非国民通信

ノーモア・コイズミ

会社を甘やかし、社会を甘やかす論理

2012-03-08 22:49:34 | 雇用・経済

育休フィーバーの影で犠牲を強いられる“正直者”たちの鬱屈
 「働き方の多様化」では済まされない取得者たちの軽さ(日経ビジネスONLINE)

 ところが、その一方で、育休を取得した人の仕事は、周りの人が肩代わりすることになる。

 「やっぱり~、子供って3歳までにどれだけお母さんと一緒に過ごしたか、ってことが将来にものすごい影響を与えるじゃないですか~。仕事の代わりはいても、母親の代わりはいないですから~~」
 
 これは夫が休める、休めないに関係なく、女性たちに育児に集中する権利が与えられている大手保険会社で、ある若い女性社員がつぶやいた一言だ。これを聞いた職場の先輩の女性は次のようにブチ切れた。
 
 「育休だの、時短だの、ワークライフバランスだの、あれやこれや制度ができるのは悪いことだとは思いません。でも、会社員なんですから与えられている仕事の責任を全うして、初めて権利を主張すべきだと思うんです。なのに、最近の若い世代は、明らかに仕事よりも家庭の優先順位が高い。仕事から逃げてる。私にはそういうふうにしか思えないんです」

(中略)

 「なぜ、若い女性たちは母親の代わりはいないと断言し、仕事の代わりはいて当然と信じ込んでいるのでしょうか。何か違うんじゃないかって、思えてなりません。休んだ彼女たちの仕事は、誰かが穴埋めしなきゃいけない。だったら、子育てに保育園とかベビーシッターとか、公的な機関も含めて利用して、できる限り早く仕事に復帰すべきです。たとえ自分の稼ぎのほとんどが子供を預けることに使われることになったとしてもです」

(中略)

 実は、彼女自身も、産休と育休を利用している。しかし、制度をフルに利用すれば出産前後で1年半以上も休むことができたにもかかわらず、出産予定日の3週間前まで働き続け、産後10週間で復帰したそうだ。
 
 「子育ては大切。でも、自分はしょせんサラリーマン」――。こんな思いがあったから、そうしたと言う。「サラリーマンの義務」を、できる限り果たそうとしたわけだ。

 ところが、最近はその「義務」を果たそうとしない人があまりに多く、「子育て」という、誰も反論できない理由を盾にする社員たちに、ほとほと嫌気が差していた。そこに、「仕事の代わりはいても、母親の代わりはいない」との発言が、とどめを刺した。
 
 子育てのために会社があるわけじゃない――。

 

 権利を行使する前に、まず義務を果たせと、どうにも産経新聞かと見紛う主張が掲載されていますが、掲載誌は日経の系列メディアです。まぁ、根底的なところでは差がないのかも知れませんね。それにしても、こんな産経文化人みたいな先輩社員が幅を利かせている職場の人には同情を禁じ得ません。お局が「サラリーマンの義務」を果たしてきたと自画自賛するのは結構ですけれど、同じことを他人に強制しようというのは単なる我儘でしかないでしょう。会社に尽くすために社員の人生があるわけではない、社員それぞれにも自分の人生があるのですから。

 

 「私たちの時は、男女雇用機会均等法が施行されたといっても、現実にはまだまだで、制服はあるわ、『女の子』としか呼んでもらえないわで、ひどかったですよ。残業規定が厳しくて、午後7時以降の会議には出ることすらできない。昼間の会議でも、重要事項を扱う会議には、出させてもらえなかった。だから、『会議に参加させろ!』って、上司に何度も掛け合いました」
 
 「ですから、参加OKの指示が出た時には、必死でしたよ。どうにかして自分の存在価値を示さなきゃってね。でも、最近はそういう『女の子』枠はないでしょ。女性だろうと何だろうと、そのポジションにいればどんな会議にも参加できる。どんな仕事だって任される」
 
 「途中から何とかして獲得した仕事と、最初から当たり前のようにある仕事とでは、『重み』が違う。私からすれば、『そんな責任ある仕事を任されるなんて喜ぶべきだ』と思うんですけど、彼女たちはそうは思わない。女性たちが進出したことで、女性の仕事観が軽くなったような気がしています」
 


