唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

唯識入門(30)

2020-06-13 09:24:45 | 『成唯識論』に学ぶ
 おはようございます。自粛要請も全面解除になり、何故か新型コロナが終焉したかのような感がありますが、終焉していませんからね。お一人お一人の行動の自粛が求められますね。たとえワクチンが開発されたとしても、新たな感染症が必ず生まれてきます。それは人間が環境と共存する姿勢を失って、人間が環境を破壊する限り、環境と人間の行動の摩擦から必然的にもたらされるものだと思います。いうなれば、感染症はどこかから来たのではなく、人間が人間自身の中から生み出してきたものであるという自覚が必要だと感じます。
 唯識は四分義に於いて警鐘をならしています。単純には、いのちは何を対象にして動いているのかということです。いのちの対象は自らの経験したことと、この身体です。そして共通するいのちの大地、つまり環境です。これを対象として動いています。自らの人格は、自らが作り出しているのです。決して他に依って動かされることはありません。
 唯識はいのちの根源を阿頼耶識と押さえています。非常に現実的です。迷ったり、苦しんだりしていることを大切にしています。その構造を四分義として表しているのです。
 阿頼耶識には、二つの側面があることを述べていましたが、『論』には「阿頼耶識は、因と縁の力の故に自体生ずる時、内に種と及び有根身とを変為し、外に器を変為す。即ち、所変を以て自らの所縁と為し、行相は之に杖して起こることを得るが故に。」と説かれています。
 阿頼耶識の所変とは、外界(外の環境)は、阿頼耶識が投げ出したものということなのです。外の世界があって、外の世界に依って私は左右されていることを否定しているのです。しかし、変化したものと云われても、外の世界に依って動いている自身が居ると思っています。これを迷いの種(因)だと教えています。この方程式によりますと、この迷い、苦しみの因を対象として人格を形成してくわけですから、結果は迷い、苦しみしか生まれてきません。
 一番はっきりしている世相では、何事も自身の優位性を求めて、他を利用しているでしょう。新興宗教で云えば、どちらも利用する関係で成り立っています。この方程式では、永遠に安らかな人生は送れませんね。
 ちょっと難しくなりますが、阿頼耶識の所変を阿頼耶識は自らの所縁としていることを説明したいと思います。
 阿頼耶識から変化したものを、自らの認識対象としているということです。そして、阿頼耶識の所縁を大きく分けて、執受と処になります。内的なもの(執受)に、種子と有根身が有ると述べられているわけです。種子は有漏の種子ですね。煩悩に染汚された行為の結果しか阿頼耶識の中に植え付けることはないのです。「諸の種子とは、諸の相と名と分別との習気なり。」と云われる所以です。これは、すべての有漏の善等の諸法の種子であり、無漏の種子は植え付けられないのです。それ故、『瑜伽論』等には、「遍計所執の妄執の習気なり」と述べているのです。
 有根身は、根(感覚器官)を有する身体ですね。五色根と根依処とに分けられます。根は、又、勝義根と扶塵根とに分けられますが、勝義根は真実の根、淨色所造と云われています。これは何を意味するのでしょうか。五色根(眼根・鼻根・耳根・舌根・身根)といわれる根そのものは宝石のような光り輝くものであることを、ヨーガ行者は発見したのでしょうね。そして、根を助けるものを根依処と云われ、扶塵根(ぶちこん)とも云われています。これら執受と処は、微細には働き、広大であるところから、認識されることはない所から不可知(ふかち・知りえることは無い)と云われるのです。
 このことを前提として、「了」について考えてみます。
 「了とは、謂く、了別、即ち是れ行相なり。識は了別を以て行相と為すが故に。」と。了別とは、ものごとを認識する働きの総称で、識の働きのことですが、これが「識の自体分が了別するを以て行相と為るが故に。行相と云うは見分なり。」と云われます。ものごとを区別して知る働きは見分に摂められるのである、と。     
 「此の中に了とは、謂く異熟識いい自の所縁に於て了別の用有るなり。此の了別の用は見分に摂めらる。然も有漏の識が自体の生ずる時に皆な所縁能縁に似る相現ず。」 
 私たちがものごとを認識する時には所縁・能縁という形をとるわけです。そして、所縁に似る相を相分といい、能縁に似る相を見分というのだと。所縁と能縁は別別に起こることはないのです。同時であって異時ではないわけです。それがですね。自体が生ずる時に、所縁・能縁という形を取ると云われているわけですね。「識は外境に似て現ずる」、外境に似て現れるものは相分ですね、そこに見分が働いている、と云われているのですが、こういう所に問題が生まれてきます。
 またにします。週末大雨予想です。自粛をしながら、自らをみつめるいい機会になるといいですね。合掌

唯識入門(29)

