先日の士農工商の話ともちょっと絡むのですが、現代は空前のサムライ時代です。利害関係を計るよりも(彼らなりの)道義的な正しさにしがみつく方が好まれる、そういう傾向が強まりつつあるわけです。ですから、政治的にも自分達にとって利のある政策を掲げる政党よりも、イデオロギー面で共感できる政党の方が支持を集めやすくもなっている、それが自分達に不利益をもたらすとしても、イデオロギー的な「正しさ」が最優先される、そういう偏りがあるのではないでしょうか。
「雨宮処凛トークライブ」(番外)…彼女についての違和感(dr.stoneflyの戯れ言)
こういうことを書いたのは、↑こちら↑のブログを見てのこと、雨宮処凛氏が取り上げられていたのですが、一部には>ネット上で彼女に共感している若者をみたことがない、なんて言う人もいると聞いたからです。たしかに雨宮氏が貧困層や若年層の支持を得ているとは言い難いところはあると思うのですが、ある意味ではそれも当然の結果なのかな、とも。
全体的な傾向として、他の年代よりも若年層の方が、中産階級よりも貧困層の方が、より熱心な自民党支持層でもあるわけです。どう見ても自民党の政策は若年層に犠牲を強いてきた、貧困層にはさらなる犠牲を強いるものですが、これがどうして支持を集めるのか? そのヒントの一つはサムライ魂にあるような気もします。つまり、利害は度外視してイデオロギーを最優先するわけです。
自身への利害関係を考慮するなら、若者や貧困層にとって自民党はあり得ない選択肢です。しかし排外主義やレイシズム、歴史修正主義や厳罰主義を奉ずる人にとっては、自民党以外に選択肢はありません。利害関係を重視するなら左派政党を選ぶしかありませんが、イデオロギーを重視するならば自民党です。そこでサムライ達は利害を度外視して(あくまで、彼らの報じる)道義的正しさを選ぶわけです。
で、自民党支持の多い若年層や貧困層から今一つ支持されないのは、彼女が訴えているのが若年層や貧困層の権利や生活、言うなれば利害に近いものであるからで、逆に彼女が放棄したのが排他的ナショナリズムであるところに、とりわけネット上で支持されない原因があるように思います。彼女は若年層や貧困層の利益を主張しますが、若きサムライ達はもっと別のものを望んでいるわけです。
むろん、若年層及び貧困層にも利害関係を見誤らない人は少なくありませんし、なぜこの層がイデオロギーに寄りかかる=サムライ化しやすいのかは別途検討が必要でしょうけれど。
さて、雨宮氏とセットで論じるべきなのかは分かりませんが、若年貧困層を語るときによく出てくるのが赤木智弘氏です。この赤木氏もメディアに好意的に取り上げられている割には、若年貧困層からの支持があるとは言えないわけです。赤木氏の主張は雨宮氏と違って、決して若年貧困層に利をもたらすような性質のものではなく、イデオロギー型すなわちサムライ型のものなのですが、それが支持を集めないのはどうしてでしょうか?
赤木氏自身と赤木氏の主張を分けて考える必要があるのかも知れません。実のところ、赤木氏の主張自体は元から広く繰り返されてきたものであり、いわゆるネトウヨの類、右派系のオピニオン誌や言葉遣いこそ違うものの経団連や政府与党筋には赤木氏の登場以前から同様の言説が蔓延していたわけです(もし赤木氏の主張に何か新しいものを感じるとしたら、それは右派言説に対して全くの無知であったことを告白するに過ぎません)。赤木氏と主張を同じくする人は、とりあえず選挙で勝てる程度には多数派です。
ただ、主張が同じならば支持されるかと言えば、そうも行かないのが難しいところです。元より右派言説は(以下の点では左派言説もある程度似たところはありますが)、功成り遂げた人々の上からの御高説と無名の人々の書き殴りに二分化しているわけで、この両者の間を人が移動することは基本的にないわけです。支配層はあくまで支配層として、被支配層はあくまで被支配層として、お互いの領域を侵しません。
ところが、某誌編集者の抜擢もあってこの境界線を越えてしまったのが赤木氏です。リベラルに属する人々であれば、こうした領域の横断、境界の破壊を評価することもあるでしょうけれど、残念ながら赤木氏と同じ主張をしている人々は間違ってもリベラルではありません。彼らにとって境界線を踏み越える行為は上下どちらから見ても許し難い越権行為なのです。
赤木氏と同じ主張をしている「上」に属する人々、つまり右派系オピニオン誌や政財界の御用学者、御用評論家、「先生」達にとって、赤木氏は勝手に自分達の世界に入り込んだ闖入者に見えているのではないでしょうか。それはおそらく、財界人が堀江貴文を見た目と同じ、あるいは山内容堂が武市半平太を見た目と同じものです。
そして主張を同じくしながら「下」に属する人々、いわゆるネトウヨの類やそれに同調する人々にとって、赤木氏は造反者です。自分達が忠実に「上」の支配を受け容れているのに、不敬にも「上」の領域に足を踏み入れることは重大な違反なのです。誰もが等しく上から抑えつけられている状態を是とする人々から見れば、赤木氏は成功者でも挑戦者でもなく、禁忌を犯した存在なのではないでしょうか? 上に反抗して権利を勝ち取ることをなによりも嫌う人にとって、たとえ「上」に反抗していないにせよ、一定の地位を築いてしまった、境界を踏み越えてしまった赤木氏の存在は絶対に受け容れられないでしょう。
ですから、雨宮氏とはまた違った理由で、赤木氏は支持を受けることができません。同じ主張の人からは一定の支持がある雨宮氏とは逆に、赤木氏は同じ主張の人からこそ支持を受けられない、同じ舞台に登場することが多い両者ですが、違いははっきりしています。
