非国民通信

ノーモア・コイズミ

おまけ:未来を占う

2024-10-10 21:37:54 | 非国民通信社社説

序文はこちら

第一章:キエフ・ルーシの時代からソヴィエト連邦の時代まで

第二章:ロシア帝国、及びソヴィエト連邦の支配者達

第三章:ロシア・ウクライナを取り巻く往年の連邦構成国

第四章:ウクライナ、崩壊への歩み

 ここまでの4章では「過去に起こった事実」を振り返ってきましたが、最後に「これから先」のことを考えてみたいと思います。もっとも未来のことは誰も分からない、皆が上がると確信していた株価も時には急落するように、何が起こるかを予知することは出来ません。ただ「今」ある情報から、可能性の高いものを探っていくことは出来るでしょう。

 まず、このウクライナを舞台にした戦争はいつ終わるのか。ロシア軍の前進は続いていますが、そのペースが加速したところでウクライナ全域を開放する目処が付くには遠く及ばないのが現状です。一方で劣勢のウクライナ軍も「負けない程度に」欧米諸国からの兵器や傭兵が送り込まれており、NATO側の継戦姿勢は変わる様子がありません。ロシア側には状況の良いところで停戦する意思が見えるものの、NATO側にはロシアが消耗しきるまで戦争を続ける意欲がある、そして傀儡国家であるウクライナには主権がない、というのが現状でしょうか。

 ただ、NATO側の支援も中道派と右派のパワーバランス次第で変わる可能性があります。中道派はアメリカ陣営の敗北を絶対に受け入れることはできず、どれほど自国の負担になろうともNATOの勝利のために尽くしてきました。しかし「自国第一主義」を掲げる新しい右派はNATOの勝利のために自国が犠牲を払うことを厭う、自国の負担が増えるくらいならばウクライナなど切り捨ててしまいたい、そういう発想が強いわけです。

 現在はまだヨーロッパでもアメリカでも中道派が主流であるものの、時に右派が得票率でトップに立つ場面も出てきています。アメリカ第一主義ではなく自国第一主義が影響力を強めていけば、NATOという「陣営」の勝利のための支出は減らされていく、ウクライナを操るための糸も少なくなっていくことでしょう。そうなったときに漸く停戦合意が現実的になる、ロシアとウクライナの間での戦闘停止までは進められるようになると考えられます。

 ただ恐らくは、合意できても朝鮮戦争のように無期限の休戦であって、戦争の完全な終結とまではならない可能性は高そうです。結局のところウクライナとは舞台であって、根本的にはロシアとNATOとの対立がある、それが変わらない限り恒久的平和は望めません。ウクライナのNATO入りは既定路線となっていますが、そうなればウクライナはNATOの前線基地として再び自国を差し出すことになるでしょう。逆にウクライナが自国の意思で中立であろうとしても、ヤヌコヴィチ政権のようにクーデターで潰される虞も恐れもあるわけです。

 前章で書いたように、クーデター後のウクライナでは2度の大統領選挙が行われましたが、いずれも相対的には穏健派の候補が勝利しています。ウクライナの国民自体は必ずしも争いを望んでいない、隣国に反感はあっても決定的な対立までは避けたがっているのでしょう。しかし、いずれの大統領も当選後はナショナリズムに訴える道を選んだ、選挙時の対立候補に負けず劣らず反ロシアを掲げ、国内の反対派(ロシア系住民)を弾圧してきました。これが繰り返される限り、ウクライナ人はNATOの傭兵として使い潰される運命から逃れられないといえます。

 そもそもソ連が白旗を揚げ崩壊した後のNATOの歴史は、裏切りと侵攻の歴史でした。東方へは拡張しないとの口約束は容易く無視され、NATOは昔年の「東側」諸国を次々と傘下に組み入れていきます。それがウクライナまで到達したところで今回の衝突に至ったわけですが、仮にロシアとウクライナの二国間で停戦が成立したところで、ロシアとNATOの間の勢力争いが続いている以上、NATO側は必ずや「次の手」を打ってくることでしょう。対立の火種は、決して絶やされることはありません。

 ウクライナがどのような結果に終わったとしても、NATOの東方進出は終わらない、次なるターゲットとしてモルドヴァは既に自ら挙手していますし、州じゃない方のジョージアやカザフスタンなどで親米政権が樹立され、対ロシアの前線基地が築かれる可能性は否定できないです。そして現在でこそロシアの同盟国として知られるベラルーシも、反政府活動家が当たり前のように国外からの支援を受けていたりします。ウクライナで起こったようなクーデターがベラルーシで起こらないとも限らない、そして誕生した親米政権がNATO入りを宣言してロシアに銃を向ける未来もあり得るわけです。

 一方のロシア側に目を向けると、むしろ開戦してから経済が堅調に推移していることは注目に値します。考えられる理由としては①資源輸出先となる国には困っていないこと、②欧米資本の撤退によって脆弱だったロシア国内の企業にチャンスが生まれたこと、③軍需産業を中心に政府支出が大きく増えており、その結果が労働者への分配にまで繋がっていること、でしょうか。

 上記①の資源輸出に関しては今後も継続して需要があり、戦争終結に関わらずロシア経済の柱の一つであり続けることと予想されます。そして②は結果として保護主義の導入と同じ意味をもたらしている、国内事業者に機会を与えているわけです。もちろん保護主義は長期的な解決にならず、閉鎖市場はソ連時代と同じような頭打ちに繋がる可能性がありますが、それでも市場開放の結果として欧米企業に蹂躙されて来たロシア国内企業に立ち直りの時間を与えるものとしては、良い効果をもたらしているようです。

 そして③ですが、緊縮財政を国是とする日本の経済が低迷しているとのは真逆で、軍事であろうとも政府が支出を増やせばそれだけ市場は豊かになることが証明されています。日本では空想上の概念に過ぎなかったトリクルダウンがロシアでは現実に発生していると伝える向きもあるなど、何はともあれ結果は上々です。ただ戦争終結後にロシア政府が引き締めに走ると危ない、戦時から平時に戻ったからと日本的な財政再建論が優先されてしまうと、むしろ戦争終結後にこそロシア経済に危機が生じるものと予想されます。

 また戦前はウクライナを巡る問題を何とか外交的に解決しようとしてきたロシアですが、NATOの頑なな姿勢が続いたことで「吹っ切れた」と言いますか、かつては欧米諸国との関係を意識して距離を置いてきた国──イランや北朝鮮など──との国交を深めるようにもなりました。元より極東地域の開発やアジア・アフリカ地域との外交に力を入れてきたこともありロシアの東方シフトは続く、今後は日米欧の排他的仲良しグループとBRICSなど新興国の寄り合い所帯との間では、後者の方に軸足が移されていくことでしょう。

 ただ現状でこそ旧ソ連時代からの遺産と潤沢な輸出資源のおかげで新興国の中の大国として地位を築いているロシアですけれど、懸念点として「人口」の問題は避けて通れません。ロシア経済の好調ぶりを反映して失業率も非常に低い状態が続いているのですが、それは人手不足の現れでもあります。元より人口規模で中国やインドには全く及ばず、これから伸びてくるアフリカ諸国にも人口規模の面で後塵を拝することになるでしょう。人口流出こそ限定的であるものの、他のヨーロッパ諸国と同様に出生率は低く自然減の局面に入っており、このためにロシアの経済規模は頭打ちになる、存在感が相対的に小さくなっていく可能性は無視できません。

 人口減少を補えるのは中央アジアなど諸外国からの移民ですが、ソ連時代の多民族友好の精神で移民を自国に取り込めるのか、あるいはウクライナのように政治がナショナリズムに阿り多数派住民「以外」の存在を排除してしまうのか、ロシアが大国で居続けるための分岐点はそこにあると言えます。ソ連時代にはアフリカからの留学生を積極的に受け入れ、ここから多数のアフリカの指導者が育ちました。一方で現代はアメリカで教育を受けた政治家が東欧の政界を牛耳っている等々、文化的発信力の面でもソ連時代からの後退が見られます。新興国の出身者を自国の力に変えられるか、それとも厄介者として排除しようとするのか、大国であろうとするならば困難でも前者を目指す以外に道はありません。