2020-06-07 22:01:40 | 『成唯識論』に学ぶ
 今晩は、ちょっと間隔があきましたが、四分義についての序説を述べてみたいと思います。
 四分義は何を現わそうとしているのか、ここが一番の問題だと思います。
 四分義は、私たちの認識の構造の心の奥深くに横たわっている自己中心的な思いによって成り立っているという問題を抉り出しているのです。
 第八識の行相と所縁、働きと、対象は何かという問題ですね。心は必ず何かを対象として認識をしているのです。『成唯識論』では、「謂く、云く」と答えています。
 『三十頌』では「謂く不可知の執受と処と了となり」と述べられていますが、注釈は「了」から解釈されています。
 不可知というのは、阿頼耶識の認識と認識の対象とのありようをを表す概念で、阿頼耶識の行相(認識作用)は微細であり、阿頼耶識の所縁(認識対象)、阿頼耶識は何を対象としているのかというと、執受と処と了である。執受とは種子と有根身、これは微細に働く、処は有情の所依処で器世間のことだと云われています。了というのは、「了と云うは謂く了別」、これは行相であり、識は了別するということが行相になると云われているのです。
 先ず、「種子と有根身」ですが、種子は、「謂く諸の相と名と分別との習気なり」と、私たちの経験のすべてが種子として蓄積されているということ、これが習気といわれるものです。それと、有根身、「諸の色根と及び根の依処となり」と。所依処は識の相分であり、外境、外の世界をあらわします。
 執というのは、「摂の持の義」、受は、「領の義・覚の義」である、「摂して自体と為し、持って壊せざらしむ、安危共同にして而も之を領受す、能く覚受を生ずれば名づけて執受と為す。」と云われ、種子と有根身と阿頼耶識は、安らかな時にも、危険な時にも、一体となって働くいく、これが識の根底に於て「暴流の如く」動いていると教えているのです。 
 覚受とは、感覚のことですね。身体が苦・楽などを感じること。生きているということは、覚受が働いていることになります。
 今夜も友と阿頼耶識について話し込んでいました。阿頼耶識の三相と本願の三心について、阿頼耶識は三世を包み、一切の経験を受け入れているのは、現在の立ち位置が覚りに向かえというシグナルを送っているということなんだと。それが法蔵菩薩の今現在の思惟ということになり、法蔵菩薩は、今、現に生きて働いている。法蔵菩薩という表現をとっているけれども、いのちの要として、阿頼耶識という苦悩を背負いながら、安楽解脱身を目指せと。それが安養浄土からの呼びかけなんでしょう。
 阿頼耶識には、二つの側面があることを述べましたが、『論』には「阿頼耶識は、因と縁の力の故に自体生ずる時、内に種と及び有根身とを変為し、外に器を変為す。即ち、所変を以て自らの所縁と為し、行相は之に杖して起こることを得るが故に。」と説かれています。
 阿頼耶識の所変を阿頼耶識は自らの所縁としている、と説かれています。阿頼耶識から変化したものを、自らの認識対象としているということです。そして、阿頼耶識の所縁を大きく分けて、執受と処になります。昨日述べた通りです。ただ、内的なもの(執受)に、種子と有根身が有ると述べられているわけですが、種子は有漏の種子ですね。煩悩に染汚された行為の結果しか阿頼耶識の中に植え付けることはないのです。「諸の種子とは、諸の相と名と分別との習気なり。」と云われる所以です。これは、すべての有漏の善等の諸法の種子であり、無漏の種子は植え付けられないのです。それ故、『瑜伽論』等には、「遍計所執の妄執の習気なり」と述べているのです。
 有根身は、根(感覚器官)を有する身体ですね。五色根と根依処とに分けられます。根は、又、勝義根と扶塵根とに分けられますが、勝義根は真実の根、淨色所造と云われています。これは何を意味するのでしょうか。五色根といわれる根そのものは宝石のような光り輝くものであることを、ヨーガ行者は発見したのでしょうね。そして、根を助けるものを根依処と云われ、扶塵根とも云われています。これら執受と処は、微細には働き、広大であるところから、認識されることはない所から不可知と云われるのです。
 このことを前提として、「了」について考えてみます。「了とは、謂く、了別、即ち是れ行相なり。識は了別を以て行相と為すが故に。」と。了別とは、ものごとを認識する働きの総称で、識の働きのことですが、これが「識の自体分が了別するを以て行相と為るが故に。行相と云うは見分なり。」と云われます。ものごとを区別して知る働きは見分に摂められるのである、と。     
 「此の中に了とは、謂く異熟識いい自の所縁に於て了別の用有るなり。此の了別の用は見分に摂めらる。然も有漏の識が自体の生ずる時に皆な所縁能縁に似る相現ず。」 
 私たちが物事を認識する時には所縁・能縁という形をとります。そして、所縁に似る相を相分といい、能縁に似る相を見分というのだと。所縁と能縁は別別に起こることはないのです。同時であって異時ではないわけです。それがですね。自体が生ずる時(認識が生まれるとき)に、所縁・能縁という形を取ると云われているわけです。「識は外境に似て現ずる」、外境に似て現れるものは相分ですね、そこに見分が働いている、と云われているのですが、こういう所に問題が生じているわけでしょう。
 またにします。おやすみなさい。

唯識入門(28)

