魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

不易流行

2024年02月07日 | 日記・エッセイ・コラム

近頃、若者が「。」に圧力や脅威を感じると言うことで、大人世代が動揺している。
「。」拒否は、主にネット上の通信文のことだろうが、解らなくもない。
ネットが日常会話の場になっている以上、通信文は会話であり、「。」が付けば成文化された「動かせぬもの」の権威を帯びるのだろう。

会話は「、」や「。」を付けなくても、呼吸で区切りや間合いが分かるが、文章は感触、ニュアンスが分からない。
文章と会話は違う世界と大人は思ってきた。しかし、ネットで文字慣れしている若者世代は、文字だけで呼吸を読み取る能力を付けている。あるいはそう錯覚しているのかも知れない。
現在の大人世代も、戦前世代の通信文には違和感を感じた。軍隊用語は言うまでもないが、通常の手紙も「候文」で、日常は使わない言葉や仮名遣いをしていた。
今の若者も、それと似たようなギャップを感じるのだろう。

ネット後の文章常識が、徐々に変化していることは事実だ。
しかし、だからと言って、若者に合わせて大人が腐心することはない。その世代にはその世代の会話や文章があるのは当前だし、その多様性によって社会に厚みができる。
言葉は時代によって変遷する生きものだ。手紙の候文がいつの間にか消え、一方でビジネス文書の陳腐な定型文が残っていたりする。

明治の言文一致運動から1世紀も経った70年代に、見慣れぬ会話体で書かれた雑誌記事に、「記事の文章ではない」と揶揄する人も多かった。それから半世紀経っと、ネットでは「。」無し文が一般化し始めた。
どの文体どの見方も間違いではない。言葉は環境変化の中で自然に変わっていく。聞き慣れない話し方や文章を、拒否する人も迎合する人もいる。そうした摺り合わせの中で息づいているのが言葉なのだから、ファッションと同じで、自分の信じるものを纏い用いれば良いのではなかろうか。

どんなファッションを見ても、自分の概念に無かったものを、「けしからん、みっともない」と思う人もいれば、「へえー!やってみよう」と思う人もいる。
シャツの裾を出すか出さないかと同じで、「。」問題もやがて新しい定型が生まれ、収まるところに収まる。
古今東西、言葉は違うが、その場の言葉が通じなくなったこともない「。」


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