 もっとも人口減少については日本やヨーロッパ諸国も同様であり、移民を自国に取り込むことが出来ない国は相対的に小国と化していくことが確実です。元よりNATOやG7といった枠組みは地球人口からすれば少数派グループに過ぎません。これまでは軍事力や経済力において先行していたからこそ大きな顔を出来ていたわけですが、そんな先行者の優位もいずれは縮小して行きます。今回の戦争を機会にヨーロッパ各国は旧世代の兵器をウクライナに送って一斉処分、新しい兵器に置き換えることで軍事力の強化に励んでいるところですが、それも永遠には続かないでしょう。

 冷戦時代には、「COCOM」という共産主義陣営への輸出を規制する仕組みがありました。昨今は専ら中国に対する輸出規制が大きく目立つ状況ですが、これもまた人口規模で上回る中国に対して日米欧が優位を保つための悪あがきと言えます。今後は伸張する非NATO諸国に対して、アメリカの宗主権を受け入れない国への輸出を規制するCOCOM"2"的なものも出てくるかも知れません。それでもNATO諸国が少数派である運命は変えられない、いずれは力関係が逆転する日が来ます。そこに至るまでに新たな衝突が生まれる可能性も濃厚ですが、NATOの覇権が失われれば世界は一つ平和に近づくことでしょう。

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ゼレンスキーに抗う人々

2024-10-09 21:05:17 | 編集雑記・小ネタ

ザポロジエ原発職員爆死 ウクライナ裏切り報復か(共同通信)

 【モスクワ、キーウ共同】ロシアが占拠するウクライナ南部ザポロジエ原発のロシア側管理組織は4日、車両が爆発し、乗っていた原発職員が死亡したと発表した。ウクライナ国防省情報総局も爆発を発表、原因には触れず「戦争犯罪者は報いを受ける」と警告し、関与を示唆した。

 ウクライナ側によると職員は原発の警備責任者。「ロシアの協力者」としてウクライナ側の原発従業員やウクライナを支持する市民のリストをロシア側に渡したとされる。裏切り行為だとみたウクライナが報復した可能性がある。

 職員は原発があるエネルゴダール市の住宅近くで4日朝、乗り込んだ車に仕掛けられた爆発物が爆発し、搬送先の病院で死亡した。

 

 暗殺はイスラエルの得意技ですが、ウクライナもこの分野では結構な成果を上げていることが分かります。まぁ戦争に非道はつきものです。暗殺それ自体を非難しても根本的な解決には至らない、戦争に至る背景を解消していかないことには終わりは見えないことでしょう。

 ここで注目すべきは、ロシア側に協力するウクライナ人も普通に存在していること、そうした人がいることをウクライナ側も認めていることです。開戦当初、日本の報道ではゼレンスキー大統領(当時)の支持率は90%以上などと一部で伝えられていました。金正恩総書記のライバル登場かと思わされたものですが、実際にはゼレンスキーの支配に与さずロシア側に協力するウクライナ人は後を絶たないわけで、90%超の支持率は捏造と脅迫によって作られたと判断するほかありません。

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目次

2024-10-09 00:00:00 | 目次

 

社会       最終更新  2024/10/ 6

雇用・経済    最終更新  2024/ 9/15

政治・国際    最終更新  2024/ 9/ 1

文芸欄      最終更新  2024/ 7/27

編集雑記・小ネタ 最終更新  2024/10/ 9

特集:ロシアとウクライナを巡る基礎知識、現在に至るまでの経緯

序文 第一章 第二章 第三章 第四章 おまけ

 

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体は元気な人々

2024-10-06 22:00:46 | 社会

 以前に書きましたが近所の子供達の間では、ひたすら「パイナツプル」と絶叫し続ける遊びが流行っています。元はじゃんけんとも組み合わされ「グリコ」「チヨコレイト」等も含まれていたようですが、色々な要素がそぎ落とされていった結果、これが残ったと言うことなのでしょう。一方で流行っているのはこの遊びだけではなく、力の限りに叫びながらも激しく咳き込む子供の姿も散見されます。止まらぬ咳など気にもせず大声を張り上げ続ける子供達は、本当に元気ですね。

 私が子供の頃は「○○菌」と言って特定の子供をターゲットにして、その子を全員で除け者にする、その人に触られたら次のターゲットになる、という遊びが最も人気がありました。人気がありすぎて学校で禁止令も出たものですけれど、誰も決まりなんて気にしていなかったことを覚えています。この「○○菌」に触れることについては全力で避けようとするのが当時の子供達の常識だったわけですが、今時の子供達を見るに激しく咳き込む子を遠巻きにするような様子は全く見られなかったり等々、本物のウィルスや細菌については特に忌避感をもたれていないと推測されます。

 一方、激しい夜泣きで私の目を覚ましてくれた頃から早数年、隣の家の子供は立派に体が成長しているようです。ゴッ、ゴッ、ゴッ、ゴゴゴゴゴ……と窓を隔てた隣の家にまで振動を響かせる勢いで飽くことなく床を踏み鳴らし、着実に自分の体が大きくなっていることを伝えてくれます。そんな隣の家の子も一時期は激しく咳き込んでおりまして、まぁ今の時代なら避けられないことかというところですが、激しく咳き込みながらも床を踏み鳴らす勢いは変わることがありませんでした。感染症に罹患しても子供というのは元気なものですね。ただ体は元気でも、どこか別のところが悪くなっていないか少しだけ心配しています。

 「マスク着用は任意」という政府方針は完全に定着し、電車の中でも飲食店でもオフィスでも、力強く咳き込みつつもノーマスクでいることが今や当たり前になりました。昔は咳が出るようであればマスクを付ける程度のマナーは存在していたように記憶していますが、その辺も時代と共に変わっていくものなのでしょう。咳をしても外出を控える必要はなし、咳をしてもマスクは任意、それがコロナ禍を経た現代の常識というものです。たぶん食品業界など過去にはマスク着用が必須であった事業者でも、今はマスクを外すようにした職場が一定数あるのでは、と思います。

 咳が止まらない以外は元気いっぱい、アクティブに外出を楽しんでいる人も多く、そうした人の「コロナはただの風邪、大したことはない」論も本人の自覚としては矛盾していないのかも知れません。ただ体の方は元気でも、体とは別の場所が悪くなっているのでは、と私は思います。新型コロナを別にしても溶連菌やマイコプラズマ肺炎の感染者が急増したり等々、その結果として休業や学級閉鎖なども起こってはいますが、会社や学校が対策を取る様子も見られず、まぁ体が弱った人は切り捨ててしまえば良い、体以外のどこかが悪くなっていてもとにかく体が元気な人が世の中の標準である、我々の社会はそんなものなのでしょう。

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第四章:ウクライナ、崩壊への歩み

2024-10-03 00:43:15 | 非国民通信社社説

序文はこちら

第一章:キエフ・ルーシの時代からソヴィエト連邦の時代まで

第二章:ロシア帝国、及びソヴィエト連邦の支配者達

第三章:ロシア・ウクライナを取り巻く往年の連邦構成国

 本章ではソ連崩壊後のウクライナと、そのロシアとの関係を中心に振り返っていきます。まず前提として第一章で述べたようにウクライナはソ連時代に領土を大きく拡張しており、①古のキエフ・ルーシでありコサック国家でもあったキエフなどの中央部、②ロシアがタタールやオスマン帝国を斥けて植民していった東南部「ノヴォロシア」地域、③第二次大戦の結果としてポーランドなどの国境をスライドさせる形で版図に組み込まれた西部地域、④フルシチョフの独断でロシアから移管されたクリミア半島と、大まかに4つの異なる歴史を持つ地域で構成されているわけです。

