縁は、心所自らが変現(へんげん)したもので、これが心所の直接の所縁ですから、心所自らの所変現が親所縁縁になります。これがなければ認識は成り立ちません。
 つまり、「定めて有る応きが故に。」と言っているわけです。
 心所自らの所縁である相分がなかったならば唯識にはなりません。対象があっても、その対象は心外(しんげ)の法になるからです。
 
 以上で、難陀等論師が、護法の批判に対して「一切種」は「種子に似る相が有る」という理由で六門列同の義を挙げているんだと反論しているわけです。一応は尤もな主張のように見えますが、護法論師は、難陀等の主張は道理に適っていないと論破します。
 四縁(しえん)について(識が生じる四つの原因)、
 (1) 因縁(いんねん) ― 根本原因を因、補助原因を縁という。種子生現行(しゅうじしょうげんぎよう)を因縁依(いんねんえ)と定義されますように、阿頼耶識の中の種子であると説かれています。因縁依を種子依(しゅうじえ)とも言い表されます。
 (2) 等無間縁(とうむけんえん) ― 識が生じるための補助原因(縁)。一刹那前に滅したこころの総体で、前滅意といわれ、前滅意を縁として次刹那が生じてくる補助原因となるもの。
 (3) 所縁縁(しょえんえん) ― 識が生じるための縁となっていること。識が生じるための認識の対象を所縁とし、所縁を縁として認識が成り立っていることをいいます。この所縁縁を親(しん)と疎そ)に分けて、見分が直接に認識する相分としての対象を親所縁縁(しんしょえんえん)とし、阿頼耶識が作り出し、阿頼耶識が認識しつづけている本来的な在り方を疎所縁縁(そしょえんえん)といいます。
 (4) 増上縁(ぞうじょうえん) ― 因縁・等無間縁・所縁縁を除いた他のすべての原因を増上縁と云われています。例えば、一つの米粒が生じる場合、米粒の種子が因縁で、それ以外の大地や水・温度などが積極的な増上縁であるとされ、種子以外のすべての原因を増上縁と考えています。
 『瑜伽師地論』(ゆがしちろん)巻第三の記述を参考資料として掲載します。
 「又四縁(しえん)あり。一には因縁(いんねん)、二には等無間縁(とうむけんえん)、三には所縁縁(しょえんえん)、四には増上縁(ぞうじょうえん)なり。因縁とは謂(いわ)く種子(しゅうじ)なり。等無間縁とは謂く、若(もし)くは此(前念已滅(ぜんねんいめつ))の識の無間に後念(ごねん)の諸識(しょしき)復た決定(けつじょう)して生ず、此(前念已滅の識)は是れ彼(後念の識)の等無間縁なり。所縁縁とは謂く、諸の心心所(しんしんじょ)の所縁の境界なり。増上縁とは謂く、種子を除いて余の所依(しょえ)なり、眼根及び助伴(じょはん)の法を眼識に望むるが如し、諸余(しょよ)の識も亦た爾(し)かなり。又善不善(ぜんふぜん)の性(しょう)能く愛非愛(あいひあい)・異熟無記(いじゅくむき)の果を取る、是の如き等の類を増上縁と名く。又種子に由るが故に因縁を建立(こんりゅう)す、心心所の自性(じしょう)に由るが故に等無間縁を立つ、所縁の境に由るが故に所縁縁を立つ、所依の根及び助伴等に由るが故に増上縁を立つ。経に、諸因諸縁(しょいんしょえん)能く識を生ずと言うが如きは彼、即ち此の四因縁なり。一(因縁)は亦た因、亦た縁にして余の三は唯だ是れ縁なり。」 
 これまでは。三つの理由を挙げましたが、難陀等の論師の言いたいことは、心と心所とは不可分の関係にありますので、触等の心所にも所縁があり、その所縁は第八心王と同じではないが等しいことになり、その働らきがよく似ていることから似種であり、実の種子ではないが「似る相有る」ことから一切種といっているんだと。
 「此の似(じ)の相は因縁と為りて現の識等を生ずるものいはあらず。(『論』第三・七右)
 つまり、第八識の種子は現行を生み出す力があり、実種子であるけれども、この触等の似種は種子に似ているだけのことであって、識を現行させることも、種・根・器を現行させることもない、と反論をし、護法さんの問いただしは間違っていると、喩をもって答えてきます。
 「触等が上の似の眼根等の識が所依に非ざるが如し。」
 「亦たは似火(じか)の能く焼く用(ゆう)無きが如しと云う。」(『論』第三・七右)
 似火とは、鏡に映じた火のことで実の働きは有りませんが、似種とはそういうものである、というわけです。「鏡中の火を名けて似火となす、焼く用無きが如し。」(『述記』)
 ここから、護法さんの論破と正義が示されます。
 「彼が救(く)いい理に非(あら)ず。」(『論』第三・七右)
 彼は難陀等です。彼が彼の主張を正論化する論理も、理、道理に適っていないと、護法は一蹴します。その理由が次に示されます。
 「触等が所縁の似種等の相をば、後の執受処(しゅうじゅしょ)に方(まさ)に識と相例(そうれい)す応きが故に。」(『論』第三・七右)
 『述記』の釈を伺いますと、