2020-05-24 14:51:08 | 『成唯識論』に学ぶ
 今日は。先週はお休みをいただきました。一週おきまして、今週から四分義について考えてみます。認識はいかにして成り立っているのかという考究になります。
 それに先立ちまして、唯識の基本に一度立ち返りたいと思います。
 唯識は、2000年以上も前から仏教の世界では連綿として伝わってきた思想です。唯識とは、「ただ識のみあり」、ただ心だけがあるということです。「唯識」とは、私たちの苦悩の解明に心血を注いで発見した珠玉の名言です。
 ただ心のみがあるとはどういうことでしょうか。私たちは私と周りの外界(環境)、あるいは私と私とは無関係に存在すると考えている外界の二つがあると考えています。所謂、主客二元論です。具体的には私が意識してもしなくても山があり、川があると思っています。唯識はそれを誤りだと指摘するのです。では何があるのかといいますと、私の心が作り出したもの、私の心の映像(影像ようぞう)影といえます。一つの絵画を鑑賞しても私の捉え方とあなたの捉え方は違います。山を見ても、川のせせらぎを聞いても人それぞれの捉え方があります。それは絵画があり、山があり、川があるから見ているのではありません。見ている私が作り出した映像なのです。そこにポイントをあて、心のあり方を追求してきたのが唯識といえます。
 中国、唐代、孫悟空でお馴染みの三蔵法師=玄奘三蔵によって天竺、今のインド、カシミール地方からもたらされたものです。玄奘は『唯識三十頌』を解釈した十大論師の説を、一つ一つ翻訳したのですが、それでは非常に煩雑になる為に、弟子の慈恩大師基ととも共に天竺より持ち帰った経、論を整理して『成唯識論』を編纂しました。これを糅訳(にゅうやく)といいます。また慈恩大師基を第一祖として法相宗が開かれました。日本には遣唐使の道昭(どうしょう)によって661年頃持ち帰られ、奈良の元興寺、法隆寺、薬師寺に伝えられました。それから717年には玄肪(げんぼう)が入唐して智周に学び734年、奈良、興福寺に法相唯識を伝えました。以来仏教徒は仏教の基礎学として、「倶舎論」(くしゃろん)とともに唯識を研鑽しました。学ぶといいましても学問として学ぶわけではありません。あくまでも学仏道として、佛になる道を学ぶのです。道元禅師も「仏道をならうとは自己をならうなり。自己をならうとは自己を忘るるなり」とお教えくださっています。親鸞聖人は「念仏成仏是真宗」と、仏教を学ぶということは佛になる道を学ぶのです。佛とは「本当の自己に目覚め、その目覚めの道をお教えくださった人」と私は理解をしています。それでは私たちは、なぜ本当の自己に目覚めることができないのでしょうか。何が障害になっているのでしょうか。それを唯識を学ぶことによって明らかにしていこうとしているわけです。
 「識の所縁は唯だ識の所現なり」(『解深密経』)に見受けられます。所縁とは境の相分です。識は能縁の見分になります。これが認識の構造になります。
 私たちは普段何気なく見聞きしていることはあまり気にも留めていませんが、実はこのことは大変大きな意味をもっているのです。意識の上に上ってくる事柄について深くは考えませんが、実は意識が起こってくるには意識をコントロールする深い自我意識が働いているのです。意識は隋眠(ずいめん)、眠っている時は働いていません。しかし、眠っている時でも恒に働き、自身を執着している意識が有ると唯識は教えています。マナ識(末那識)といいます。このマナ識によってコントロールされた意識が深層の根本識(阿頼耶識・アーラヤ識)に蓄えられていくのです。意識-マナ識-阿頼耶識という図式が成り立ちます。表に表れたのが意識になります。この表層の識に6つあります。すなわち眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識です。前六識といいます。これに深層の意識であるマナ識、阿頼耶識を加えて八識というのです。三層八識によって私たちの意識が構成されています。すべての見聞きした事はは自分のよしあしにかかわらず、阿頼耶識に蓄えられていくのです。そして折に触れ意識の上に現れてきます。現在は過去の蓄積されていたものが縁に触れて現れてきたものだと教えています。それで現行(げんぎょう)といわれています。阿頼耶識は蓄える所という意味で蔵識ともいわれています。世界の最高峰ヒマーラヤ、雪山ともいいますが、つねに雪を頂いている、蓄えているところから音写をして阿頼耶識といい、その意味から蔵識というのだと教えていただいています。すべての経験された意識は阿頼耶識に種子として蓄えられ、熟成(熏習・くんじゅう)されます。意識は現行されたものです。この種子-熏習-現行は同時に起こってきます(三法転展同時因果)。現行されたものが種子となり熏習され、熏習されたものが縁にふれ現行されてくることから、三法は同時におこってくると教えています。私たちは本当に一期一会の時間を与えられていることがよくわかります。
 末那識とは、マナーの音写です。「思量するをもって性とも、相ともなす。」何を思量するのかといえば、我をおもいつづける、我の思い通りにしたいと寝てもさめても思い続けているということを本質としているということです。この思量されたものが、阿頼耶識に蓄えられて、意識の上に上り現実の行動となって現れてくるのです。仏道を修するうえで一番大切なことはこの末那識の転換だといえます。末那識転じて平等性智になるのです。自分のことしか思わなかった識(はたらき)がすべて差別なく平等にみる智恵に転換するのです。なんとも素晴らしいことではないでしょうか。
 「円融(えんゆう)至徳の嘉号は、悪を転じて徳を成す正智、難信金剛の信楽は、疑いを除き証を獲しむる真理なりと。」(教行信証ー総序より)
 私は信心の智恵とは、我執の命が転じて公の命に生きる願いを賜るものだといただいております。「普共諸衆生 往生安楽国」という願いに生かされる、我執しかない私にはからずも、思いもしないような願いが起こってくることだと了解をしております。
 唯識の根拠は、『解深密経』と『華厳経』十地品「三界はこれ一心の作なり」に依るとされています。三界とは迷いの境涯をいいますが、この三界は外に存在するのではなくして私の心が作り出した世界だというのです。是は俗に「何事も心のもちよう」というような唯心論ではありません。なぜかといいますと、「心のもちよう」というのも 私が作り出したものだからです。三界は私の迷った識がつくりだした迷い、苦悩の世界だといえるでしょう。三界とは欲界、色界、無色界のことをいいます。欲界とは文字のごとく、欲望に満ち溢れた世界を言います。色界は世界は欲望だけで成り立っているのではなく、精神世界が大切で有るという認識で成り立っている世界のことを言います。無色界は欲界、色界というような認識を超えた究極の世界とでもいえましょうか。五趣(地獄、餓鬼、畜生、人、天)のうち、天上の世界といえるかと思います。この天上の世界をも迷いの世界だと見抜いてきたのが仏教なのです。
 清沢満之先生は生きるということは「この現前の境遇に落在する」ものである、と教えてくださいました。ではどのようにしたら「落在者」に成れるのでしょか。共に唯識を学びながら考えてみたいと思います。
 世親菩薩に『無量寿経優婆提舎願生偈』(浄土論)という書物があります。その中に「観仏本願力 遇無空過者 能令速満足 功徳大宝海」(仏の本願力を観ずるに、遇うて空しく過ぐる者なし、能く速やかに功徳の大宝海を満足せしむ。)という一文があります。これは不虚作住持功徳成就といわれるところですが、世親菩薩はこの解釈に「すなはちかの仏を見たてまつれば、未証浄心の菩薩畢竟じて平等法身を得証して、浄心の菩薩と上地のもろもろの菩薩と畢竟じて同じく寂滅平等を得しむるがゆえなり。」と。私が本当に満足のできる人生を送るということは、何が起こっても、どんなことがあっても後悔をしない、それ自体が満足であるということを語っています。これは何を意味しているのでしょう。仏言に尋ねてみますと、人間的立場からは本当に満足のできる人生を送るということは不可能である、と教えているのではないでしょうか。人間的立場とは、一つのことを貫き通すことができない、どこかで挫折していかざるを得ないという現実が在るのではないでしょうか。挫折をしていけば元の木阿弥になってしまうのです。ここに聖の道が自力難行の道といわれる所以なのではないでしょうか。
 『末灯抄』に「浄土真宗は大乗のなかの至極なり」(真聖p601)と親鸞聖人はお教えくださいましたが、私から、自我の立場を超えることは不可能であるとするならば、どのようにしたら挫折をせずに、どのような境遇になっても現実から逃げずに現実を引き受けていくことができるのか、この問いにお答えくださったものであると了解をしております。仏の本願力に遇うということが唯一無二の、人生が空過することのない出来事になるのです。「落在」とは正にこの事ではないでしょうか。
 「煩悩を断じて涅槃を得る」断煩悩は仏教者すべての目標といってよいのでしょう。その断煩悩に難の質を見出されたのが親鸞聖人であり、親鸞聖人によって「慶ばしいかな、西蕃・月支の聖典、東夏・日域の師釈、遇いがたくして今遇うことを得たり。聞きがたくしてすでにきくことを得たり。」(『教行信証』・総序より)と如来恩徳の深いことをお教えいただきました。ここに断煩悩の道が不断煩悩得涅槃の道として成就することになったのです。
 我執・法執と簡単に言いますが、これは私の立場からは見えてこないものです。仏法に教えられて初めて気付いていくものですね。そこから自己を問うという姿勢が生れてくるものだと思います。ですから自己を問うといいましても、自分から起こした問いではないのです。仏法に触れることによって図らずも問われてきた問いなのではないでしょうか。仏法に触れるといいましたが、触れるということはどういうことなのでしょうか。どこかに仏法があって触れるのでしょうか。若しそうでありますならば触れる人、触れない人との差別が出てまいります。経典に『十方衆生』とか『諸有衆生』という呼びかけがありますが是は差別のない、すべての生きとし生きるものへの呼びかけであるはずです。では私たちはどこで仏法に触れているのでしょうか。そもそも仏法とはなんなんでしょうか。仏法は因縁所生の法といわれています。「諸行無常・諸法無我・涅槃寂静・一切皆苦」(諸行は無常であり、諸法は無我である、涅槃は寂静であり、すべては皆苦しみである)と、初期の経典に四法印として今日に伝えられています。是は私たちの存在は縁的存在であることを教えています。因(私)と縁(条件)が揃って今が在るということです。それに逆らって生きているところに齎されるのが一切皆苦なのです。一切皆苦そのものが仏法に触れているのです。「よき人の仰せをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり」(「歎異抄」より)と親鸞は信仰告白をされていますが、まさによき人の仰せを待って人生が転換し、一切皆苦が一切所求満足に転換していくのです。私たちは苦しんだり悩んだり、怒ったり愚痴ったりと休む暇がありませんが、それは何も無意味なことではなかったのです。苦しんだり悩んだりの脚下に仏法に触れていたのです。是は大変大事なことなのです。このことの意味をこれから学んでいきたいと思います。
 先ず皆さんに考えていただきたいのですが、認識はどのようにして成り立っているのかを憶念してください。
 認識の在り方について、一分義・二分義・三分義・四分義と考究されてきました。次回より少しずつ学ばせていただきます。
 