 この中でもウクライナ独立の最初期から問題になったのがクリミアで、早くも1992年にはクリミア州議会がウクライナからの独立を宣言するなど、キエフ政権とは最初から距離がありました。この時点ではロシア側も事態を荒立てることは望まず、最終的にはクリミアに自治共和国としての地位を認めることで一応の決着が付きます。当時はロシアとウクライナの関係も悪いものばかりではなく、このクリミアを除けば決定的な対立には至らない状態がしばらくは続きました。

 しかるにソ連時代は重工業の中心地帯であったはずのウクライナは人口の流出と経済の衰退に歯止めがかからず、プーチンやルカシェンコの元で安定を取り戻したロシアやベラルーシとは裏腹に希望の見えない状況が続きます。こうなると台頭するのが「ナショナリズムによって政治の失敗から国民の目をそらそうとする人々」です。そして徐々に選挙は反ロシアの中部・西部と、中立の東部・南部とで投票結果が二分化されるようになっていきます。

 2004年のウクライナ大統領選挙は疑義の絶えないものでしたが、紆余曲折の末に中部・西部を地盤とするユシチェンコの当選が認定されます。この頃になると選挙は政策よりも地域対立の方が重要となり、中央から西では一応の勝者ユシチェンコが、東部と南部では対立候補のヤヌコヴィチがそれぞれ票を集め、国の東西を綺麗に分割する結果が露になりました。言うまでもなくユシチェンコもウクライナの置かれた状況を改善することは出来ず、最後にはナチス協力者として知られるステパン・バンデラに「ウクライナ英雄」の称号を授与するなど例によってナショナリズムに訴えるものの、結局は国民の信を失い2010年の選挙でヤヌコヴィチに敗れます。


画像出典:2004年ウクライナ大統領選挙 - Wikipedia

 ここで少し時代を遡りますと、第二次大戦期のウクライナにはソ連の一翼としてナチスと戦った人だけではなく、ナチスに協力してソ連と戦った人もまた少なくありませんでした。後者の代表がウクライナ政府から公式に英雄と認定されている前述のステパン・バンデラで、こうしたナチス協力者の称賛については2010年の時点では批判的な評価も少なからずあったようです。しかし2014年以降のクーデター以降、ロシアとの敵対を何よりも優先する西側諸国ではバンデラの評価も次第にホワイトウォッシュされ、ナチズムとの関わりについては目をつぶる傾向が見られます。当然ながらロシアとしてはナチス協力者を英雄と讃えるキエフ政権を道徳面から非難するわけですが、欧米からすればロシアと戦う方こそが正義の味方なのでしょう。

 いずれにせよ2010年の時点ではまだウクライナの政治も救いの余地はあった、結果を残せなかったユシチェンコは前回の大統領選から大きく得票を減らし、反ロシアを掲げる候補から中立路線の候補へと票が動く健全さは見られました。2010年の選挙も2004年の選挙と同様に投票傾向は反ロシアの中央・西部と中立の東部・南部で完全に色分けされてしまってはいるものの、それでも政治の軌道修正を促す自浄能力は僅かに残っていたわけです。

 ユシチェンコに代わって大統領に就任したヤヌコヴィチはEU諸国とロシアとの間でのバランス調整に腐心し、またロシア語を実質的な第二公用語として使用することを認めるなど、東部・南部のロシア系住民との融和を図りました。続いてセヴァストポリ港(クリミア半島)へのロシア艦隊の駐留期限を延長、これはロシアからのガス代の割引とのバーターでもあったのですが、黒海沿岸に勢力圏を伸ばそうとしていたNATO側からは、ヤヌコヴィチが「親ロシア派」と認定される契機になってしまったとも言えます。

 そして2013年末、ヤヌコヴィチ政権がEU側との協定調印を延伸すると、反政府勢力による大規模なデモが発生しました。当初は平和的であったとも伝えられるところですが、これにアメリカのヌーランド国務次官補やかつてはネオナチ組織として認定されていた反ロシア派武装勢力も合流、ヤヌコヴィチが煮え切らない態度を続けている間に首都キエフは占拠され、議会も包囲されるに至ります。反政府勢力に政治的な譲渡を提案するも武装解除を拒否されたヤヌコヴィチはキエフを脱出してロシアに亡命、選挙で選ばれた大統領が暴力によって追放される形となってしまいました。

 この「マイダン革命」などと西側諸国から呼ばれるクーデターは、アメリカ政府高官も関与していたことから速やかに欧米諸国からの信任を得てウクライナの新政権がスタートします。ただロシア語を公用語の地位から外し公共の場での使用にも制限を設けるなど、反ロシアを看板に掲げたクーデター政権の正当性に疑義を呈する人はウクライナ国内にこそ多く、とりわけロシア系住民が多数を占める東部・南部ではクーデターの反対者と支持者の間で衝突が相次ぐことになりました。

 東部ハリコフでは抗議者によって一時は州庁舎が占拠されるも、ここは新政権側の治安機関が強く、比較的短期間で鎮圧されてしまいます。一方、南部オデッサでは反クーデター側の市民が新政権側の武装勢力に襲撃され、逃げ込んだ建造物ごと焼き殺されるという事態に至りました。これはロシアからはジェノサイドとも呼ばれ、殺人犯の調査を要求されているところでもあるのですが、ウクライナ政府は沈黙を続けており10年後の今日も深い遺恨を残す結果となっています。

 一方で元よりウクライナからの独立志向の強かったクリミアは地元議会が住民投票を決定、その結果を受けてウクライナ新政府からの離脱を宣言、しかる後にロシアへの編入を要求します。当初はロシア側にも躊躇が見られたものの、ウクライナの元首相で大統領候補でもあったティモシェンコがセヴァストポリ港の租借に関するロシアとの合意を反故にすると豪語するのを聞くに至り、最終的にはクリミアの編入要望を受け入れることになりました。これを我が国では「ロシアによる一方的な併合」と慣例的に呼んでいるわけですが、いくら何でも実態と違いすぎる政治的なフレーズと言わざるを得ません。

 そして最後まで争点化してしまったのがドネツクとルガンスクの2州で、当初は中立派が支配的でありロシアとしても中立派勢力の巻き返しを期待するところがあったのですが、そのリーダーであったヤヌコヴィチが早々に国外脱出してしまった後は体勢を立て直すことが出来ず、クーデター政権に対して何ら有効な手段を打つことが出来ないまま時間が経過してしまいました。こうした中それまでは主流派になりきれなかった親ロシア派が決起、議会を占拠してそれぞれ「ドネツク人民共和国」「ルガンスク人民共和国」の建国を宣言し両州で主導権を握るなど、事態はロシア側の思惑を超えた方向に進みます。

 軍港として確保が必須であったクリミアとは異なり両州の保有はロシア側のメリットに乏しく、両共和国は当初ロシアからも冷淡な扱いを受けていました。しかし両共和国はキエフ政権の差し向ける軍勢を何度となく斥け自力で地盤を固めていきます。そうなるとロシア側も期待外れの中立勢力に見切りを付け、親ロシア派勢力の後ろ盾として振る舞うようになっていくわけです。ただ2022年までロシアの支援はあくまで軍事的な圧力ではなく外交の範囲に止まっていました。ドネツクとルガンスクの住民にインフラや年金を支給してこそいたものの、ロシア軍が直接の介入を始めるまでには8年の月日を要した、この点は認識されるべきでしょう。

 一方、2014年4月には当時のアメリカ副大統領であったジョー・バイデンの息子であるハンター・バイデンがウクライナのエネルギー企業であるブリスマ・ホールディングスの取締役に就任します。しかるにブリスマ・ホールディングスには脱税などの不正疑惑が多々あり、取締役であるハンター・バイデンも当然ながら検察の捜査対象となりました。そこで父ジョー・バイデンはウクライナを訪問して検事総長の罷免を指示、息子ハンターの捜査を終了させます。