 「述して曰く、謂く若し是れ触等は種に似る相を縁ずるを以て一切種と名づくと云はば、即ち是れ第四の境を縁ずるの門なり。第三門の一切種と云へるより後の執受処の中に在って方に相例すべし。如何ぞ前の一切種の中に於て乃ち境を縁ずることを例するや。」(『述記』第三末・四十二左)
 つまり、難陀等論師が前段で自説の正当性を論証する為に述べられた(似種という)ことは、第八識の第四・所縁門での問題である。触等が所縁の似種等の相を説くことは、「一切種」の「後の」の次の「不可知の執受と処と了となり」の所縁門に例同すべきところであって、『頌』の「一切種」に例同すべきではない。一切種は所縁であって、どうして一切種が対象を認識することができるのか、例同することはできないであろう、と。
 認識を起こすのは見分ですから、相分である種子が認識を起こすということはあり得ないのですね。また、種子生現行は、第八阿頼耶識に熏習したものが衆縁を待って現行し、現行が新たに種子を持するわけですから、一切種は心王について語られるものであり、心所である触等について例同すべき事柄ではなということなのですね。
 「此に由りて前(さき)に説きぬる一切種という言(ごん)は、定むで熏を受け能く種を持する義に目(な)づけたり。」(『論』第三・七右)
 一切種というのは、第八阿頼耶識が熏習を受け、種子を保つことから名づけられたものであって、種子と似種の所縁についての意義について名づけられたのではないのです。従って、触等には当てはまらないから例同すべきではないということになります。
 重言(じゅうごん)の失(しつ)。
 「爾(しか)らずば、本頌(ほんじゅ)に重言の失有りなむ。」(『論』第三・七右)
 『頌』の「一切種」は受熏(じゅくん)と持種(じしゅ)とを説いて名づけられたのであって、触等には当てはまらない。そうでなかったならば、「一切種」は阿頼耶識の因相門(いんそうもん)ついて云われていることですから、難陀等論師のように「一切種」を所縁で解釈すれば、『第三頌』にでてきます「執受と処」は所縁の相分を論ずるところですから、「一切種」も所縁、また「執受と処」も所縁を論ずるという二重の過失になってしまう。
 「若し是の受熏と持種とを説いて一切種と名づくること爾らずんば、本頌に乃ち重言の失有りなむ。上に一切種を解するに已に種を縁ずと言いつるに、下に執受を解する中にも復た種を縁ずと言うが故に。」(『述記』第三末・四十三右)と。
 難陀等論師の主張を全面的に否定する。
 「又た彼(か)の所説の亦如是(やくにょぜ)の言(ごん)は、簡別(けんべつ)せること無きが故に、咸(ことごと)く相例(そうれい)すと云はば、定んで証と成らず。」(『論』第三・七左)
 簡別(けんべつ)は、えらんで区別すること、或は否定することですから、「触等亦如是」の言が、簡別することがないので、「(咸」はすべて)すべてを例同するのだというのであれば、決して正しいということにはならない。何故ならば、
 「勿(まな)、触等の五も亦た能た了別(りょうべつ)し、触等も亦た触等と相応しなむ。」(『論』第三・七左)
 勿、上のようなことを言ってはいけない、もしそう言うとすれば、下に述べるように、明らかにおかしなことになってしまうであろう。つまり、触等も了別し触は触と相応するということになってしまう。了別は、ただ識の行相について言われることであって、心所には了別は無いものである。触等の五も触等と相応することは無い。本識と触等と相応すると説かれて明らかになっているからである。そうであるから、どうして触等を例同することができようか、と。
 このような道理に由って『頌』の中に説かれている「亦如是」の言は、「所応に随って説けり」と。「一切を謂うに非ず。」と。
  「此に由りて故(かれ)知る。亦如是(やくにょぜ)と云うは、所応(しょおう)に随って説けり。一切を謂に非ず。」(『論』第三・七左)
 これに由って知られるであろう。「亦如是」という言は、例同(れいどう)するところと、例同できないところがあるので、所応に随って判断するべきである。一切をいうのではない。
 では何を例同し、難を例同しないのかと言えば、
 例同を示す。
 「此は幾門にか例同するとならば即ち六門なり。前の二師は五門に例同す。今は断捨(だんしゃ)を加えて所応に随うが故に。余に例せざることは義に准じて知るべし。文の便に随うを以て中間(ちゅうげん)に相例せり。故に「亦捨位」(やくしゃい)にも例すと許す可し。・・・」(『述記』第三末・四十四右)
 断捨とは、伏断位次門の「阿羅漢位捨」(阿羅漢の位に捨す)を指します。
「触等亦如是」の後に、「恒転如暴流」(恒に転ずること暴流のごとし)という因果法喩門と伏断位次門がと説かれてきますから、この二門を含めて判断しますと、次のようになります。
 例同できるのは、
  果相門
  不可知門
  所縁門
  相応門 
  三性門
  伏断位次門
 例同できないものは、
  自相門
  因相門
  行相門
  受倶門
  因果法喩門
 となります。
 初能変は「触等亦如是」まで見てきました。
 次回からは、第七の因果法喩門に入ります。