唯識入門(27)

2020-05-10 08:29:50 | 『成唯識論』に学ぶ
 おはようございます。コロナウイルスの感染拡大も少し落ち着いてきた感がありますが、本当に大事なのは今現在の後ひと踏ん張りだと思います。不要不急の外出はできる限り差し控えるべきでしょうね。今の行動が明日を演出する。今の行動が未来を決定し、明るい未来の創造は、今何をなすべきかが未来より問われていることだと思います。
 このことを唯識ではどのように捉えているのでしょうか。難しい言葉では「三法展転因果同時(さんぽうてんでんいんがどうじ)」と教えています。
 『成唯識論』では所熏・能熏のまとめとして説明されています。
 「能熏の識等は種より生ずる時に、即ち能く因と為して復種を熏成す。三法展転して因果同時なること、炷(しゅ)の燄(えん)を生じ、焰生じて炷を燋(しょう)するが如し。亦、束蘆(そくろ)の更互に依るが如し。因果倶時なりと云うこと理傾動(り・きょうどう)せず。」(『論』)
 「三法の喩を挙げて三法の体に喩う」(『述記』)といわれています。
 三法とは、種子・現行・種子の循環性を現します。
 種子生現行・現行熏種子。更互に因と為り、果と為る。現行は種子が表に現れた相なのです。種子生現行と云われています。
 同時に表に現れた行動が種子として蓄積されていく、この面を現行熏種子いわれているのです。この関係が同時因果なのです。
 種子(過去の行動の因子)が因と為って現行(現在の在り方)が果として生じ、生じた現行が因と為り、阿頼耶識の中に果としての種子を熏ずる。こういう関係が私の人格を形成しているのです。
 大きく見ますと、社会全体でも同じことがいえると思います。一人の身勝手な行動が社会全体の風紀を乱していくことになります。これは人間は相互依存関係にあることの証明になります。私のさりげない行いが、私の知り得ないところで影響を与え、与えられていることにないますね。
 私がここでパソコンと向き合えているのは、世界の裏側の人たちさえも、私を応援していてくださっているお蔭なんですね。私は、私の勝手で生きているわけではないのです。
 元に戻りますと、
 因としての種子
 果としての、現行
   と、
 因としての、現行  
 果としての種子
 これが、同時に起こることを三法展転同時因果と表しているのです。
  「現われた自己は隠れた自己である。」(太田久紀師)と教えてくださっています。
 教証としては、
 「諸法をば識に於て蔵す。識を法に於ても爾り。更互に果性と為り、亦常に因性と為る。」(『阿毘達磨経』)があげられます。
 種子が現行を生ずる場合には、生ずる縁が介在するわけです。さまざまな縁に依って生起してくるわけですから、衆縁(生)に依る、衆縁に依らない場合には現行は起こらず、種子は種子として阿頼耶識の中に蔵せられます。種子生種子として阿頼耶識の中に留め置かれます。
 喩が出されています。説明としては、
 ・ 炷焰の喩 - 炷とは灯心のことで、ともしび。焰はほのお、炷の焰を生ずるのと、焰の炷を燃やすのと同時因果である。わかりやすいですね。
 もう一つが、
 • 束蘆の喩 - 甲乙二本の蘆を束ねて立てる時、甲乙二つのものが互いに相い依って立っていることに喩えられています。甲は乙を因とし、乙は甲を因とし、相互の同時因果に依ることを表しています。
 なんとなく解ってもらえましたかね。ここで種子と熏習の説明は閉じまして、次に四分について考えてまいりたいと思っています。
 また来週です。