 以前にも何度か触れたことではありますが、男性社会でのし上がった女性は往々にして、男性以上に男性的であるケースが目立つように思います。結局のところ、男性原理が支配する中では女性であることが不利に働くわけですけれど、そこで女性が男性を差し置いて出世の階段を上るためには、周りの男性よりも男性原理もしくは会社の論理に忠実である必要がある、ゆえに男性社会に「進出」した女性とは選りすぐりの社畜根性、マッチョイズムを身につけた女性である場合が少なくないのではないでしょうか。男性であればガチの社畜でなくとも長く勤めていれば出世できる機会があったかも知れません。しかし、女性は周りの男性を圧倒する社畜魂を披露しないことには抜擢されることもなく、寿退社を期待される時代もあったわけです。その結果として、冒頭やこちらで引用したような社会進出した女性が生まれたと言えそうです。

 元始、女性は太陽ならぬ労働力でありました。別に現代だって、農村部を思い浮かべてみれば一目瞭然ですが、専業主婦なんてあり得なかったわけです。それが経済の発展と成熟に伴い、亭主一人の稼ぎで家族が暮らせるようになると「女性は家庭」というモダンな価値観も成り立つようになりました。昨今では経済の退行に伴い「女も働け」という気運が強まる一方ですけれど、甲斐性のある男を捕まえることが困難になればなるほど希少価値も高まるもので、女性の専業主婦志向はむしろ上昇傾向にあります。そんな中、時代に取り残された真性保守とでも呼ばれるべき立場をとっているのが、引用した『そんな責任ある仕事を任されるなんて喜ぶべきだ』と思う女性達なのかも知れません。仕事を任されて喜ぶかどうかなんて、個々の勝手だろうとしか言いようがないですけれど。何を喜ぶべきか、それは他人に指図されるようなものではないでしょう。

 

 例えば5人のうち1人でも育休で欠ければ、4人で5人分の仕事をする羽目になる。時短勤務をしている人が1人いると、その人がやり残した仕事を他のメンバーがやり繰りせざるを得ないわけで。
 
 しかも、よほどの単純な作業でない限り、1人分の仕事を4人に均等に割り振ることなどできやしない。さらに残された4人の中には、「子供を迎えに行かなきゃならないから」と残業を一切しない人もいれば、見て見ぬ振りをしてさっさと帰る人だっているかもしれないのだ。
 
 こんな時に最大の犠牲者となるのは、生真面目な正直者だ。

 

 さて、産経文化人みたいな女性社員の言い分が長々と紹介された後に、引用元コラムの著者は上のように書いています。育休取得者のせいで「生真面目な正直者」が「最大の犠牲者」にされているんですって。へー。元より見出しには「(育休)取得者たちの 軽さ 」と掲げられているわけです。このコラムの著者にとって育休取得者とは、不真面目で不誠実な存在なのでしょう。たしかに、部署に育休取得者が出ることによって人員が減る、その分を他のメンバーが補わねばならないことになる局面は少なからず出てくることがあるかも知れませんけれど、だからといって育休取得者のせいで「正直者」が「犠牲者」にされているかのように語るのはミスリーディングもいいところです。

 これは育休に限らず有休の取得にも当てはまります。いずれにせよ、誰かが勝手に設定した「与えられている仕事の責任」を果たそうが果たすまいが、有給や育休は当然の権利として行使が認められるものです。そして権利が行使されたからといって業務に支障が出ないような体制を構築するのは、本来なら会社の役割ではないでしょうか。もっとも日本の企業はその辺を怠っている場合が多く、有給や育休を取得する人がいないことを前提にギリギリの人数で回していることも少なくありません。有給や育休の使用で業務が滞るとしたら、会社の管理に問題があるのですが、しかし会社の管理を問う前に部門に属する個人が自主的に責任を負う、あるいは社員にプレッシャーをかけて有給や育休を取得することを自粛させるのが当たり前になっているために、経営側が甘やかされているだけです。

 むしろ、社員はもっと無責任に自分の権利を行使すべきでしょう。「正直者」が勝手に「犠牲者」になるから、経営側が漫然と人員不足を放置することにもなるのです。法的にも雇用契約の上でも認められている権利は使われることを前提として会社が運営されるべきなのに、権利が使われたら綻びが出るような状態が放置されている、それが経営側の怠慢、責任放棄でなくてなんだというのでしょうか? 社員が自主的に経営責任を背負い込む必要はありません。しかし、この引用したコラムで説かれているように、権利が行使されることによって生じる綻びの責任を、権利を行使した人に向けようとする論調もまた根強いものがあります。こうした論調が平然と垂れ流されている辺りに、有給や育休の取得が進まない背景が窺われるというものです。