 この後アメリカで政権交代が起こるとトランプはウクライナ政府へ秘密裏にバイデン親子の不正の捜査を要請、これが明るみに出たことで逆にトランプが弾劾の対象になったりもしました(世に言う「ウクライナ・ゲート」疑惑)。宗主国として傀儡国家の人事に介入することは当然の権利として問題視されるものではありませんが、それを政敵の追い落としのために利用する、というのはアメリカの倫理としては許されないことであったようです。

 そしてクーデター後のウクライナでは二度の大統領選挙が行われました。2014年は反ロシア強硬派のティモシェンコを、相対的に穏健派と見なされていたポロシェンコが破って当選します。しかし「ナショナリズムに訴えることで内政の失敗から国民の目をそらす」流れは変わっておらず、当選後のポロシェンコは反ロシアに傾倒、ついにはNATO加盟を目指すと憲法で定めるに至りました。一度は停戦合意が結ばれたはずのドネツク・ルガンスクの独立派との内戦も継続するなど、ウクライナ政治は引き続き絶望的な状況であったと言えます。

 そんな状況を国民も危惧したのか、2019年の大統領選挙ではドネツク・ルガンスクとの内戦を終わらせると融和を説いたゼレンスキーが当選を果たしました。ただ、このゼレンスキーもまた当たり前のように「ナショナリズムに訴えることで内政の失敗から国民の目をそらす」路線へ突き進み、今に至ります。2014年も2019年も、いずれの大統領選挙でもウクライナ国民の支持を得たのは反ロシア派なりに穏健に見える方の候補でした。しかしポロシェンコもゼレンスキーも国民の期待を裏切り、ロシアへの憎しみを煽り立てることで支持を繋ぎ止めようとする結果に陥ったわけです。

 2014年のクーデターとドネツク・ルガンスクの独立宣言から8年間、ロシアは「NATO加盟せず中立でいること」「ドネツク・ルガンスクの自治を認めて、恩赦を出すこと」をウクライナに要求し続けてきました。しかるに停戦合意が結ばれてもキエフ政権の両地域への攻撃は止むことがなく、ロシア側の要求は一顧だにされないまま年月だけが過ぎていきます。そして2022年、ドネツク・ルガンスク地域に滞在していた欧米の監視団が退去するとキエフ政権からの攻勢が激化、ここに至ってようやくロシア軍は直接介入を開始、国境を渡ってキエフなど主要都市を包囲します。

 国内主要メディアでは一般に、このロシア軍が国境を越えたタイミングから全てが始まったかのように伝えられているのですが、それは実態としてどうなのでしょうか? 最低でも2014年のクーデターとそれに続く内戦は前史として考慮すべきですし、そもそもクーデターに至るまでのNATOとロシアの勢力争いもまた無視すべきものではないと言えます。また実のところ開戦当初のキエフ包囲の時点では侵攻ではなく「強訴」のごときもの、あくまで交渉に応じることを強要するためのものであったとも解釈できます。

 キエフ包囲の時点ではロシア軍による攻撃も、その後に起こったことから比べれば当初は威嚇レベルのものであり、ウクライナ軍もまた主要都市への接近を許すなど、本格的な戦闘にはまだ距離がありました。そしてトルコの仲介で和平合意案が話し合われると、停戦合意の一環としてロシア軍は包囲を解いてキエフから撤退します。ところがイギリスのジョンソン首相が急遽ウクライナに訪問すると事態は一転、ウクライナ側は和平交渉を拒絶し、西側諸国のメディアでは徹底抗戦論が説かれるようになりました。それを受けてロシア軍は東部地域の制圧を開始、本物の戦争が始まったわけです。

・・・・・

 これまで4章に分けて、ロシアとウクライナを中心に2022年までの史実を概観してきました。序章で述べたように何事にも現在に至るまでの経緯があるのですが、一方でその背景を意図的に「なかったこと」にしようとしている政府やメディア、大学教員も存在するのが実態と言えます。戦争は決して急に起こったりはしない、少なからぬ段階を追ってエスカレートするものであり、それを止める意思さえあれば必ず回避できるものです。しかし開戦に至るまでの経緯を黙殺することで、あたかも戦争は急に起こるものであり、どうしても逃れることは出来ない、だからアメリカとの関係を密にして軍備を拡張しなければならないと、そうした方向へ世論誘導が行われているのが日本の今ではないでしょうか。

 もし事実に基づいての意見であれば、相違があっても異論として尊重されるべきと言えます。しかし事実ではなく虚構に基づいた主張であったならば、それは異論でも何でもなくプロパガンダに過ぎません。ロシアとウクライナを巡る我が国の報道は事実に基づいているのか、それともアメリカ陣営に都合の良く修正されたものなのかは冷静に見極められる必要があります。ウクライナの全面勝利以外はありえない、停戦に応じることは降伏であり国が滅びると叫ぶ大学教員、平和な日本を謳歌するウクライナ避難民に「勝利!勝利!勝利!」と連呼させるマスメディア、ロシアに勝つまで戦争を続けなければならないのだと、それが我が国の官民双方のスタンスですが……

 前述の通りウクライナの制限された選挙の中でも、2回の大統領選で選ばれたのはいずれも相対的には穏健派と見なされる方でした。日本の主要メディア報道を見ると、あたかもウクライナ人が自ら戦争の継続を望んでいる、勝つまで戦うと決意しているかのように見えてしまいます。故に我々は軍事支援を続けなければならない、と。しかし戦場から遠く離れた日本でメディアの取材を受けるウクライナ人と、現地で自国の政府から自由を奪われているウクライナ人とでは考えていることも違うわけです。我々が尊重しようとしているのは本当にウクライナ人の意思なのか、あるいはゼレンスキーの背後にいる誰かの意思なのか、そこは問われるべきものがあります。

 

おまけ(未来の話)はこちら

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理解のある人々

2024-09-29 21:37:55 | 社会

 ちょっと前の話になりますが「理解のある彼くん」という概念が一部界隈で話題になりました。まぁ何かしら問題のある女性を受け入れてくれる都合の良いパートナーみたいな概念のようですが、これに対して「理解のある彼くん」はいても「理解のある彼女ちゃん」はいない、だから男性の方が生きづらいのだと主張する向きも一部で見られました。そんなことはないのでは、と私は思います。働かず女性に寄生する男性や女性に暴力を振るう男性、女性の連れ子を虐待する男性等々、そういう人には「理解のある彼女ちゃん」がいるのですから。

 リクルートブライダル総研の2023年調査によると20代男性の46%は「交際経験なし」なのだそうで、未婚化・晩婚化の傾向は進むばかりです。こんな時代でも普通に結婚しているのは恋愛エリートとも言えますが、一方で家庭内暴力なりモラルハラスメントなりが話題になることもまた少なくありません。色々と酷いエピソードがメディアを賑わすことも多く、それで男性社会や男性全般を非難してなんとなく締めくくられたり等々。しかし「何故そんな男と付き合ったのか」を追求しないことには、同じ過ちが繰り返されるように思えてなりません。

 企業におけるパワハラも然り、それが告発されてパワハラと認定されれば企業によっては処罰もされますけれど、原因が深掘りされるケースは皆無なのではないでしょうか。パワハラというものは「優越的立場」があってこそ成り立つもので(立場が逆であったらパワハラではなく「反抗」ですから)、この前段には必ず「パワハラ気質の人間を組織の重要な地位に就けた」事実があるはずです。「何故パワハラするような人間を昇進させたのか」を調査してこそ真の再発防止に繋がります。

 先般は不法な内部告発潰しに端を発して兵庫県の斎藤元彦知事の各種パワハラが大きな話題になりました。ついには県議会で不信任決議案が可決されるに至ったわけですが、そんな人でも選挙に勝ったから知事の座を得ていることは認識されるべきでしょう。街頭インタビューなどでも知事のパワハラ狼藉ぶりに眉をひそめるコメントを残す人が多々登場していますけれど、そんな人も実は前回選挙で斎藤氏に投票していた可能性は高いはずで、「何故あんな人に投票したのですか?」と県内の有権者にも聞いて欲しいと私は思うところです。