いやいや、昨今の刀を振りかざす精神は立派なサムライ魂だと思いますよ。元よりサムライという表現が無条件に肯定的なものとして用いられるのが誤りであって、サムライでないことが卑しいことのようなニュアンスを含む、そうしたところに階層意識が潜んでいるようにも感じます。あんなのはサムライじゃないと言う人がいるにせよ、自称サムライが増えている、他人にサムライであることを要求する時代にはむしろ自分がサムライとは対極にいることを誇りたいです。
権力者に媚びる者と肉体的精神的に強い者とを同一視する矛盾もあります。
いまだに肛門様の菊ならぬ葵の御紋にへへー。
庶民向けでサムライが人気を得るのが怒りを爆発させて反逆するシーンです。
アホなサムライでも仇討ちで見直される。
前の記事でもサムライと官吏の記述がありますが、官吏が英雄視される例外的なケースも体制への反逆のような。
サムライを一義的に決め付けられませんが、国民にサムライ志向が残る事は特権階級(2代目3代目政治家、タレント政治家)容認&願望です。
強いものでもやがて衰え零落する事を考えたくない、無視する。
サムライ(美化された強い者)願望が否定されないのは「自分だけは能力とは無縁の身分世襲制で守られる」事を望んでいる人間が大多数であるのでしょう。
赤木君は上下格差の上のものに煙たがれるという部分もあるかもしれませんが、下のものにとっても面白くない存在かもしれません。出る杭として上からも下からも叩かれ、また違うイデオロギーからも叩かれる。
そうした叩かれる構造としては赤木君と反対のベクトルの雨宮処凛も同じですね。
そうそう、上下に厳しい、上にへつらい下に威張る、これは全く同感です。士農工商の一番上として下に対する優越感を持ちつつ、あくまで主君に仕えるものとして上には服従するわけですよね。テレビドラマのように悪役がはっきりと規定されていれば、上に対する反逆も支持を受けますが、現実はなかなか難しいもの、誰が悪役かが隠されていたり、どうでも良いような人が悪役に仕立て上げられたりと、敵を見失っているのが惜しいところです。
>BLOG BLUESさん
もちろん理念と実体は違うもので、理念上の存在であるサムライの他階級に対する道徳的な優越は、実態としては存在しません。そこでサムライ好きの人は道徳的な高潔さをサムライに「託す」わけですが、なぜ多数派である農民にではなく支配階級、軍事階級であるサムライをヨイショしなければならないのか理解に苦しみますね。私だったら序列の外側にいる芸人やに託したいところですが。
それから「他者のために身命を顧みぬもの」という点では、私のサムライ観とBLOG BLUESさんのそれとは完全に一致していますよ。ほら、日本中に犇めいているサムライ達は自分達のためになる選択なんてしていないではないですか。全ては「公」のため、指導者は「価値観」にしがみついて国益を損なう決断を連発し、国民は自分達の生活を損なう政党に喜んで票を投じる、呆れた自己犠牲の精神ではないですか。私のように自分の利益になる政党を選ぶ人間からすれば見上げたものですよ。
>dr.stoneflyさん
物質的なものよりも精神的なものを重んじると言えば聞こえは良いですが、その精神的なものが決して肯定できるようなものではなくなっているのですよね。何かを得るために結びつくというよりも、何かを損ねるために結びついていると言いますか、友愛ではなく憎悪によって結びついている気がします。その点では明確に敵を設定して(不毛な)攻撃を繰り返す赤木氏の方が雨宮氏よりも安易な共感は得やすいようにも見えるのですが、それがどうして今まで格下だと思っていた存在が脚光を浴びるようになると反感を買うわけです。右寄りの右派貧困層から見た赤木氏って、もしかしたら日本の右派から見た中国みたいな存在なのかとか、そんな風にも感じます。隣人の成長を喜べる人ならいざ知らず、隣人の成長に不快感を隠さない人には……
彼らの実態は「サムライ」というより、「権力」というガレー船を漕がされている「ドレイ」に近いのではないのでしょうか。彼ら自身も恐らくそれを無意識的に感じ取っているのでしょうが、自分たちの真の立場を直視するのが怖いものだから、大河ドラマや時代劇で活躍する、「カッコイイ」サムライたちの姿に、美化・理想化された己の姿を投影しているのだと思います。
>何かを得るために結びつくというよりも、何かを損ねるために結びついていると言いますか、友愛ではなく憎悪によって結びついている気がします。
嫉妬心は「ドレイ」の基本的心性と言うべきでしょう。
実態はサムライという支配階級にはほど遠いわけですが、それでも気分は「公」に使えるサムライなのでしょう。奴隷として労役を課せられているとしても、それが自分の利益にならない分だけ尚更、「公」というまやかしに使えている気分になる、道義的に正しいつもりになれるのかも知れません。それは彼らの現実を満たすにはあまりにも無意味ではありますが……
>BLOG BLUESさん
サムライと武士は違うというのはまた画期的な発想ですね。だったらサムライとは違う、もっと武士とは無関係の新しい言葉を使えばいいものを、それでもサムライに拘泥する辺りに限界を感じます。レイシストは自分の気にくわない人を「在日」にする、BLOG BLUESさんは自分の好む人を「サムライ」に仕立てますが、それは在日に対する偏見と同レベルのサムライに対する盲信に過ぎません。BLOG BLUESさんのサムライ崇拝はご自由にどうぞという他はありませんが、当ブログでまでサムライが賛美されていなければ嫌だ嫌だと駄々をこねられても、私としてはどうしようもありません。