唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 煩悩の心所 諸門分別 (9) 分別倶生門 (8)

2014-06-29 11:13:54 | 心の構造について

 今回より、正義(ショウギ)である護法菩薩の所論について説明します。

 「有義は、彼の論は麤相(ソソウ)に依って説けり、理実を以ていわば、倶生も亦常見に通ず。」(論』第六・十六右)

 本科段を『述記』は、三分科を以て説明をしています。

 「論。有義彼論至亦通常見 述曰。下文有三。一會前標擧。二引事。三類教。此初也。修道倶生亦有常見。瑜伽等依麁相説故。何謂麁相。謂得現觀者入無我觀。已知分別我已斷訖。出觀之時便生恐怖。今者我我何所在耶。即初我者倶生我也。又言我者分別我也。修道我義言我分別我何所在耶。依此初出觀時。縁涅槃起恐怖斷見。非修道中説無常見 此如何等。」(『述記』第六末・三十一右。大正43・449c~450a)

 『論』の「有義(護法の説)彼論至亦通常見」と解釈するならば、三分科をもって論じられるであろう。

  1.   前に会して標挙する。(第一師の説を会通して自説を挙げる。)
  2.  事を引く。(実際の事例を挙げて説明する。)
  3.  教に類す。(教証。主張の根拠と為る文献を挙げて、自説の正義を説明する。)

 此れは初なり。修道の倶生にも亦た常見有り。瑜伽等は麤相に依って説くが故に。 
 何をか麤相と謂う。謂く現観を得る者の無我観に入り已って、分別の我已に断ち訖ると知り、出観(シュッカン)の時に便ち恐怖を生じて、今我が我は何の所に在りと云う耶。即ち初我の者は倶生の我なり。又我と言うは分別の我なり。修道の我の義を以て我に分別の我は何れの所にか在る耶と言う。此に依って初に出観する時に涅槃を縁じて恐怖の断見を起す。修道の中に常見無しと説くに非ず。此れ何ん等の如し。」 

  •   現観(ゲンカン) - 見道における観察の総称。
  •   出観(シュッカン) - 四諦を観察してその観から出ること。

 第一師の主張は、辺執見の中で常見は分別起のものに限ると説いていました。それに対し、護法は常見も倶生起のものと、分別起のものがあると主張するのです。

 前段に於いて、第一師は、自説の正当性を証明する為に、主張の根拠である文献を挙げて論証しました。本科段に於て、護法は第一師の主張の根拠である文献を、そのまま引用し、会通して、第一師の主張は錯誤であると論破しているのです。

 『瑜伽論』(巻第八十六・八十八)・『雑集論』(巻第四・第七)等の内容は麤相に依って説かれているのである、と。いわば、大雑把に説かれているのであって、厳密には説かれていないのであると云っていますね。

 現観を学ぶ者は、「今、私の我は、どこにあるのか」という恐怖を起こすのは、倶生起の煩悩である辺執見の断見のみであるというのが第一の主張でありました。この解釈は一部分の状況を説いたものであって、大雑把にはその通りであるが、厳密には(理実を以てすれば)解釈の誤りがあるというのですね。

 護法正義

 辺執見の断見・常見は分別起にも、倶生起にも通ずるもである。

 前にも論じられていましたが、無我と聞いてですね。我は無いとなると、今の我は一体誰?なのか。「あなたは誰」と尋ねられて答える術をもっているのか、ですね。

 私は、パソコンに向かって打ち込んでいますが、この「我」と、これを読んで下さっている皆さん方の「我」はどこに存在しているのでしょうか、という問いかけですね。この我と我との関係性が縁起生であると教えられているのですね。

 このような問いに初めて答えたのが、五蘊仮和合という空観でしょう。縁起生だと。単立に独自の存在として存在する者は一人もいないという真実です。唯識では、依他起なる存在である。五蘊仮和合・依他起なる者として存在しているのが無我である空ということになりますでしょうね。

 この空を実体的に捉えますと、私が存在しているという執着に陥ってしまうのです。この執は倶生起のものであるという深い問題を抱えているのですね。もう一つは、空と教えられて、空を実体化するということですね、分別起の問題になりますでしょうね。

 このような二つの問題を抱えているのが「我」という問いだとすれば、辺執見の断見・常見は分別起と倶生起に通ずるものであるというのが護法菩薩の所論になり、正義であるという所以になります。