 斎藤知事に関しては数限りないパワハラ行為が露になるにつれ世間の支持を失い、後ろ盾だった維新他の政党からも切り捨てられている状態でもあり、出直し選挙では敗れる可能性が高いと予想されます。ただ、斎藤元彦に先駆者がいなかったとは考えられない、第二・第三の斎藤元彦が選挙に勝利する可能性は決して否定できないのではないでしょうか。この知事が当選したのは有権者の好みに合っていたからであり、有権者の好みが代わらない限りは同じようなタイプを権力の座に押し上げる、それが繰り返されるわけです。我々の社会は、そういうタイプの人間を肯定的に評価してきたのですから。

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第三章:ロシア・ウクライナを取り巻く往年の連邦構成国

2024-09-25 23:36:52 | 非国民通信社社説

序文はこちら

第一章:キエフ・ルーシの時代からソヴィエト連邦の時代まで

第二章:ロシア帝国、及びソヴィエト連邦の支配者達

 1991年、ソヴィエト連邦は崩壊し、15の国家に分裂しました。その後の凋落はなんとなく知られるところで最大の失敗例がウクライナであると言えますが、その前に他の国々も幾つかピックアップしてみましょう。まず全体的な傾向として、「多民族国家」としての意識はロシアにのみ引き継がれ、新たに独立した国家は遅ればせながら単一民族を想定した国民国家を志向する傾向が窺えます。そして計画経済から新自由主義経済への移行に伴って国内市場は大混乱に陥り、大なり小なりソ連時代からの衰退を全ての構成国が経験することになったわけです。

 ソ連時代には強みであったはずの重工業分野は振るわず、逆にソ連経済の弱い部分は西側資本に食い荒らされ、金を稼げるのは資源産業だけ、という状況は30年あまりを経た現在も完全には払拭できていません。そうなると「資源のある国」は一定の経済力を確保できるものの、「資源のない国」は窮乏するばかりと、旧ソ連構成国の間でも格差が広がっていきます。ロシアやカザフスタンなどは資源輸出によって外貨を獲得し続けている一方、ソ連時代に重工業の中心地であったウクライナは西側市場から買い手が付かず、かつての宇宙船工場も西側のメーカーの下請けに……という有様でした。

 そして国内経済が低迷すれば、当然ながら国民の不満は高まる、そこで為政者が何をするかというと「ナショナリズムに訴えて批判の矛先をそらす」わけです。経済面で上手くいかない国ほど何らかの「敵」を見立てる必要に迫られる、結果として国内の少数派住民や隣国との間には大きな亀裂が走ることになります。これがエスカレートしていった中で最悪の結果を自ら招いたのが昨今のウクライナですが、残念ながら他の旧ソ連諸国にも似たような問題がないとは言えません。

 まずソ連とは、実態と自認のいずれも「多民族国家」でした。それは15の構成国に止まるものではなく、多数の「自治共和国」や「自治州」が定められ、いずれも独自の行政権を有していたわけです。そしてロシアは軋轢や衝突はあれど多民族国家としての理念を継承しており、現在も「連邦構成主体」として独自の憲法、独自の議会、独自の公用語を持つ自治共和国が国内に数多く存続しています。しかるに他の旧ソ連諸国は単一民族国家的な拘りが強く、領域内の少数派住民の扱いに問題を抱えていることが多いです。

 典型的なのは、州じゃない方のジョージアことグルジアでしょうか。コーカソイドの語源でもあるカフカス地方は「民族のるつぼ」と呼ばれるなど少数民族の数多く存在する地域です。国家としては他にアゼルバイジャン、アルメニアが成立していますが決して3つの民族に収束できるものではなく、あわよくば自民族の国家建設、独立までは行かずとも高度な自治を求める少数派がひしめいている状況です。そしてグルジアの領内には、アブハジア、南オセチア、アジャリアとソ連時代には自治を許されていた地域が含まれていました(なお"北"オセチアはロシア領内で自治共和国として認められています)。

 実はソ連には連邦から離脱する権利と共に、連邦に「残る」権利もまた定められていました。グルジアにはソ連から離脱する権利がある、しかしグルジア領内にある自治共和国にはソ連に「残る」権利があったわけです。しかしソ連崩壊の混乱に乗じて各構成国はいずれも自国の最大版図を確保すべく、多数派民族とは異なる人々が住む自治区もまた有無を言わさず自国の領土として、これを手放すことなく「独立」を宣言します。それは当然ながら、時を待たずして火種となるものでした。

 ソヴィエト連邦の時代は、様々な国籍の入り交じる共産党指導部が主導する多民族国家でした。これが連邦の崩壊後は独立した各国の多数派民族が主導する国民国家へと移行していったのですが、言うまでもなく多数派の陰には少数派がいます。グルジアはグルジア人の国家を目指した一方で、グルジア領内のアブハジア人、オセチア人、アジャール人はそれを歓迎しませんでした。グルジアの南部で自治を求めたアジャリアこそ鎮圧されたものの、アブハジアとオセチアは隣接するロシアに調停を依頼、結果としてロシアが監視する形で自治権を確保しています。

 まずグルジア政府がグルジア人の国家を目指し、そしてグルジア国内の少数民族が自治権──ソ連時代は認められていたものであり、ロシアは今も認めているもの──を求めました。これをグルジア政府が軍の力で鎮圧しようとするも、アブハジアやオセチアはロシアに庇護を求めます。請われて介入したロシア軍はグルジア軍を斥け、両自治共和国はグルジア政府の支配から外れる形になりました。これを我が国ではロシアによる侵略と伝えているのですが、実態としてはどうでしょう? 西側の用語で言うところの「侵略」は、果たして何によって防ぎ得たのでしょうか?

 その後もグルジアは長らく反ロシア感情に訴える政治が続きました。ただ、それが自国の発展に結びつくことはないことに漸く国民も気づいたのか、近年は中立派が与党の地位を確保しロシアとの間で関係改善の機運も見られます。一方でこうした動きへの反応として日本を含む西側諸国のメディアからはグルジア政府へのネガティブな、そして不当な報道が相次いでいる状況です(参考、本家ジョージアには既にある法律)。ことによるとグルジアでもウクライナのように、政権転覆が仕掛けられる可能性は決して低くないと言わざるを得ません。

 なお旧ソ連構成国のナショナリズムが往々にして反ロシアへと繋がる中で、かつては例外であったのがアルメニアです。アルメニアの場合は、隣国アゼルバイジャンの内部にあるアルメニア人居住区、カラバフ地方へとナショナリズムの目が向けられました。そして軍事力の行使によってカラバフ地方を奪取することに一時は成功したわけですが、これを守り切るには何らかの大国の庇護が必要になる、その結果としてアルメニアはロシア寄りの政体を維持する必要に迫られます。

 しかるにロシアと結んでカラバフ地方を確保してもアルメニアの発展には繋がらず、カラバフ死守を掲げた強硬派が妥協派の現職大統領パシニャンに敗れると方向性は一転、アルメニア自身がカラバフの守りを放棄、そこをアゼルバイジャンが軍を動かして奪還するに至りました。そしてパシニャン政権はロシアがカラバフを守らなかったと非難の声を上げてNATO側にすり寄る姿勢を見せているのが現状です。地理的に隔たれたアルメニアにはNATOもあまり興味を示さず、今でもロシアと完全に決裂したとまでは言えないものの、新たな火種を作り出そうとしている国として要注意ではあります。

 なおもう一つのカフカスの国家であるアゼルバイジャンは、なんともつかみ所がありません。宗教はイランと同じシーア派が主流ですが、さりとてイランと協調するでもなく、民族的にはテュルク系でトルコとの関係は深いのですが、そのトルコと対立しているイスラエルとも親密な関係であったりします。ウクライナやモルドヴァと反ロシア同盟を結成している一方でロシアとの国交は何事もなく続いているかと思えば、昨今はニューカレドニアの暴動を巡ってフランスとやり合ったり等々、インドもかくやの全方位外交を展開しており予測の難しい国です。

