唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

仏陀 釈尊伝ー真宗カリキュラム資料1-に寄せて

2010-04-30 23:44:30 | 生きることの意味

 生きる事の意味を求めて、真宗カリキュラムのテキストとして昭和45年に東本願寺から出版されました『仏陀 釈尊伝』(蓬茨祖運述)を唯識の巻頭言として掲載していきたいと思います。今日はその「あとがき」より何故教法を学ばなければならないのかを伺ってまいります。

 「釈尊伝に関して、宗祖は「如来般涅槃の時代をかんがうるに、周の第五の主、穆王(ぼくおう)五十一年壬申(みずのえさる)にあたれり。その壬申より、わが元仁元年甲申(げんにんがんねんきのえさる)にいたるまでニ千一百八十三歳なり」と、教行信証の化身土巻にのべられているばかりである。もとより、それは単に釈尊の入滅の時期を算定されたものではない。その前に道綽禅師の「当今末法にして、これ五濁悪世なり。ただ浄土の一門ありて通入すべきみちなり」の文につづいて「しかれば、穢悪濁世の群生、末代の旨際をしらず、僧尼の威儀をそしる。いまのときの道俗、おのが分を思量せよ」ということの背景としてであった。近代に入ってその記録そのものが、科学的考証の対象となって、教行信証の心は埋没していった。如来の涅槃は、釈尊の死期を考える以外の意味をもたなくなったのが、近代における釈尊伝である。

 しかし、釈尊の涅槃は単なる人間の死ではない。人間のもっとも恐れる死、すなわち生活の崩壊を真実に越えた人の正しい覚(さとり)の異名というてよい。宗祖は「涅槃ともふすに、その名無量なり。・・・・・涅槃おば滅度といふ、・・・・・真如といふ、一如といふ、仏性といふ、仏性すなわち如来なり」(唯信鈔文意)ともいわれている。この意味で、近代において釈尊伝が科学的にとらえられてきたことは、人間より離れていた仏を新しく人間に近づけたと思わせることになった。しかし、近づいたのは科学的思考であって、仏ではなかった。「信心すなわち仏性なり。仏性すなわち法性なり」(唯信鈔文意)という宗祖の言葉は、われら人間にほんとうに仏を近づける道はその教法しかないことをあらためて明示するものである。宗祖が真実の教は“大無量寿経”といわれた。その大経の序文には、その意味で釈尊の八相、すなわち釈尊伝が大経の聴衆の徳として語られている。・・・それぞれの青年研修会において、われら人間生活の上に釈尊伝の意味を考察したものである。・・・」

 釈尊の生涯が私とどのような関係があり、生死の狭間の中でうごめいている私の四苦八苦をどのように見つめ、正覚を得ることができるのかを少しづつ私の師とよばせていただいています蓬茨祖運師に尋ねていきたいと思っています。