魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

おにぎり

2017年04月23日 | 日記・エッセイ・コラム

昨秋、午後1時頃、竹田で乗り換え、近鉄の奈良行き急行に乗った。平日だが、観光客と通勤、通学客が乗り合わせるので、何時も込んでいる。
その上、この線はよく揺れるから、つり革を頼りに、外の景色を見ていた。宇治川や木津川を越えて奈良に向かう歴史の山河は、目にするだけで、わくわくする。

ふと下を見ると、前に座った30代の、田中裕子風の紺スーツの女性が、真っ白い大きななおにぎりを取り出した。小型のビジネスバッグのどこに入っていたんだろうと、改めて見比べた。おもむろにサランラップをめくると、黙々と食べ始める。小さな顔の半分もありそうだ。
ペットボトルのお茶を飲みながら、リスのように上からかじるが、なかなか減りそうもない。

きっと仕事で忙しく、せっかく作ったおにぎりなのに、昼食の間が無かったのだろう。移動の合間に食べているのに違いない。
しかし、それにしても、どこまでも真っ白なおにぎりだ、のりさえ巻いてない。何かおかずもあるのかも知れないが、混み合った電車のベンチシートでは、それを出せるゆとりはない。大きなおにぎりを半分ぐらい食べても、梅干しさえ出てこない。塩だけのようだ。

見ていると、昔懐かしいおにぎりの味を思い出し、本当に美味しそうだ。近頃のコンビニおにぎりは、「食品」になっているが、本来のおにぎりは、塩で握っただけで、じゅうぶん贅沢で、「米を食べる」幸せが、おにぎりにあった。
小学校の時、教室の後ろ一杯に貼られた年表の平安時代に、ポツンと一行、「おにぎりが発明される」とあって、ものすごく不思議に思った。何であんな簡単なものが「発明」なんだろうと、ずっと気になっていたが、古典で「乾し飯」というものを知り、おにぎりに至るまでの人々の食を思い、感動した。

和食が世界でブームになっている一方で、日本の米消費量は下降線を辿っている。和食は米食と言っても良いぐらい、日本文化は米によって成り立っている。
豊葦原水穂国に2000年も暮らしてきた日本人は、骨の髄まで米を求めている。日本人が米を食べなくなれば和食は消える。それどころか、もう神社も天皇も要らないことになる。
米ばかり崇める文化は、軍隊の麦飯を拒否した森鴎外の失敗のように、栄養バランスの観点からは良いこととは言えないが、米のうまさを忘れるようでは、日本文化の継承など語ることはできない。しかし一方で、米を崇めることと、日本人の本当の食とは必ずしも同じではない。

五穀と言われるように、日本人の実際の食生活は、米以外の穀物によって支えられていた。何事もそうだが、一つの呼び名が、一つの姿を現すものとは限らない。近頃は規律やモラルを叫ぶ人が増えたが、正確や正しさにこだわる人ほど、得てして本質を見失うものだ。
アブナイ、アブナイ


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