 ちなみに、「仕事の代わりはいても、母親の代わりはいない」と語ったとされる若い女性社員にも、一つ考えを改めてもらいたい点があります。もちろん、仕事の代わりはいて当然です(そして、それを用意すべき責任は会社にあります)。しかし、母親の代わりはいないのでしょうか? 母親の代わりだって、いていいと思います。何でも母親が育児に責任を負う必要はないわけで、家族や親戚、隣人だけではなく公的機関による支援等々、別に母親だけで子供を育てなければならないことはないはずです。むしろ仕事と同様に、時には母親という役割を休んだっていいでしょう。保育園やベビーシッターは仕事に復帰するためだけではなく、母親を休むために利用しても構わない、そう考えて欲しいなと。仕事の代わりはいないと信じる社畜が経営側を甘やかすように、母親の代わりはいないと断じる母親は社会を甘やかします。その結果として会社は人が抜けた後でも業務を変わらず維持する責任を社員に背負い込ませ、社会は子育ての責任を母親に背負い込ませる、それが当たり前だと思うようになるのですから。母親を支えるべきは周囲ですが、母親が勝手に子育ての責任を背負い込めば背負い込んだ分だけ、我々の社会は怠慢になり、子育てを母親に任せるようになります。

 

 ←応援よろしくお願いします


コメント (15)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 少しだけ変わった記事 | トップ | 競争しないワタミ »
最新の画像もっと見る

15 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (takeshi matsutani)
2012-03-09 00:02:32
本当にその通りだと思います。
前からずっと思っているのは、なんでそういう経営側や管理する側への批判とかがあまりでないのかが不思議です。
あと、一部の日本人の権利と義務の考え方は本当におかしいと思います。
義務を果たしてから権利を主張する、という変な考え方はいつからできたんでしょうね。
返信する
Unknown (プチ左派)
2012-03-09 00:46:59
育児休暇とか看護休暇とかは、制度上はあってもそれは「やってますよ」というアリバイ作りのためだけで、実態は「配偶者・近親者等の助けが受けられる状況下では認可しない」と、事実上取らせまいとしている企業が多いとも聞きます。実際私の知人(なんと公務員)もそう言われて断念したことがあったそうです。

お局様の休暇観は「休暇は会社が与えてやっているもので、社員はそれを有難く受け取らねばならない」というナントカ革命以前の状態なんですね。
人員不足を理由にした休暇の申請却下は認められないなどというのは法的にも当然のことなんですけど。
返信する
むしろ差別社会を望んでいるのか (ヘタレ一代)
2012-03-09 08:02:56
>でも、最近はそういう『女の子』枠はないでしょ。女性だろうと何だろうと、そのポジションにいればどんな会議にも参加できる。どんな仕事だって任される

ぞっとする発言ですね。「女性でも会議に参加するのにかつてのような特別な働きかけをしないで済むようになった」とは、まだまだとはいえ差別社会が緩和されている事を意味している筈なのに、それを問題であるかのようにとらえているとは・・
最早若手を叩くためなら自分さえ犠牲になる事を考えず、理屈も何もないルサマンチンを振りかざす事がここでも行われています。

しかもこれを今度は「母親」を強調する人の立場からの文章だと、「仕事に逃げて育児してない」とか言い出しそうで怖いです。早く高度経済成長時代の生活モデルを転換しないと、女性差別は決してなくならないはずなのに、肝心の女性たち(最も、こんな社会を放置してきた男性もです)が差別社会を利用することで互いに叩きあって悦に入っているようでは陰鬱な思いに駆られます。
返信する
かくして少子化は進む (kuroneko)
2012-03-09 12:31:10
 「母親の代わりはいない」って昔から聞くフレーズですね。ただ、「孤児差別」意識とうらはらな気もするけど。

周囲からも、「世間」からも育児の責任を押しつけられて、わーわー言われるんだから、「子どもはいらないや」と思う女性が増えても当然かな、という気もしますね。

 昔はよかった、というわけではないけど、祖母や母親なんかの口ぶりを思い出すと、「女性=育児」絶対論というだけでもないような…。

 子育てを放棄する親への非難もあったけど、「子どもなんて思う通りに育つわけない」という諦念というか世間智とかもあったように思います。
(それに結核などで早く亡くなる人もけっこういたから、母親以外の人に育てられたケースは、戦前の方が今より当たり前に受け止められていたのではないかなあ)