唯識入門(26)

2020-05-02 17:02:23 | 『成唯識論』に学ぶ
 今日は、一気に夏日ですね。体調管理しっかりと、濃厚接触は避けましょう。できるだけ外出も控えて、常日頃忘れていることを考えてみるいい機会ではありませんか。
 前回のつづきになります。
 古代の印度には論理学が学ばれていまして、特にですね、陳那(じんな・デグナ-ガ)論師が新因明学を完成させられて、唯識でもこの因明の三支作法を用いて説明されることが多々あります。
 前回の能熏の説明においても用いられています。宗・因・喩の三つを指しますが、宗とは、主張命題です。「AはBなり」ということになります。いんとは、宗が成り立つ理由ですね。喩は宗の正しさを裏付けるものとなります。 
 能熏になるものは、宗とは「作用有るを以ての故に方に能熏なり。」
 その理由は、「無為をば簡ぶ因なり。」喩えば「種子の生滅の用有るが故に能く果を生ずるが如し。」(『述記』)
 難しい熟語を並べるより説得力がありますね。
 そして能熏について大事なことは、「所熏と和合して転ず。若し所熏と同時同処にして不即不離なる、乃ち是れ能熏なり。」(『論』)
 所熏に説いてきた通りである。
 仏教は内観の道と云われているでしょう。そして唯識もですね、唯識無境と。境ですね、識所変である、と。内観の道とは何であるのかというと、外境は識所変であると教えているのですね。外境は、識体転じて相分・見分に似て現じているということですね。そして阿頼耶識はすべて受け止め、外に向かって現行する時に転識、七転識として現行されるわけです、能熏としてですね。阿頼耶識は所熏として私の行動のすべてを引き受けているわけです。
 結論としましては、
 能熏となり得るものは、七転識の心王・心所のみであると論じています。所熏は阿頼耶識。現に働いている七転識が能熏となる。この七転識の心心所は強い勢力を以て阿頼耶識に種子を植え込んでいくのです。
 自分が自分の種子(経験のすべて)を宿し、この種子が縁に触れ、表に現れて現実の私の人生を構成しているわけですね。問題にしているのは、私はどこに向かっていこうとしているのか、私の人生の指針はどこに依るのかが問われています。本当にどうなりたいのかですね。死ぬのが嫌だから、働いて生きている、という方もおいでになりましたが、これでは自分の思い、自分の考え、自分を拠所にした人生観しか生まれてきません。仏教は、これを一切皆苦と教えてきました。すべては苦だと。苦の因は自分の考えに縛られていることに依ります。縛られたら身動きができないですね。解放されたいと思ってもがきます。もがいてもだれも助けてくれません。ですから、縛られていることに眼を向けることなく逃避するわけです。それが竜宮城の問いかけです。
 今までの価値観が通用しなくなるんですね。今までは何となく流れに沿って幸せを求めてきたわけですが、今回の新型コロナウイルスは人間の行動を根底から破壊しました。ワクチンが完成し投与できたらウイルスは怖くないという妄想にかられていますが、事はそんなに簡単なものではないと思います。
 人間の生き方が問われていますね。他の動植物との共存、環境との共存、この地球、宇宙は人間が勝手に、人間の思うようにしてはならないんです。普段はこのような傲慢性は見えてきませんが、世界規模の感染症が教えてくれています。
 独りよがりの姿を天邪鬼(あまのじゃく)と教えていますが、破壊者です。一つには、他を利用してでも、他を蹴落としてでも、自分の思い通りに生きたい。二つ目は、経済至上主義。金さえあれば幸せになれるという思いですね。三つ目は、他に勝りたいという欲求です。これがなかなか深いのです。慢心なんですね。勝つと傲慢になり、有頂天になりますが、負けてもですね、負けてないんですよ。卑下慢という慢心が巣くっているんですね。この三蜜を避けなければなりません。そうしますと、謙虚さが芽生え、おおらかに生き得ることができます。依存症の問題もほどなく解消されることでしょう。俺が、俺が、私が、私がと云っている間は駄目でしょうね。
 今日は土曜日でしたが投稿します。連休中にはもう少し投稿したいと思っています。では、また。

唯識入門(25)

