魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

猿蟹合戦

2024年03月19日 | 日記・エッセイ・コラム

物心ついた時から「植民地」という言葉を聞いているので、改めて植民地とは何かと考えることはなかった。
単純に、他の地域を力で支配し収奪するもののようなイメージがあり、植民地化された人々は一方的に苦しむように思っていた。もちろんこれは非常に単純な図式で、収奪搾取される側が苦しむどころか、快感と喜びを感じている場合もあることが、段々分かってきた。

しかし、当人が苦しみを感じていなければ、搾取ではないのかと言えば、そうでもない。取引は双方が納得するから成り立つ。取引は痛み分けなので、本当は双方とも不満だ。できるなら何も渡さずに相手の持っている物が欲しいはずだが、人間は共存のための交換を知っている。
だから、ある程度の損は当前と知っているので、その度合いが公平だと思えば納得する。したがって、考え方一つで、損な取引とも良い取引とも感じる。初めは喜んだ取引でも、慣れや飽きで、段々不公平だと思い出すのが人情だ。だから、新発売の商品は高く売り、徐々に値下げする。契約を盾に、最初のままの値段を続けると必ずトラブルになる。

サルカニ合戦
サルカニ合戦の、おにぎりと柿の種の交換は、その時点では公平だ。夢と現実を交換したので、双方に価値があった。問題は、成った柿をサルが一方的に奪ったことにあるが、このようなあからさまな強奪は侵略戦争であり、実際の殖民地では起きない。
サルはカニを納得させ8割の柿と交換するために、今度は桃の種を持ってくる。恩着せがましいサルに、カニは感謝しながら果物を提供し続ける。このような取引は自然界にも多く見られるが、次元を替えて観ると必ず何らかのバランスがとれている。

やがて、カニの庭は豊かな果樹園になり、サルがいつまでも新しい種を持ってくることができなくなると、種の要らなくなったカニはサルが不要になり、8割も取られていたのは欺されていたのだと怒り出す。つまり、今と比べ、発売時の高い値段はケシカランと思う。
サルがどういう魂胆であっても、カニが欺されていたとしても、カニが豊かになったことは事実なのだが、「欺された」と思い込んだカニは悔しい。自分がバカだったとは思いたくないから、サルを悪者にしたい。今度はサルを欺して仇を取れば、自分がバカではないことが証明される。

カニの仇討ち
中国は欧米や日本の手口や優越感を逆手にとって、どうぞ、うちの空き地に種を蒔いて下さいとニコニコもみ手で招待し、果樹が育つと突然、これはうちの土地のものだ。泥棒は出て行けと柵を張った。まさに、カニの仇討ちだ。
中国がこの知恵を学んだのは、韓国からだろう。中国は元々、柿の種の「取引」を拒否したから、国土を蹂躙され荒廃し、カニのように柿の木を育てることができなかった。その間に周辺アジアは欧米殖民地として文明化し、ことに、日米と直接関わった韓国は柿の種で豊かになった。

これを見て、取りあえず「拒否」を止め、「魂胆」で対抗して大成功した。中国と韓国の違うところは、「された」と「した」の違いだ。韓国は無自覚不本意に文明化「された」が、中国は自分の意志で土俵を造り相撲興行を「した」。
だから、不本意な韓国はどんな結果であっても他者を恨むが、意志的な中国は恨まない。むしろ「してやったり」と、得意になって他者をナメてかかる。そして、周辺の「される」国々に対し、自分が「して」やるサルになろうと動き出した。問題は、下請けの果樹園で大きくなった中国には、目新しい「種」がないことだ。
一方、恨みながらも葛のように日米に深く関わっている韓国は、種がなくても自由に往来できる。

中国の逆襲に、アメリカは直ちに物流の出入りに壁を作り、国内に浸透する情報の血流「TikTok」の活動を駆除するために企業売却を迫っている。これはいかにもサル帝国のボスザルらしい君臨法なのだが、見習いザルの日本は、ありがたくボスザルのIT企業を受け入れただけではなく、実害の出ている「LINE」でさえ何の手立ても施さず公共の柱にしている。
現代の殖民地は物の売買ではなく情報の売買であることを知らないまま、復讐心を秘めた若ザルの、オモチャのカニになっている。消耗品の情報では果樹園は生まれない。


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