 次に中央アジアの5つの国家に目を向けますと、こちらも自国の産業自体は低調、カザフスタンやトルクメニスタンなど輸出資源に恵まれた国は一定の豊かさを保っているものの、そうでない国は決して良い状態とは言えません。中央アジアもまたナショナリズムに頼る中でロシア語教育を捨てて国内の多数派民族の言語のみを公用語としてきた結果、ロシア人技術者は流出し、ロシア語が話せる国民も減っている状態です。しかし自国に産業が乏しいが故に隣国即ちロシアへ出稼ぎに行く人は減りません。そしてロシア語を話せない移民は出稼ぎ先で言葉が通じず社会的に孤立したあげくイスラム過激派に取り込まれ、この一部の人間のイメージで尚更ロシア社会から危険視される……みたいな悪循環も起こっているようです。

 幸いにしてヨーロッパから地理的に距離があるおかげで、中央アジアの5カ国はこれまでNATO諸国からの干渉を受けることも相対的に少ないところがありました。ただアメリカの敵か味方かを厳しく問われる現在の国際情勢の元では中立を保つことも難しく、カザフスタンを筆頭に欧米諸国による介入の痕跡が見え隠れする場面も増えているのが現状です。19世紀のグレート・ゲームが時を隔てて再開される、中央アジアがNATOの出先機関となり新たな紛争地となる、そんな可能性も残念ながら否定できません。

 続いてモルドヴァですが、こちらは隣国のルーマニアと言語・民族の面で大きく共通した国となっています。これはドイツとオーストリア、セルビアとモンテネグロの関係のようなもので、言語や民族はほぼ同じでもその地域を支配した王朝が異なる、違う国として成立してきた時代が長いわけです。ただソ連時代からの反動で大ドイツ主義ならぬ大ルーマニア主義的な盛り上がりも散見され、モルドヴァ語を捨ててルーマニア語を唯一の公用語と定める等、これまた歪んだナショナリズムの強い国でもあります。

 ただモルドヴァ国内にはロシア系住民、ウクライナ系住民、そしてテュルク系のガガウズ人なども暮らしており、当然ながら大ルーマニア主義的な機運には強い反発がありました。結果としてドニエストル川の東岸では独立運動が勃発、ロシアとウクライナの両国が軍事支援を行い「沿ドニエストル共和国」という「ロシア語・ウクライナ語・モルドヴァ語」の3つを公用語とする事実上の独立国が成立しています。またガガウズ人も自治区を構成、こちらも「ガガウズ語、ルーマニア語、ロシア語」の3つを公用語とするなど、単一民族国家を目指すモルドヴァ政府とソ連時代の多民族主義を受け継ぐ自治区とで対比をなしていると言えそうです。

 そんなモルドヴァでも軍事的には中立を保つ、NATOとロシアの対立からは距離を置く方針が長らく維持されてきたのですが、ルーマニアの市民権を持ちアメリカで教育を受けたマイア・サンドゥが大統領に就くと事態は一転、NATO加盟も視野に沿ドニエストルやガガウズへの圧力を強めるなど、徹底した強硬路線に転じてしまいました。沿ドニエストルとガガウズはいずれもロシアに救援を要請しており、しかしながら両地域とロシアの間にはウクライナが障壁として立ち塞がっているのが現状です。ロシアに救いを求める両地域に手を差し伸べるためにはオデッサまでを解放しなければならないことになりますが、今回のウクライナを舞台にした戦争の着地点を探る上では、このモルドヴァの姿勢も問題になってくることでしょう。

 一方で旧ソ連構成国の優等生と評価できるのは、ベラルーシです。こちらもソ連崩壊後の一時期は混乱が続きましたがルカシェンコ政権下で安定を取り戻し、輸出資源には恵まれないながらも堅実な経済成長を見せています。他の旧ソ連構成国が軒並みナショナリズムに訴えることで失政を隠してきた中、ベラルーシはナショナリズムに頼らずロシアとの利害対立があっても話し合いでの解決を重ねる等々、隣り合う同胞ウクライナに国家運営の手本を示しているとすら言えるのかも知れません。

 しかるに戦争の火種作りとは最も距離の遠いベラルーシは、同時に欧米諸国から最も非難される国の一つでもあるわけです。それは即ち、旧ソ連圏の支配を目指すNATOの戦略にとっての障害であるから、でしょうか。ベラルーシの反政府活動家にはノーベル賞が授与されるなど、「西側」からの肩入れは鮮明です。いつかベラルーシもアメリカの資金提供を受けたNGOによって政権が転覆される、ウクライナと同じ道を辿らされる、それは十分に考えられる未来でありプーチンもルカシェンコも大いに警戒しているところでしょう。

 最後にバルト三国などと一括りにされがちなエストニア、ラトビア、リトアニアを取り上げます。このうちリトアニアは元からロシア系住民が少なかったこともあり、ナショナリズムに走る中でも比較的問題は起こっていないようです。逆にエストニア、ラトビアはソ連崩壊後も国内にロシア系住民が多く居住し、その処遇が争点となりました。いずれもエストニア人の国家、ラトビア人の国家が目指される中、ロシア系住民には「国籍を与えない」ことが決定され、一時期は国内居住者の40%が無国籍に達するなど、旧ソ連構成国の中でもとりわけ人権面での遅れが際立っていると言えます。

 もっとも我が国も戦後は、元・大日本帝国領である朝鮮半島や台湾にルーツを持つ国内居住者へ日本国籍を付与しない方針をとっており、エストニアやラトビアには親近感を覚えるところでしょうか。こうした人権面での後進性は欧州の理念とよく合致するところで、2004年にバルト三国はEUとNATOにも揃って加盟を果たします。いずれもEU内では最貧国に位置し、人口流出の続く状態ではあるのですが、それでも名目GDPは旧ソ連諸国の中では上位に入り、ロシア系住民の排斥についてもNATOの威を借りてロシアからの非難を断固として寄せ付けない等々、とりあえず政府の思惑は満たされているようです。

 そしてウクライナが目指したものは、エストニアやラトビアのような国家であったのでしょう。EUの中では貧しくとも旧ソ連諸国の中では豊かになれるかも知れない、NATOの軍事力を盾にすればロシア系住民を弾圧してもロシアは手を出せなくなる、そんな期待で動いてきたのが近年のウクライナであったと言えます。しかしロシアから見た場合のウクライナはバルト三国とは重要度が全く違った、バルト三国のNATO加盟時と比べて現代のロシアは他国に干渉できるだけの力を取り戻していた、それはロシアのレッドラインを超える判断でした。

 こうした流れを踏まえて、次の章ではソ連崩壊後のウクライナに焦点を当てて、2022年までの流れを振り返っていきたいと思います。

 

第四章はこちら

 

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優生思想

2024-09-23 21:43:47 | 編集雑記・小ネタ


 ……こういう人が議席を持っている時点で、非常に恐ろしいと思いました。

 なおNHK他の多くのメディアはほぼ動画音声で確認できる通りに文字起こししていますが、立憲民主党の公式では以下の通り少々異なる文面で掲載しているようです。同じようなことを別の場所で繰り返したのでなければ、何か思うところがあったのでしょうかね?

