唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 ・善の心所 信について (11) 信の作用 (9)

2013-05-13 22:45:57 | 心の構造について

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 外、難じて言う(外人からの批判)

 「此れ猶未だ彼の心浄という言を了せず。若し浄即ち心なりといわば、応に心所に非ざる応し。若し心を浄なら令むといわば、慚等と何ぞ別なる。心と倶なる浄法ぞといわば、難と為ること亦然なり。」(『論』第六・初左)

 これだけでは猶未だ「心浄」という言葉を理解することはできない。もし浄がそのまま即ち心であるというのであれば、まさに心王であって、心所ではない。またもし、信は、「心を浄らかにする」というのであれば、信は慚等とどこが別(異なる)のであろうか、異なるはずはないであろう。また信は、心と倶である浄法であるといえば、心浄の場合と同じような問題(難と為る)がおこるであろう。

 「論。此猶未了至爲難亦然 述曰。三外難言。此由未了彼心淨言。若淨體即是心持業釋者。信應非心所。淨即心故 若淨體非即心令心淨者。心之淨故依依士釋第三轉聲。慚等何別。亦令心淨故。若心倶淨法。隣近釋者。淨與心倶故。爲難同令淨。亦慚等無別。」(『述記』第六本・四左。大正43・434b)

 (「述して曰く。三に外難じて言く、此れ未だ彼の心浄の言を了せざるに由るに、若し浄體即ち是れ心の持業釈にして、信は応に心所に非ざるべし。浄即ち心なるが故に。若し浄體は即ち心に非ず。心にして浄なら令むるは、心の浄なるが故に、依士釈に依る。第三転の聲なり。慚等と何ぞ別なるや。亦心にして浄なら令むるが故に。若し心と倶なる浄法にして隣近釈ならば、浄心と倶なるべし。難と為ること 浄なら令むるは亦慚等と別無きに同す。」)

 第四は、護法の会通。

 「此は性澄清にして、能く心等を浄ならしむ、心いい勝れたるを以ての故に心浄という名を立つ。」(『論』第六・二右)

 此(信)は、自性は澄清であって、能く心等(心王と心所)を浄らかにする。心王は勝れているものなので、その心王を浄らかにするという働きをもって、心浄という名を立てるのである。

 護法は、外人からの批判に答えて、心浄という意味は、心の体は澄清(澄浄)であって、心王・心所を浄らかにする働きを持つ、と会通していきます。

 護法の会通に二義が示されます。第二義は後の『論』の所論である、「又染法・・・・・・故浄為相」の解釈に『述記』は「此れ第二義なり」と述べていることから遡ってこの科段を第一義とします。

 「論。此性澄清至立心淨名 述曰。論主通曰。此信體澄清能淨心等。餘心・心所法但相應善。此等十一是自性善。彼相應故。體非善。非不善。由此信等倶故心等方善。故此淨信能淨心等。依依士釋。又慚等十法體性雖善。體非淨相。此淨爲相。故名爲信。唯信是能淨。餘皆所淨故。以心王是主。但言心淨。不言淨心所。文言略也。」(『述記』第六本下・五右。大正43・434b~c)

 (「述して曰く。論主通じて曰く。此の信は體澄清にして能く心等を浄ならしむ。余の心心所法は但だ相応善なり。此れ等の十一は是れ自性善なり。彼は相応なる故に。體善にも非ず、不善にも非ず。此の信等倶なるに由るが故に。心等方に善なり、故に此の浄信能く信等を浄ならしむるを以て依士釈なり。又慚等の十法は體性善なりと雖も、體浄相に非ず。此れは浄ならしむるを以て相と為す。故に名づけて信と為す。唯信のみ是れ能浄なり。余は皆所浄なるが故に、心王は是れ主たるを以て但だ心浄と言う。心所を浄なると言わず、文言略せり。」)

  •  能浄 - 浄める側
  •  所浄 - 浄められる側。

 信のみが能浄であって、それ以外、慚等の十法は体性は善ではあるが体は浄相ではない、どこまでも所浄であると会通しています。