唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

法執について (8) 倶生起の法執の断滅

2013-09-19 23:01:03 | 心の構造について

 倶生の我執・法執は「恒に身と倶なり」といわれています。身と倶に起こってくるのが倶生の問題になります。出生と同時に持っているものなんです。考えられたものではないのです。非常に深い問題を宿しているわけですが、聞法もですね、身を聞く、考えられてあるものを聞くんじゃなく、もっと深い問題、思考を成り立たせている身と倶に有る問題ですね。ここを聞いていかなければならないということでしょうね。

 昨日は難波別院で「蠟扇忌」が営まれた云うことですが、清沢先生の「自己とは何ぞや」という問いもですね、身を問うということですね。「仏願の生起本末を聞く」ということと同質の問いだと思います。「現前の境遇に落在す」ということは阿頼耶識の本質に触れた言葉でしょう。分別を超えているわけです。本質に触れて分別が破られる、分別のところでいくら聞いても分別は破られないですね。親所縁を相分としている所は、影像を見ている、自分が描いた世界を自分が見ている、見ている世界は自分が描き出した世界であって、これが展転し、我執が刹那刹那に我執を生み出して自分を固めてくると教えられています。ここを突破する、これを紙一重の問題として押さえられているのでしょう。

 身をいただくということが大切なことではないかと思います。「安楽解脱身」と。安楽である解脱の身をいただく、「落在」は、「安楽解脱身」といただくことの他にはないのでしょう。

 親鸞聖人は、高僧和讃・天親章に、『浄土論』・不虚作住持功徳に

    本願力にあいぬれば
      むなしくすぐるひとぞなき
      功徳の宝海みちみちて
      煩悩の濁水へだてなし

と讃えられ、人として生をうけたならば、虚しく過ぎ行くことのない人生に出遇うことの他にはない。「身と倶」というところに本願は働き、光を当てている。「身と倶」は「無始の時より来た、虚妄に熏習せし内因力の故に、恒に身と倶なり」と説かれています。身と倶にあるもの、それは倶生起の我執であり、法執であるわけです。この執からの解放が、安楽・解脱・落在の身なのでしょう。迷いの因は自己の内因に依ることを聞く、これが本質に触れることにつながっていくのでしょう、その為に聞熏習が大切であると教えられ、それが多聞熏習することを求められているのです。

 唯識というと、心の問題と勘違いするわけですが、心の構造を解明するということには違いないのですが、身と倶にある問題ですね、執は恒に身と倶なわけです。心は幽体します。心ここに在らず、身は深いですね。身の上に乗っかってあるのが心。身は倶生の問題、心は分別の問題と言い切ってもいいのではと思います。

 今日は横道にそれてしまいました。明日は、倶生起の二の法執はどのようにすれば断滅出来るのかを考えてみます。