唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

『阿毘達磨倶舎論』に学ぶ。 本頌 (20)  第一章第四節

2013-02-03 15:28:04 | 『阿毘達磨倶舎論』

 第五有漏無漏門 第三十一頌前半と、後半の第六三尋伺門を釈す。

 「意法意識通 所余唯有漏 五識唯尋伺 後三三余無」

 (意と法と意識とは通ず、所余は唯有漏なり。五識は唯尋伺なり、後の三は三なり、余は無し。)

 前半の「意法意識通 所余唯有漏」は第五有漏無漏門である。
 意と法と意識とは有漏・無漏とに通ずると説かれていますね。所余、その他の五根・五境・五識(前十五界唯名有漏)は有漏である、と。

 後半の「五識唯尋伺 後三三余無」は第六三尋伺門である。
 尋は尋求(じんぐ)で浅くおおまかに追及する心といわれ、伺は伺察(しさつ)で、深くこまやかに追及する心であるといわれます。この尋伺(じんし)は、言説を起こす直接の原因となるわけで、先ずおおまかに何事かを追求し、その何故という問いを通してこまやかに追及することを尋伺といわれています。不定の心所に収められる。
 五識には尋伺が相応するから有尋有伺である。これは他に通じないから唯という、と。「義決定するを顕すが故に唯の言を説く」という。
 後の三(意・法・意識)は三尋伺に通ずる。余(五根・五境)は尋伺に関係が無いから無尋無伺でる。

 三種分別を説く。第三十二頌

 「説五無分別 由計度随念 以意地散慧 意諸念為体」

 (五を無分別なりと説くは、計度と随念とに由る。意地の散慧と、意の諸念とを以て体と為す。)

 五は前五識のこと。
 計度随念は三種分別の自性分別・計度分別・随念分別を指し、言葉や概念を用いて思考すること。
 自性分別は、現在一刹那の事柄を思考することに対し、随念分別は、過去の事柄を思考する。計度分別は過去・現在・未来にわたる事柄を思考すし、推度分別ともいわれる。

 意地は意識地といい、第六意識を所依地として散慧が起こることをいう。意識相応の散慧である。計度分別は第六意識相応の散慧をその体とする。
 意諸念とは、意識相応の定・散の念をいう。随念分別は第六意識の念の心所をその体とする。念は記憶する、思い出すこと、といわれていますね。「念とは明記不忘」と定義されています。P1000646_2

 前五識は自性分別のみであり、随念分別・計度分別は無い。無分別といわれているのは、過去や三世にわたって思考することがないから無分別といわれているに過ぎない、分別としてはもっとも弱いものである。ですから、計度・随念が無いから無分別であり、これを自性分別というのだ、と。


第三能変  受倶門 (45) 三受について 第四門

2013-02-03 00:04:31 | 心の構造について

 「述して曰く。自下は重ねて六位の心所を解す。中に於て二有り。初に所説を標し、総じて教興を勧む。私云勧異本作顕(教の興れることを顕し)、次に随って解釈す。これは即ち初なり。解釈する中に就いて、大文に二あり。初に五頌を以て別して心所を顕わす。後に総じて心所と心とは一と為んや、異と為んやと料簡す。此の初の中に就いて、分ちて二段と為り、初の一頌は二位を弁じ、後の半頌は煩悩の位を弁じ、次の二頌は随煩悩の位を弁じ、後の半頌は不定の位を弁ず。一頌を以て二位を弁ずる中に二有り。初に論端を問起し、後には問いに随って答す。」

 これより以下は、六識とともにはたらく心作用が説かれます。

 前に略して標示してきたところの六位の心所について、これから広説し、その区別の相を明らかにする。この広説について、おおきく二つの部分からなる。初めに所説を標示し、教えの興ることを顕し、後に六位の心所の五十一について、一つ一つ説明する。ここは、その初めである、といわれています。
 私は、この唯識の解釈をするのに、人間は善を為し得る存在であること、と同時に煩悩に翻弄され、悪を為し得る存在であること、そして善悪の根底に潜む自己中心性にしか生きられない無明存在であることを深く見つめ、学んでいく姿勢を貫いていきたいと思っています。これから六位五十一の心所について、六識に潜む心作用を学んでいきます。
 

 「初めに五頌をもって心所を顕す。(五頌別解心所 ー  第十頌~第十四頌) 後に総じて心所と心とは、一とせんや、異とせんやということを料簡す。(総料簡王所一異)」
 初めに五頌をもって心所を個別に説明し、後に心所と心王は一つのものか、異なるのか、ということを論じる。P1000644_2

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