2020-04-26 11:24:00 | 『成唯識論』に学ぶ
 今日は。今日も世間の風に左右されることなく、後生の一大事について学んでいきたいと思います。
 後生とは、死んでからのことを言っているのではありません。私にとって一番大切なこと。生まれてきた意味を問い、死することの意味を問う、そんなチャンスが今与えられてることに感謝の意を表し、学びを進めていくことを表しています。
 父が死の間際にふと漏らした一言が耳の底にとどまって離れません。「俺の人生一体何だったんだ。」と。父の問いかけに応えていかなければなりません。
 今日から、能熏(のうくん)の四義に入ります。
 前回までに述べてきました所熏については、『摂大乗論』にも同じ定義が述べられていますが、能熏につきましては、護法菩薩独自の見解になります。能ですから、熏習する方の働きの定義になります。
 所熏は受け入れる方、能熏は能動的に種子を受け入れさせる方になります。しかし、この法則は同時同処で和合しているのですから不即不離と云う関係になります。
 簡単に説明しますと、有為法(変化するもの)は常住ではありませんから作用があります。作用がありますから能く種子を熏習することが出来るのです。これらは勝れた作用を持っています。尚且つ、能く種子を熏習するものは勝れた作用があって、その上に増減するべき性質のものでなければならないのです。そして、所熏と和合して転ず。所熏と能熏は不即不離の関係でなければ種子を熏習することは出来ないと説明しています。
 結論は、能熏となり得るものは七転識であると明らかにしたのです。七転識の心王と心所有法には能熏の勢力(セイリキ)がある、ということになります。
 これは、因位の第八識(所熏処)と果位の諸識及び因位業果の前六識は能熏の働きを備えていないので能熏とはならないと結審しています。
 私が、今、現に、此処に命を頂いているのは、無始以来からの諸条件に依っているんですね。種子生現行という有為法の中で、「なに一つ無駄ではなかった」訳なのですが、そう言い切れませんね。しかし、そう云い切れる自分に出遇っていくことが大事なことなんでしょう。
 生まれてきたことは、「遇」、たまたま、ということだと思います。生まれたということは、自分に出会ったということでしょう。その出会いは、出遇ったということが、たまたまの出来事であったと思います。
 その背景に不生不滅の無為法に触れた感動が躍動していますね。ですから、出遇ってみれば必然であった、自分自身に出遇うことがなかったならば、流転していることさえわからないまま、因果を分断し、他因自果として迷妄の渦の中に自己を埋没させていかざるを得ないわけです。
 それほど深く、私は私自身に出遇っていないわけでしょうね。私がという時点で妄想なんですよね。
 もう一つに、現行熏種子の条件を述べています。この場合の「熏」は習気を指しますが、阿頼耶識の中に種子を熏習させるのは、勝用(勝れた作用)が有って、勝用の上に増すべく、減ずべき性質のものでなければならないと規定しています。
 増減の有るものが能熏の条件であって、増減のあるものが種子を熏習するのである。増減があるというのは、能動的であるということ、動いている。何が動いているのかと云うと、聞熏習によって、無漏種子が増長され、有漏種子が減ずるということなのですね。
 私たちが生きていることは、能動的です。能動的側面が相続して、すべての行為が選択されることなく阿頼耶識の中に蓄積されます。阿頼耶識の所蔵面です。七転識が能縁・阿頼耶識が所縁になります。
 生きていくことの厳しさが教えられています。何一つリセットできないのですね。すべて阿頼耶識は引き受けて、次の生を産み出してきます。否応なくです。「疲れたな、嫌やな」と思ったことが即時に熏習されるんです。仏法に遇う、聞法という機縁がなければ、永遠に迷いの淵を彷徨うことになります。
 世間では、高学歴、一流企業、地位、等々、自分にレッテルを貼って生きていかざるを得ないかもしれませんが、定年退職をすると、肩書が無くなり、今迄の自分の居場所が突然なくなるわけです。ただの人になると、途端に生きていることの意味がわからなくなり、現役生活とのギャップに悩まされている方々を多く見受けられます。まだ地域の役員とか、各種団体の名誉職につかれている方は一面いいように思われますが、これも先延ばしですね。本当のことに触れ得ないチャンスを逸しているように思われます。これらの全体が善行であったとしても有漏だと教えているのです。有漏を積み重ねても迷いを転ずることはできないんだ、と。これが後生の一大事なんです。
 能熏が教えていることは、私は、今、何を、なすべきかと鋭く厳しく問い続けているのだと思います。そのことが問いとなって、「依」の問題が提示されるのではないでしょうか。またにします。

唯識入門(24)

2020-04-19 18:29:53 | 『成唯識論』は何を教えているのか。
 今日は。昨夜来より爆睡しました。ちょっと疲れがたまっていて、やっぱり歳ですね。身体は正直です。ちょっとすっきりしました。
 唯識は難解ですか。私は何処に向かって歩いているのか。どうなりたいのかを思索する学問になると思うんですよ。いわば、無条件の救いを実現する学問です。では何故無条件の救いが完成しなのでしょう。何が邪魔をしてるのか。この状況を唯識は詳しく説き明かしています。一言でいえば、唯識無境です。境は対象ですね。識は私の心の構造になります。私の心の構造のみが存在して、対象である境は無いといっています。この「無い」は実体的に固定的に存在するものではないということなのです。実は、私も実体的に固定的に存在するものではないんですね。
 それは縁に由って変化する存在であるわけです。ここで、我と法が語られます。唯識は我を明らかにし、無境は法を明らかにします。問題は我に囚われ、法に囚われている自己自身が問題であると指摘しているのです。
 現在の社会問題、これからも波状的に襲ってくるだろうと想像されるウイルスですね。核に代わって、人類が取り組まなければならない問題です。これが縁なのです。
 私個人が何ができるのか。無常である世界、無我である自己を明らかにすることが、最大限必要な課題であると思いますが、皆さんはどのように考えておられるのでしょうか。
 『大経』に「然るに世人、薄俗にして共に不急の事を諍う」と現在の状況を予言していますが、これは、いかにして生き延びていけるのかが、不急の事を諍うことに発展してくると指摘しているのですね。
 熏習に関しては、
 「唯だ識のみあって境はなし」(識の所現は識の所変なり)を言葉を変えて教えています。他人の行為は熏習しませんが、他人の行為にたいして思うことは熏習します。これ能なるが故です。そして即時ですから、時の前後は熏習しないということです。ただしですね、昨日のことであっても、「今」考えたり、それに左右されることは今の出来事ですから熏習されます。厳密ですね。未来のことは熏習されませんが、未来のことを今思うことは熏習されます。すべては「今」(刹那生滅)今といっても動いていますからね、意識されたときは過去の出来事になりますね。ですからね、熏習というのは思量を超えている。私の思いからは計らうことはできないのです。こういうのを自然(ジネン)と言い表されているんだと思います。
 私の判断というか、思いですね。思いから云うとですね、人生無駄だらけ、こんなはずではなかった、と。
 僕なんかは特にそうですね。過去に想いを馳せるのは悪くはありませんが、後悔ばかりが先行します。「何故・何故、ばかり」。しかし、はからずもです、仏法に出遇わしていただくことによって、今ある自分に気づかせていただきますと、すべては御縁の世界であったと頷きを得ますね。一つでも条件が欠けていたなら、今はありません。命は大事だといいますが、その命の大事さに遇うこともないでしょう。裏を返せば、自分の思いで生きてきましたね。自分の思いで生きてきたことが、どれだけ世間様に無理強いをしてきたのかに深々と頭が下がっていくのではありませんか。頭が下がった時に「すべては無駄ではなかった」といえるのではないのかな。種子が熏習し現行を生起する、という構造を阿頼耶識縁起として唯識は教えているのでしょう。
 「定散自力の称名は/果逐のちかいに帰してこそ/おしえざれども自然に/真如の門に転入する」 (『浄土和讃』)
自然(ジネン)は私の思い、計らいを超えている。超えているのは、私の思量の及ぶ範囲ではないということ。思いに先立って如来の用(ユウ)、働きが行きわたっているということなのでしょうか。そこを唯識は阿頼耶識の果相である異熟識(善悪業果位)であると明らかにしたのですね。因は善業か悪業(不善業)であるけれども、異熟識は無覆無記性であるという。転入ということが成り立つのは無覆無記に於いてですね。果は無記である、という所に聞法の大切さが伺えますが、如何なものでしょうか。