 

立民代表選【結果】野田新代表 党役員骨格人事「刷新感重要」(NHK)

『弱い人を助けるための政治』はもう終わりにし『弱い人が生まれない社会』をつくる。

 

【臨時党大会】野田佳彦候補を代表に選出(立憲民主党)

弱い人を助けるのは終わり、弱い人を作らない。

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ギリ圏から愛をこめて

2024-09-22 21:37:20 | 社会

降って湧いた「衝立マンション」計画に揺れる門前仲町 根底にあるのは文科省が進めた国立大学の「地主業」(東京新聞)

 江戸の風情あふれる街、東京・門前仲町が「衝立(ついたて)マンション計画」に揺れている。街にある元国有地で今は国立大学法人の土地に、一帯の景観を遮る大規模マンションを建設する構想が分かり、地元住民が反対しているのだ。物議を醸す計画の背景には大学の予算を削り、「地主業」で賄わせようとする、国の思惑がある。(中沢佳子)

 「突然、大きな『衝立』ができる。この計画を見てから、まともに眠れない。ものすごく、強い憤りを覚えている」。計画地に隣接するマンションに住む男性の静かな口調に、抑えきれない怒りがにじむ。

(中略)

 しかし、雲行きが怪しい。次に質問した女性が「産学連携で通常の開発とは異なる印象があった。地域の人にもいい場所になるのかな、と。でも、住宅をできる限り建てて、店舗を若干置いて人が通るだけに見える」と違和感を伝えた。

 事業者側は、商業棟は地域で利用し、サ高住では入居者が健康的な生活を送ると抗弁。会場から失笑が出た。他の住民男性が「なんで公園にしないの。大学の土地に金もうけで19階の『壁』を造られ、あなたたちのためになると言われても、納得しない」と畳みかけると、賛同の拍手がわいた。

(中略)

 大学の土地がマンション化する背景を、不動産コンサルタントの長嶋修氏は「近年のマンション供給数はピーク時の3分の1ほど。分譲する土地が限られ、需給がタイトな状態だ。都市部で大学の広い土地が出れば、開発業者は見逃さない」と説明する。

 

 住んでいる場所や日頃から体験してること次第で、対象は同じでも受け止め方は変わってくるものだと思います。例えば動物園でしかクマを見る機会がない地域の住民と、日常生活の中でクマに生活を脅かされる地域の住民とでは、クマの駆除を巡っても温度差があるわけです。同様に子供をほとんど見かけないような地域の住民と、町中どこでも子供がひしめき絶叫しているような地域の住民とでは、子供に対する感覚も違ってきます。

 そして閑静な場所に死んでいれば選挙カーごときを騒音と感じるものですが、一方で絶えざる喧噪の中で選挙カーなど気にする機会もない街もある等々。ここで冒頭に引用したマンション建設についても然りで、記事中では近隣住民=既に都心に住んでいる人々の声だけが取り上げられていますが、他の地域の住人=いつか都会に住みたい人々からすると評価は異なるのではないでしょうか、と私は思うわけです。

 東京都心への通勤がギリギリ可能なエリアを私は独自に「ギリ圏」と呼んでいます。そして私の住む街は典型的なギリ圏なのですけれど、何か一つ特徴を挙げるとすれば、とにかく子供が多いことでしょうか。では何故子供が多いのか、市政関係者は「子育て支援に取り組んできた成果」と勘違いしているかも知れませんが、実際は「適度に街作りに失敗してきたから」だというのが私の見解です。街の生活自体は至って不便、でも都内への通院はギリギリ可能、結果として不動産価格は抑えめで、これから子供を産み育てようとする若い夫婦でも住宅を取得できる──それが転入増の続くギリ圏の正体ではないか、と。

 もし街作りが完璧に上手くいって、都内に通勤できるだけではなく生活面でも利便性が高い街が出来上がったなら、当然ながら地価は高騰します。そこに住むのは富裕層かその師弟、あるいは狭小ワンルームの単身者ばかりになってしまうことでしょう。「都内に通勤できるけれど、それ以外には無価値」ぐらいの街であってこそ、結婚したばかりの若いカップルにも手が届く住宅価格が実現される、そういう風に出来ているのだと思います。でも、これは理想の選択なのでしょうか?

 私がギリ圏に住んでいるのは職場が東京にあるからで、かつ都心のマンションを買うだけの収入がないからです。周辺住民だって、多くは同じでしょう。別に本当にギリ圏に住みたいわけじゃない、しかし会社に通える範囲で新居を構えるとなるとギリ圏しか残らない、そんな人が次から次へと私の住む街に押し寄せ、結果として子供が街に溢れています。一見すると未来は明るく見えそうですが──親も子供も別に住みたくて住んでいる街ではないような気がしないでもありません。

 そんなギリ圏の住民からすると、都市部での住宅供給が縮小されている現在は夢のない時代です。徒歩圏では生活必需品の購入もままならないような郊外でも、都心に繋がる電車が通っていれば地平線の彼方まで住宅が建ち並ぶ、そして駅からも商業エリアからも最も離れた陸の孤島には朽ちた公営住宅が古城のようにたたずんでいる、そんな街でも人口流入が一貫して続いているのは、都市部に住みたくとも都市部での住宅供給が全く足りていないからです。

 商店が潰れた跡地に建つのは住宅ばかり、たまに住宅でないと思ったら保育園ぐらい、そんな街の住民からすれば冒頭で伝えられている近隣住民の声には驕り以外の何者も感じることは出来ません。徒歩圏に公共交通機関も商業施設も全てが揃った都市部に住居を構えておきながら、それ以上に何を望むのでしょうか。何事も自動車での移動を前提にしたギリ圏には今も人口流入が続いている、しかし郊外の無秩序な拡散は人口減少社会にとっては負の遺産でしかないはずです。ちゃんと徒歩で生活が成り立つエリアに人が住めるようにしていくことこそが公益性のある都市計画ではないでしょうか。こうした観点から私は、地域住民の声など無視して都市部にもっと住宅建設を進めていくべきであると考えます。

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第二章:ロシア帝国、及びソヴィエト連邦の支配者達

2024-09-18 23:18:28 | 非国民通信社社説

序文はこちら

第一章:キエフ・ルーシの時代からソヴィエト連邦の時代まで

 第一次世界大戦の結果、ヨーロッパでは3つの多民族帝国が崩壊しました。オスマン帝国、オーストリア=ハンガリー帝国、そしてロシア帝国です。まずはオスマン帝国、こちらはオスマン「トルコ」とも呼ばれることはあるものの、あくまで「オスマン家の帝国」であって、必ずしもトルコ人の支配した国家を意味するものではないとの評価が現代では一般的と言えます。また歴代の皇帝の母親はトルコ人とは限らず、トルコ人同士で婚姻を重ねていた現地人とも相応に毛色は違ったことでしょう。

 これは王族にはよくある話で「庶民」が一般に同国人同士で結婚するのとは裏腹に、王家の人間は国外の王室と婚姻関係を結ぶことが珍しくありません。結果として王族というものは得てして外国の血を引いている、庶民がその国の「純血」である一方で、高い地位にある者ほど「混血」の割合が高くなりがちです。オーストリア=ハンガリー帝国は婚姻外交で勢力を拡大してきた「ハプスブルク家の帝国」の系譜を継ぐものであり、家の起源はアルザス(現在はフランス領)と伝えられるところ、そこから様々な王室との婚姻を重ねてきたわけで、オーストリアの皇帝とオーストリアの国民とでは「血筋」が随分と違っていたと言えます。

 そしてロシアもまた同様で、皇帝と国民とではルーツが異なる、ロシア帝国の君主は国民を代表するものではありませんでした。端緒を開いたのは17世紀のピョートル1世で、積極的に外国人を登用して西洋化を推し進め、スウェーデンやポーランドを押しのけ他民族帝国としての地位を歩み出します。宮廷や軍隊には外国人が溢れロシア語よりもフランス語やドイツ語が飛び交う等々、ここからロシア皇帝の一族と外国の王族との婚姻も増加、皇位継承者の父親と母親のどちらかは外国人であることが常態化していきます。

 例えば1762年(ユリウス暦では1761年12月)に皇帝に即位したピョートル3世の場合、母親こそロシア出身(ピョートル1世の娘)でしたが父親はシュレースヴィヒ=ホルシュタイン(現在はドイツ)の公であり、元は「カール」と名付けられたドイツ生まれのドイツ育ちでした。これが紆余曲折あって「ピョートル」と改名してロシアの帝位を継承するのですが、ロシアの宮廷に馴染めず外交政策面でもプロイセン贔屓が際立ったことから貴族達の反感を大いに買ったと伝えられます。