 産業構造も違うし、貧富の差もあるから、子どもにかかりきりの専業主婦の母親なんて戦前の多くの家庭では考えられないでしょう。
返信する
Unknown (SPQR)
2012-03-09 21:27:39
構造的な問題を、単なる個人の問題にすり替えてしまおうとする論調に、生活保護バッシングと似たような空気を感じますね。
返信する
Unknown (ノエルザブレイヴ)
2012-03-09 21:32:26
何やら「奴隷としての使命を全うすることに誇りを感ずる」というわけのわからない事態になっているひとが少なからずいるように私には見えます。

その一方で「本当は休みたいんです!」と心の奥底で思っている人もまた多そうで、だからこそ思い切って休んだ人に対する怨嗟の視線があるのかもしれませんね。
返信する
Unknown (非国民通信管理人)
2012-03-09 23:20:44
>takeshi matsutaniさん

 ひたすら個人に責任を求めるばかりで、経営側など実際に物事を動かせる力のあるところには批判が向かないんですよね。そして権利よりも先に義務ありき、どうにも自分を労働者ではなく経営者と同一視しているかのような、そんな立場からの意見が目立つところです。

>プチ左派さん

 なんだかんだ言って「取らせない」為の空気が形成されていたり、有給と同様「やむを得ないときにのみ使うもの」みたいな誤った理解がはびこっているんですよね。こんな有様でも「育休フィーバー」などと言い出す人がいるのですから、呆れるほかありません。

>ヘタレ一代さん

 苦労して成功した(つもり)の人はしばしば、他人にも同じことを求めるものなのでしょうね。その分だけ、他人(若い世代)が労せずして自分と同じものを手に入れることが許せない、もっと苦労しろ!みたいなところにも繋がっているのではないかと思います。

>kuronekoさん

 それは本文で書いたように、女性は労働力だったのですから。専業主婦というのは成熟した時代のモダンな価値観なんです。しかし日本社会が貧しくなるにつれ、専業主婦になるのは難しくなるばかり、それでも仕事から逃れるための代替的な選択肢として母親の役割重視が出てくるのかも知れません。

>SPQRさん

 それが常套手段なのでしょうね。会社や社会、制度の不備を個人の責任に帰すことで有耶無耶にされてしまうわけです。

>ノエルザブレイヴさん

 自分が得られないもの(この場合は休暇)を、他人が得ている時に、自分が得られないことを正当化すべく得ている人を悪者にしてしまうと言ったところですね。
返信する
Unknown (ルーピー)
2012-03-10 16:13:10
 「シュガー社員」なんて言葉があること自体、ですね。民間企業は甘えているし、公務員はもっと甘えている、ということのようです。
 そういう言葉をその通りだと思っている人が多いようです。本も売れているみたいです。それで、自分も甘えている、もっとストイックにならなければならない、とか、公務員なんて自分より甘えているじゃないか、なんていう思考に行き着くのでしょう。
返信する
Unknown (y)
2012-03-10 21:58:28
なんていうか、小学校高学年の学級会を思い出します。

「△△する時間なのに○○さんが××してまーす!」みたいなわりとどうでもいい問題提起(内容的には「掃除の時間なのに○○さんが鼻唄を歌っていた」とかそのレベル)に始まり、周囲と先生の顔色をうかがったつるし上げコメントが続き、最終的には「掃除の時間に鼻唄を歌ってはいけない」みたいな決まりが完成して相互監視が始まる。

「掃除中に鼻唄ぐらい歌ったっていいだろうに。朗らかに仕事した方が楽しいし効率も上がるだろ。なぜだめなんだ」という問題提起は絶対に出てこない。

仕組みに疑問を持たずに個人を叩く、という経験ばっかりして大人になるとこうなるんだろうなあ。そしてまた仕組みに疑問を持たない世代を再生産しようとする。とほほ。
返信する
Unknown (非国民通信管理人)
2012-03-10 23:23:23
>ルーピーさん

 自称経済誌とかの世界観を鵜呑みにして、周りの人が「甘えている」と信じ込んでしまう人もいるわけですね。で、それは良くないと思い込む。自分の身の周りを見回してみれば、それは違うと気づきそうなものですが、どうにも自分だけが頑張っていると勘違いしてしまう人も多いのでしょうか。

>yさん

 あぁ、なんだか既視感のある風景です。そうやってくだらないルールが作られるわけですけれど、作った当事者達は何か正しいことをしているかのような高揚感に駆られていて、そのばかばかしさに気づかなかったり…… 悪者を見つけて糾弾する、勧善懲悪の世界から卒業できずに大人になってしまうのですね。
返信する

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

雇用・経済」カテゴリの最新記事