唯識入門(23)

2020-04-12 10:05:17 | 唯識入門
 おはようございます。あいにくの雨ですね。お昼以降春一番が吹き荒れるかもしれません。
 コロナの勢いは収まりをみせません。政府が七割から八割の外出を控えるようにというのであれば、あらゆる業種に御願いして、一週間から二週間、休業補償などを含めてロックダウンをするのが賢明であると思いますが、一部が動いて、お昼の営業は可能で、夜は駄目というのはどうなんでしょう。また、法規制外の営業を認めるというのであれば、水をすくって駄々洩れ状態ではありませんかね。
 家の近くの大型パチンコ店は来月六日まで営業を自粛されていますが、付近の個人店は営業されています。またここに依存症の人たちが集まるのですね。クラスターが発生する可能性大です。足並みが揃っていないことが要請の欠陥ではないでしょうか。
 それはともかく、今日は、所熏(経験の蓄積される場所を明らかにする。)について学びます。
 先ず、「若し法の始終一類に相続して能く習気(じっけ)を持す。」と定義されます。 
 法の始終一類とは、無始より仏位に至るまで、一類相続にして能く種子を保持することを述べています。これが所熏の一つの意義である、と。
 一類相続は、変化しない、同じ性質が同じ状態で保持されていく。そのような場所が阿頼耶識であり、熏習される所として所熏という意味になります。
 一類相続だから習気を持することができるのですが、反対に一類に相続しないもの、断絶のあるものは経験の蓄積される場所ではないことになります。
 それが、転易(てんにゃく)のあるものですね。時と場合によって変化するもの、すなわち七転識になります。
 そして、純粋に分け隔てをせず、すべてを平等に引き受けているところでなければならないということになります。それが無記性(むきしょう)といわれるところです。
 大事なことは、所熏処である阿頼耶識に何を熏習するのかですね。そこで、「聞」が大切な要素、栄養源になります。新鮮なものをいただきますと、栄養素になりますが、腐ったものを口に含みますと下痢を起こします。理ですね。
 仏法を聞く、所謂四諦の理を聞くということなんですね。聞くということがキーワードになります。四諦の理というのは、「『経』に「聞」と言うは、仏願の生起・本末を聞きて疑心あることなし。これを「聞」と曰うなり。」(『信巻』)と教えてくださっています。
 私たちは、知る知らないにかかわらずですね、真理の中に生きているわけです。例えば法則ですね、宇宙の法則といってもいいかもしれませんが、知らなくても生きていくうえで何不自由はありません。これを仏教は法執と教えてきました。法執から我執が生まれてきます。心の閉塞性が我執です。我執が真理(空)を覆ってしまうのです。
 我執は有為有漏として熏習されますが、真理そのものは熏習されません。所熏処となり得るものは熏習され得るものであるということ、ここが大事なところです。私たちは、業縁存在であるとか、遇縁存在であるといわれますが、因縁ですね。縁起性でしょう。縁起という真理の中で生かされているのです。それを恰も自分一人で生きているかのように錯覚をしているのが私の姿です。このような執着が熏習されてきます。
 執着は苦悩を運んできます。孤独という苦悩です。考えさせられますね。また。

唯識入門(22)