 このピョートル3世の妻は神聖ローマ帝国の出身で、やはりドイツ生まれのドイツ育ちでした。元は「ゾフィー」という名であったものの「エカチェリーナ」と改名してロシア皇帝家に嫁ぎます。夫とは裏腹にロシアに馴染む努力を欠かさなかった彼女はたちまち宮廷の支持を集め、ピョートル3世の即位から僅か6ヶ月後にはクーデターを決行、エカチェリーナ2世として帝位に就きました。生まれと育ちはドイツでも祖父はロシア皇帝だった夫とは異なり、あくまでロシアに嫁いできただけの外国人が皇帝になったわけです。

 もっともエカチェリーナ2世はピョートル1世と並び称される名君で、西は宿敵ポーランドと争いプロイセン・オーストリア・ロシアの3国でこれを分割し、南はオスマン帝国と争い現在のウクライナ東部・南部及びクリミア半島をロシア領に組み込みます。そして現代のウクライナ中央部を治めていたコサックの自治も廃止されてロシアの直接統治となりました。ここがロシアによるウクライナ支配の起点の一つでもあるのですが、それは血統の面では全くロシアと無関係な、ドイツから嫁入りしてきた皇帝によって行われた点は留意して良いのかも知れません。

 ロシア帝国の最盛期を築いたエカチェリーナ2世が崩御した後は、公的にはピョートル3世とエカチェリーナ2世の子とされるパーヴェル1世が即位します。その次世代はパーヴェル1世とプロイセン出身の妻との間に産まれたアレクサンドル1世で、アレクサンドル1世の没後は弟のニコライ1世が即位、ニコライ1世とプロイセン出身の妻との間に産まれたアレクサンドル2世、アレクサンドル2世とヘッセン大公国(これも現代はドイツ)出身の妻との間に産まれたアレクサンドル3世と続き、そしてアレクサンドル3世とデンマーク出身の妻との間に産まれたニコライ2世が、ロシアの最後の皇帝となりました。

 ピョートル3世は現代日本で言うところの「ハーフ」に該当するわけですが、エカチェリーナ2世は完全な外国出身者、そして次世代のパーヴェル1世は「1/4」(ただし実父がピョートル3世かは諸説あります)、アレクサンドル1世とニコライ1世は「1/8」、アレクサンドル2世は「1/16」、アレクサンドル3世は「1/32」、ニコライ2世に至っては「1/64」しかロシア人の血を引いてはいないことになります。往々にして海外との交流が多い王族ほど国民を代表「しない」ものですが、ロシア帝国は典型的であったと言えるでしょう。

 20世紀には混血の王族が多民族国家を統治するスタイルが廃れ、多数派を構成する民族とその代表者による「国民国家」の形成が進みます。かつてのロシア帝国の版図も例外ではなく、当時の流行でもあった「民族自決」の理念に沿って諸々の国家が誕生しました。一方で旧ロシア帝国領内の諸共和国の上には共産党が牛耳る評議会があり、これは奇しくも多民族帝国的な統治と似たところがある、民族自決や国民国家の理念を認めつつも、帝国に代わる新たなイデオロギー(共産主義)による多民族の統合を目指すものであったと考えられます。

 政治的な意図を持った解説の場合、ソ連とは「ロシアが」他の14の共和国を支配していたように描かれがちです。しかし実態は「共産党が」「ロシアを含む15の共和国と」「少数民族の自治共和国・自治管区を」統制するものでした。確かに共産党幹部はロシア人が多数派を占めてこそいたものの、アルメニアのミコヤン、グルジアのオルジョニキーゼ、ウクライナ出身で祖国の農業集団化を主導したカガノヴィチ、オデッサ(現ウクライナ)でユダヤ人家庭に生まれたトロツキー、ミンスク(現ベラルーシ)でポーランド貴族の家に生まれたジェルジンスキーなど、ソヴィエト連邦を建設した主要メンバーの出身は多種多様なものがあったわけです。

 そしてソ連の初代の指導者こそロシア人であるレーニンでしたが、その後はグルジア人のスターリン、ウクライナ人のフルシチョフ、ブレジネフと続きます。この3人がトップに君臨した期間は1924年から1982年までの58年、ソ連の歴史が1922年から1991年までの僅か69年であることを思えば、あくまで共産党による支配であってロシアによる支配とは言いがたいことが明らかです。ソ連時代に起こったことの責任をロシアに負わせたがる人は目立ちますが、ソ連はロシアだけで構成されていたわけでもなくロシア人が最高権力者であったとも限らない、と言うことは留意しておくべきでしょう。

 2022年にロシア軍による直接介入が始まると、俄に「ホロドモール」とおまじないを唱える人々が現れるようになりました。これはソ連時代に農業集団化の過程で発生した飢饉の内、特にウクライナで起こったものを指すもので、ロシアからウクライナに対する加害として描写されることが多いものです。ただ当時のソ連の指導者はグルジア人のスターリンであり、ロシア人ではありませんでした。民意によって選出された為政者の行いであれば国民の責も重いですが、スターリンは暴力革命と粛正で権力の座に上り詰めた人間です。スターリンを「独裁者」と呼ぶのであれば尚更のこと、「ロシア」にばかり一元的に責を求めるのは少なからず強引にも見えます。

 元より農業集団化はソ連全土で行われたものであり、ウクライナを狙い撃ちにしたものではありません。ただロシアやベラルーシとは異なり、ウクライナが突出して「上手くいかなかった」結果として飢饉は深刻化しました。そしてウクライナの農業集団化を指導したのは上述のカガノヴィチ、正真正銘のウクライナ人です。ソ連の国際的な地位はロシアが継承しているだけに負うべきものがロシアに多く求められるのは一理あるのかも知れません。しかしソ連を構成していた諸々の国もまたソ連の一員であり、ウクライナもまた多くの共産党幹部を輩出してきた事実がある、ならばソ連の功罪の「罪」の部分は決してロシアだけに押しつけるのではなく、自国の一部としても引き受ける意識が求められるのではと私は考えます。

・・・・・

 最後に少し蛇足かも知れませんが、理解を深めるためロシア帝国とソ連の状況を大日本帝国に置き換えてみましょう。もし日本の天皇家が皇后を常に国外の王室から迎えていた場合を考えてみてください。天皇の母親はいずれも清朝やシャム王室(タイ)、阮朝(ベトナム)の出身であり、よくよく考えてみると天皇家に「日本」の「血統」は僅かにしか流れていないことになる、そうなるともはや「国民の象徴」と呼ぶのが難しくなりそうです。しかしロシア帝国の皇帝とは、そういう血統の人間でした。史実での大日本帝国は間違いなく日本人の支配した帝国でしたが、ロシア帝国は少し違うことが分かると思います。

 そして大日本帝国で革命が勃発して天皇制が廃止され、「日本国」「朝鮮国」「台湾国」「満州国」及び「琉球自治州」「蝦夷自治州」などから構成される「大東亜共栄連邦」が出来上がったとします。この中で権力闘争に勝利し独裁者の地位を手にしたのが満州人であったり、その後は朝鮮人が最高指導者に2代続いて就いたりした場合を考えてみてください。そんな「大東亜共栄連邦」で何かしら惨事が発生したとして、いったいどこの国の責任になるのでしょうか?

 史実での大東亜共栄圏は純然たる日本人の支配でしたが、ソヴィエト連邦の支配者はロシア人とは限らず、時にグルジア人であったりウクライナ人であったりしたわけです。国連安保理の常任理事国の座などソ連の国際的な地位はロシアが継承していますので、その責任もまた引き継ぐ道理はあるのかも知れません。しかしそれだけで済むのかどうか、やはり共産党幹部を輩出してきたロシア以外の連邦構成国、とりわけ2代続けて最高指導者を生んだウクライナは立派な共犯者と見なしうるものです。しかるに旧ソ連構成国は軒並みソ連時代の負の側面から都合良く自国を切り離そうとしてきた等々、こうした点も踏まえて次章ではロシア・ウクライナ以外のソ連邦構成国の独立後にも少し触れてみたいと思います。

 

第三章はこちら

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