唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変  受倶門・重解六位心所(23) 別境 ・念について

2013-03-12 22:38:34 | 心の構造について

 「謂く、数(しばしば)曾(むかし)受けし所の境を憶持して亡失せざら令め、能く定を引くが故に」(『論』第五・三十右)

 念の働きをさらに詳しく説明します。つまり、しばしば、むかし受けた所の認識対象を憶持(記憶して維持すること)して忘れないようにし、よく定を引き起こすからである。

 「論。謂數憶持至能引定故 述曰。重釋業用。曾所受境。念中或有已受彼體。或未得體但受彼類。如無漏縁染汚心等。即近親取名縁彼體。若遠取不著總名彼類。他界縁3使等並彼中攝。後得智縁有爲無漏等。名念彼體。縁眞如等。名縁彼類名等。無分別智縁眞如時。名縁彼體。初起一念名縁彼類。雖非曾受曾受名故。加行道中作彼觀故。名爲曾體。亦名彼類。令心明記此生定者。由多増故。定專注故。即唯善念生正定故。若散心念非必生定。」(『述記』第六本上・十一左。大正3・429c~430a) 

 (「述して曰く。重ねて業用を釈す。「曾し受けし所の境」というは、念の中に、或いはすでにかのを受けしことあり。或いは未だ体を得せず、ただかのをうくるなり。無漏を縁ずる染汚心等の如し。即ち近く親取するを、かの体を縁ずとなづく。もし遠く取って着せざるを総じてこの類となづく。他界縁の使等を並びにかの類に摂す。後得智の有漏無漏を縁ずる等は、かの体を念ずとなづく。真如を縁ずる等は、かの類と名等を縁ずと名づく。無分別智の真如を縁ずる時は、かの体を縁ずとなづく。初起の一念は、かの類を縁ずとなづく。曾受にあらずといえども、曾し(真如の)名を受けしが故に。加行道のうちに、かの観を作せしが故に、名づけて曾の体となす。またかの類ともなづく。心をして明記せしめ、此れが定を生ずというは多く増せるによるが故なり。定は専注なるが故なり即ちただ善の念が正定を生ずるが故なり。もし散心の念ならば、必ずしも定を生ずるに非ず」)

 『述記』には、念は、心に対象を明記せしめて、定を生起するのは、多増(多くは念の力によって増進するという)するからであり、定に専注(せんしゅ)するからであるという。すなわち、善の念が正定を生じるのであって、散心の念は定を生じるものではないという。

 体(境)と類(境)について - 念の対象は、曾習の境です。串習の境ともいいます。「数曾受けし所の境」のことです。この念の境が体境と類境の二つに大別されます。この体境と類境に二通りの考え方があるといわれています。

 直接的に、その体を縁じるものを体境、間接的に名等と縁じるものを類境とするもの。
 
過ぎ去った体を縁じるのを体境、後に、重ねて、また縁じるのを類境とするもの。

 ここに述べられています体境・類境は私たちの聞法や念仏と大きく関わっている問題が提起されています。『述記』の記述が大きく物語っていますので、意訳を通して考えてみたいと思います。(1)で述べられていますことは、「曾し、未だ受けざる体と類との境の中に於いては、全に念を起さず」ということです。すなわち、直接的に経験し認識したこと(体境)がなく、名を聞いた(類境)ことさえないものにおいては、すべてにおいて念はおこらないという。名を聞いた、ということは仏の名号や涅槃等の名を聞くということです。名を聞くということ、聞名です。これが人生のキーワードになるということを教えています。

 体境・類境のニ義について、『述記』の記述を読みながら、考えています。「むかし、受けしところの境」、過去に直接的に認識した対象を体境(念の中に、すでにかの体を受けしことあり)といい、或いはそうでないもの、直接的に認識するものではなく、間接的に、その対象を認識するものを類境と。間接的にという意味は、「無漏を縁ずる染汚心等の如し」といわれ、無漏という認識対象の名前を縁じるということが、類境といわれるのです。私たちの染汚心をもって、無漏の教えを念じられるのか、真如を認識するというということはどういうことなのか、「真如を縁ずる等は、かの類と名等を縁ずと名づく」といわれていますように、真如という名前を尋ねることによって、「むかし受けた認識対象」になるというのです。名前を聞くことに於いて、仏法が憶念されるということです。私もHPで書き込みしていますが、かって二十代の頃、少しばかり仏法に触れる機会を与えられました。しかし、いつの間にか、世間の荒波に翻弄され、自己中心の生活を送っておりました、今もその流れは断ち切れてはいませんが、それから、四十年経て、仏法が我が身の中にしみ込んでいるのを覚えます。かって訓覇先生が「仏法は毛穴の中に染みいるものだ」と教えられていましたが、その事の意味が、今の私には本当に「ありがたい」という意味をもって、私を迎え入れてくれています。無漏の教え、真如という言葉、仏を念ずるということなど、その名で真実を尋ねる場合、それが「曾習の境」となり、念の対象となり得るといわれています。「曾受にあらずといえども、曾し名を受けしが故に・・・名づけて曾の体となす。またかの類ともなづく」と。直接的に仏を観たこともなく、無分別智の真如も観じたことがなく、涅槃も証してはいないので、体境としては念の境にはならないけれども、その名を縁じることにおいて、類境として念の境として成り立つといわれるのです。教えを聞くことの大切さが教えられています。聞法を通して、我執を縁として必至滅度の道が開かれるのですね。我執は染汚心ですが、この染汚心が、類境として、無漏を縁じることが出来ると説かれています。また、「他界縁の使等を並にかの類に摂す」ともいわれています。他界の縁の使いなども類境に摂める、と。これは三界のなかの上界ですね。私たちは欲界でうごめいているわけですが、その欲界のなかで、上界(浄土)の事を名で尋ねて縁じる事であると説明されています。聞法が念の対象になり、心に明記して忘れないこと、という意義を持ち、聞いたことは、必ず身についているというになるのですね。そのことが、私をして願生浄土の道を歩ませるのです。