2020-04-05 12:05:47 | 唯識入門
 
 今回は熏習とは何かについて学びます。
 どのような理由から熏習という名を立てるのか。それは所熏(熏じられるもの=阿頼耶識))と能熏(熏ずるもの=七転識)に各々四義を備えて種子を生(新熏種子)・長(本有種子)するが故に熏習と名づけるのであると説明されます。
 種子論では、色は色という自己の種子を熏し、生じるときも同じ自己の色の種子から生じ、心は心の自己の種子を熏じ、生じるときも同じ自己の心の種子から生じる。けっして色から心が生じたり、心から色が生じるということはない。よって因果の道理に錯乱はないことを明かに説いていました。
 これを受けて、熏習に所熏の四つの性質と、能熏の四つの性質を明らかにしたのです。ようするに、熏習されるもの(所熏)と熏習するもの(能熏)とに分けて説明し、所熏になりえるものと、能熏になりえるものの特質を述べているのです。
 所熏の四義は『摂大乗論』にも説かれているのですが、能熏の四義は『成唯識論』独自の解釈になり、『摂論』を受けて『成論』が成立し、『成論』の背景に『摂論』があることがわかります。所熏の四義を備えたものが阿頼耶識なのです。 阿頼耶識を立てて初めて人間存在が立てられるのですが、これは唯識以前の仏教が六識で考えられていたと云う背景があります。
 つまり、意識の根拠、即ち意根の存在証明が不十分であるということなのです。眼識は眼根を所依とし、乃至身識は身根を所依とするわけですが、第六意識の所依は意根である。その意根は前滅の識を所依として成り立つと説明されるのですが、経験の積み重ね(種子)はどこに収まるのかの説明がつかないのです。
 無始以来の一切の経験が蓄積されている場所の説明ですね、表層の意識の奥深い所、深層に人間の非常に深い心があるのではないのかという眼差しが阿頼耶識を見出してきたのでしょう。そして阿頼耶識が阿頼耶識と名づけられるのは一切種においてであり、阿頼耶識はまた一切種識と呼ばれる所以なのです。
 無始以来(曠劫以来といってもいいでしょう)の一切の経験の蓄積されている場所はどこにあるのか。これが所熏の四義になります。六識が六識が成り立っているのではなく、六識の行為を残し、蓄積していく場所があって、はじめて六識が生きて働いているのであることを明らかにしてきたのが大乗仏教であり、とりわけ唯識仏教であるわけです。
 心の構造の重層性を明らかにしたのです。
 熏の説明ですが、
 熏と云うのは、発(ほつ)、或は由致(ゆち)であり、習と云うのは、生であり、近(ごん)でり、数(しゅ)である。つまり種子の果を本識の中に発し致して、本識中に種子をして生じ近ならしめ生・長せしめるからである。
 説明しますと、
 發とは一般的には、起こすこと、生じることを意味しますが、熏習論についての発には二つの意味があり、一つは開發(かいほつ)、(新熏種子を)初めて開きはっきりとさせることを熏といい、もう一つは繫發(けほつ)、繋は、つなぎとめること。本有種子であれば熏というという意味を持ち、本有種子をつなぎとめ生じることを熏という。
 無始以来、本有種子を心の中につなぎとめ相続し現行を生じて熏習していることが繫發という意味になり、現行から新たに生じてくる新熏種子を開發という言語でいい表しているのだと思います。
 「由」とは、所由(しょゆう))の義であって、いわれ、理由です。「因と言うは即ち所由なる故に種子を謂う。」ということですが、ここは、能熏の七転識は種子を第八識に熏習し、種子は、種子生現行として、現行を生ずる本となることをいっています。
 「致」とは「いたす」ということ、ある状態に至ることを意味します。能熏の種子を第八識に植え付け熏習させる働きを「致」と表現し、「近」は刹那滅のことを、近く現行の果を生ずる表現として用いられ、「數」は「しばしば」といわれていますように、數數熏習してという意味になります。
 今回は言葉の説明になりました。でも言葉を理解しておかないと、先に進むことが出来ませんので煩雑ではありますが、復習をお願いいたします。
 また、

唯識入門(21)

2020-03-29 09:40:01 | 唯識入門
 おはようございます。二週間ぶりの更新になります。ちょっと体調を崩しておりまして一週間飛びました。お許しください。
 今日は昨夜来からの雨で寒いですね。関東甲信越では平地でも雪模様になっています。お気をつけてください。
 そして新型コロナウイルスの猛威は止まりません。本音は、買い物以外の一週間程度の徹底した外出禁止と操業停止が必要なのかもしれません。そうなると、パニックが起こるでしょうね。そこまでしなくてもという批判も起こるでしょう。
 身近な接触、特に濃厚接触は避けたいですね。
 自分は大丈夫という妄想は通じませんよ。
 こんな時だからこそ、ゆっくりと自分を見つめなおす機会が与えられている未曽有の時が熟しているのですね。普段は、いそがしい、忙しいと自分を忘れて動き回っていますが、それが一つのウイルスで木っ端微塵に飛び去ってしますような、そんなちっぽけな自分を頼りにしていていいんですかね。
 四苦八苦という言葉を耳にしますが、この四苦八苦を頼りにして生きている存在が私なんです。それが迷いなんですね。
 いのちは、あなたと共に生き続けている。
 私のいのちは私が自由にできるものではない。
 あなたのお蔭で、私のいのちが保たれ、育まれ、そして輝くことが出来る。
 そんな関係性に生かされている私が、私を軸に生きることが迷いなんだと。
 大乗仏教は、空・無我と教えました。
 人間存在は、空・無我に迷っているのですね。護法菩薩は、「二空に迷・謬すること有る者に正解を生ぜしめん。」そして、「諸の有情を利楽せん。」という願いに立たれたのです。
 欲に生きるんでなしに、願いに生き得る存在になりたいですね。
 前置きが長くなりました。
   「超世の悲願きゝしより
     われらは生死の凡夫かは
     有漏(うろ)の穢身(えしん)はかはらねど
     こゝろは浄土にあそぶなり」(帖外和讃)
 横道にそれますが、新興宗教の折伏を考えて見たらよくわかります。先ず、病気治癒と貧苦からの解放が謳い文句です。外の世界を変えることによって、心が豊かになり、幸せになるという説得の仕方です。病気とか貧苦を冬に喩え、唱題を縁として「冬はやがて春になる」、春は幸福ということでしょう。この説得力にみんな参ってしまうのですね。病気が治癒し、貧苦から解放されたら幸せになりますよ。共に題目を唱えて病気と戦い、貧苦と戦いましょう、そして勝利しませんか、ということです。
 このような考え方を、慈恩大師は、「善の色を以て四蘊に望めて因と為し、四を色蘊に望めて亦因と為すことを得と云う」(『述記』)
 と、顛倒の考え方であると指摘されています。そして、
 「此れ即ち然らず、唯自果を引いて因果随順せり」何故ならば、「功能同じなるが故に、名づけて因縁と為す。」
 と。
 「唯自果を引いて因果随順せり。」なんですね。
 阿頼耶識の中の功能差別(「諸々の種子(人格形成の因)は阿頼耶識の中においてですね、親しく(直接に)自果(現在の結果をもたらす)を生ずる功能差別なり。」)がですね、これが種子であるということになります。ここは、阿頼耶識があって、阿頼耶識の中に種子が詰まっているということではなく、功能(能力)差別(さまざまな種子の区別)が阿頼耶識を形成していることになろうかと思います。
 またにします。