唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第二能変 所縁門 (8) 末那識の所縁について

2011-08-15 08:38:29 | 心の構造について

 第三 ・ 安慧の説

 初めに、次前の師を非す。(火弁等の説を論破する。)

 「有義は、此の説も亦理に応ぜず、五の色の根と境とは、識の蘊に非ざるが故に、」(『論』第四・二十七右)

 (有義(安慧)は、この説(火弁等)もまた理にかなうものではないという、何故ならば、五色根と五境は識蘊ではないからである。)

 火弁等の説を論破するのに三段階に分けて説明する。この科段は第一である。要旨は第七識は第八阿頼耶識の相分を縁じるという主張は誤りである。何故ならば阿頼耶識は識蘊に摂められるからである。彼の境(第八識の相分)を縁じるとすれば、これは色蘊をも縁じることになる。火弁等の説では第七識は識蘊ではない「五の色の根と境」をも縁じる説になり、此の説は理に応じないと批判するのです。

 論拠は聖教(『瑜伽論』等)には「第七識は第八識を縁じる」と説かれているからである。

 「述して曰く、此れは安慧の説なり。次前の師を非す。所以は何ん。論に縁ずと言うは、彼の阿頼耶識は即ち識蘊に摂む。彼の境(相分の境)を縁ずと許さば、即ち色蘊に通ず。然るに此の色蘊は識蘊の摂に非ず。如何ぞ識を縁ずと言うものを、而も亦色を摂することを得ん。色若し是れ識蘊ならば、識を縁ずと云う言は色を縁ずとも許すべし、色は既に識蘊に非ず。識を縁ずという言には色(五根・五境等の色法)を摂せざるべし。(『述記』第五本・二十三右)

 色法が識蘊であるならば認められるかもしれないが、色法は既に識蘊ではないのである。「識を縁ず」ということには色法は摂められないのであり、火弁等の主張である、相分を縁じるという説は錯誤というよい他ないのである。更に

 「五識に同じく亦外を縁じぬ応きが故に、」(『論』第四・二十七右)

 (五識と同じく外を縁じることになる。)

 と批判します。

 五識は外境である五塵(五境)を縁じるから、外門転(げもんてん)の識である。第七末那識も五塵を縁ずるならば、外境を縁ずということになり、第七識も外門転の識ということになる。第七識は内を縁じて我とする内門転の識であるから、第七識が第八識の相分を縁じるという火弁等の説は誤りであるという。

 そして火弁等と安慧の間で対論があり、安慧が火弁等の説を再度論破するのです。

 それは「若し内の色を縁ずるを以て、内を縁ずと名づけば、五をも亦然りというべし、等流の境なるが故に」、火弁等が反論するわけです。「第七識は内の五境を縁じるから五識が外の五境を縁じるのとは異なると、それに対し「七と五との所縁の本質の境は皆な是れ本識の相分に摂むるが故に」(第七識と五識が縁じる外の五境の本質は第八識の相分でありそれは内の五境に他ならないから、五識と第七識が同じ対象を縁じることになり、内門転の第七識は外門転の五識と同様の外門転の識となると安慧は反論し、火弁等の主張を破斥します。

 「述して曰く、五識は五塵を縁ずるを以て、五識は外を縁ずと言う。末那も五塵を縁ぜば、亦応に外境をも縁ずべし。如何ぞ内を縁じて我を起こすと言うべきや。若し内の色を縁ずるを以て内を縁ずと名づけば、五(識)も亦応に然るべし。等流の境なるが故に。」(『述記』第四・二十七右)

 「疏に五亦応然等流境故とは、等流と言うは相似の義なり。七と五との所縁の本質の境は皆是れ本識の相分に摂むるんが故なり。」(『演秘』第四末・十左)

 そして火弁等の説ならば、

 「意識の如く共の境を縁じぬべきが故に。」(『論』第四・二十七右)

 (「第七識が第八識の相分を縁じるというのであれば」、第六意識のように五識との共境を縁じることになってしまう。)

 という点から論破します。

 第七識は内門転の識(内面のみを縁じて我とする識)であり、共境を縁じる識ではない。従って火弁等の主張は誤りであるという。

 「述して曰く、意識は五塵を縁じること、五(識)と同じきが故に共の境を縁ずと名づく。第七も五塵を縁ぜば亦応に意の如く共の境を縁ずと名づくべし。」(『述記』第四・二十七右)

 五識は五境(五塵)を縁じるが、第六識もまた五境(五塵)を縁じる - 五倶の意識

 五境が五塵といわれる理由は、五識の対象である五境。色・声・香・味・触境であり、これらの五つは欲望の対象となって心を汚すから塵に喩えて五塵という。