震災後、好感度・魅力度が最も高いと評価された企業は?(マイコミジャーナル)
日経BPコンサルティングは4月21日、東日本大震災から1ヵ月がたった4月11日から13日にかけて実施した、企業の復旧・復興のための活動や支援、この事態に応じた形での広告や宣伝・広報活動を見聞きした結果、「好感をもった、魅力的に映った、高く評価した」企業を尋ねる「企業名想起調査」の結果を発表した。
同調査は、思い浮かんだ企業を5つまで自由に記入するインターネット調査で、有効回答者は887人だった。
第1位は企業名想起率36.2%で「ソフトバンク」だった。災害用伝言版の設置や復興支援ポータルサイトの立ち上げ、被災地での携帯電話料金の無料化をはじめとした復興支援活動をいち早く行ったことに加え、孫社長の個人資産寄付など、その行動力を評価する声が多数あった。
有効回答887人で、しかもインターネット調査とあらば信憑性の程は定かでありませんが、「好感をもった、魅力的に映った、高く評価した」企業の第1位にソフトバンクが選ばれたそうです。それは、あんまりじゃないでしょうか。だってソフトバンクと言ったら、何かと繋がりにくいことで定評のある携帯ですよ。平常時であれば気にするほどではなかったのかも知れませんが、災害時にはどうだったでしょうか? 人が挙って電話を使う災害現場ではソフトバンクの電話はとにかく繋がりにくいから、仕事に使う電話は別の会社のに変えろと指示を出していた報道機関もあったと聞きます。言うまでもなく今回の大災害においても、ソフトバンクは東北地域で最も電波の通らなかった携帯電話として幅広く知られるところでもあるわけです。そのソフトバンクが「好感をもった、魅力的に映った、高く評価した」企業の第1位に選ばれるとは、いったい何の冗談なのでしょう。
ソフトバンクの社長である孫正義が100億円の寄付をした辺りが効いているのかも知れません。とはいえ日本でも雇われ経営者ではなくオーナー経営者ならば捨てるほど金を持っているもので、孫正義の場合は6800億円の資産があると言われています。どれほど浪費しても永遠に金に困ることがない人間が資産の1%強を寄付するくらい、どうということもないような気がしますが、比率よりも単体の数値の大小にばかり反応しがちなのが世論というものなのでしょう(全体像を見せずに単体の数値だけを見せるのは印象操作の基本です)。まぁ貧乏人がなけなしの貯金を絞って寄付する1万円より、世界レベルの大富豪にとっては端金に過ぎない100億円の寄付の方が被災地にとっては意味があるのも現実ですから、この寄付そのものは評価されてもいいとは思います。
ただ、個人の善行なり美談なりで企業としての責任がどこかに忘れ去られてしまうとしたら、それは大いに問題があるはずです。携帯電話会社ともなれば今や重要な社会インフラの一つ、にも関わらず災害時に役割を果たせなかったとすれば相応の批判を浴びてしかるべきでしょう。孫正義という個人にとってはいざ知らず、ソフトバンクという会社を評価するならば、まず被災地での安否確認や必要な情報提供の道具として機能できたかどうかが問われねばなりませんし、100億円の寄付よりも被災地での長期的な雇用の創出の方が長期的な効果は大きいわけです。上述のインターネット調査に回答した人は、いったい何を評価基準としていたのでしょうか。
ソフトバンクの携帯が繋がりにくいのは、他社と比べて加入者を増やすことにばかり熱心で基地局等の設備投資を疎かにしているためと言われています。備えは後、まずは金を落としてくれる契約者の増大を優先してきた結果としてソフトバンクの躍進もあったのでしょうけれど、こういう企業運営は当然ながら、ギリギリの勝負を続けているわけです。平時なら何とか賄えるものの、災害時には全く対応できないレベルの通信網、それがソフトバンクでもあるはずですが、こういう企業が高く評価されているとしたら、たぶん世論を構成している人々は今回の震災や原発事故から何も学んでいないのでしょう。普通に起こるレベルの地震や津波なら平気だけど数100年に一度クラスだと定かではない――災害対策がこういう範囲に止まっていた某企業は今や国民の敵として見境のないバッシングに晒されています。ではソフトバンクは? 要は結果的に失敗したところだけが標的にされるだけの話で、結果的に状況を乗り切れば五月蠅くは問われないもののようです。
携帯なく連絡できず? 奈良の横転事故 老夫婦は凍死(産経新聞)
奈良県大淀町中増の林道脇の崖下斜面で19日、軽乗用車が横転、2人が死亡した事故で、県警中吉野署は21日、車外で見つかった大阪市城東区新喜多東の無職、高橋宇三郎さん(84)の死因が司法解剖の結果、低体温症(凍死)と判明したと発表した。同乗していた妻のわゑさん(81)の死因も同じ低体温症で、同署は、車が横転した後に助手席で動けなくなったわゑさんを助け出そうと高橋さんが車外に出たが、その後気温が下がり凍死したとみている。
解剖結果によると、高橋さんの死亡推定は19日午前0時ごろ。わゑさんは、同日午後に搬送先の病院で低体温症による死亡が確認されていた。2人には事故による目立った外傷は打撲程度以外になかったという。
事故は19日午後1時40分ごろ、通行人が横転した車と車外で倒れていた高橋さんを見つけ110番。中吉野署によると、18日午前10時ごろに現場近くで2人の目撃情報があり、横転事故は18日中に発生したとみられる。
現場検証などでも高橋さん夫婦の携帯電話が見つかっておらず、2人は携帯電話を所持していなかったとみられ、事故後に連絡する手段がなかった可能性が高いという。
携帯があれば~、というのは記者の主観によるところも少なくありませんが、ただ連絡手段さえ有していれば速やかに助けを呼べた、つまり死は避けられたであろうことが容易に想像できます。もっとも携帯を持っていたところで繋がらなければ意味はありませんが! それはさておき原発事故とそれに伴う電力不足もあって、昨今は退行を求める声が喧しいわけです。曰く「○○なんていらないじゃないか」「○○はなくてもいいじゃないか」「今までが便利すぎたのだ」と。危機に乗じて何となく「文明の利器」的なものや浪費っぽいイメージのあるものがネガティヴに扱われがちな中では、携帯電話のように消費電力は少なくとも新参のデバイスには否定的なまなざしが向けられることもあるでしょう。まぁ私だって携帯を持たずに20年以上生きてきただけに、携帯なんか無くても生きていけると言われれば、確かにかつてはそうだったと認めざるを得ません。ただ、ここで挙げられたように携帯電話があれば助かったであろう命もあるわけです。
働く機械や産む機械には必要なさそうに見える、傍目には非生産的な生業や道具も、時には人の支えになっていたりするものです。とかく考え方が社会主義国的(≠社会主義的)な人は、享楽的なものや趣味的なものをムダとみなしがちですが、そういうものが生きる支えになっている人もいれば、そこから仕事を得ている人もいる、そして命が助けられることもあるのではないでしょうか。何かと「新しい」生き方が否定され、もっと浪費が少なかった(ということになっている)時代の生き方に立ち戻れと言わんばかりの論調が強まるばかりの今日ですけれど、それはあくまで強者の論理であって、新しく登場した「かつては必要なかったもの」のおかげで生きていられる人を切り捨てようとする傲慢さの表れでもあります。