DIARY yuutu

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芥川龍之介「可能」『侏儒の言葉』(1923-27)所収:神は「希望通りにこの世界を造」り、人間に試練を与えたのだ!恐ろしい神だ!

2019-03-31 16:50:11 | 日記
 「可能」 Possibility

われわれはしたいことのできるものではない。 We cannot turn what we desire into a reality.
ただできることをするものである。 We only do what we can do.
これはわれわれ個人ばかりではない。 This is true for each of us as an individual,
われわれの社会も同じことである。 but also for our society.
おそらくは神も希望どおりにこの世界を造ることはできなかったであろう。 Perhaps, God also could not have created this world as He had desired.

《感想1》「したいこと」つまり望むことが実現することはなかなかない。成功者でも、実現しなかったことは多い。普通の者は、望んだことが実現することなどまずない。食べていくだけで大変だ。
《感想2》「ただできることをするものである」のは全く確かだ。過去はその本性からして、自分にとって「できること」が何だったかの証明だ。過去は嘘をつかない。
《感想3》「社会」も、「したいこと」つまり望むことが実現することはなかなかない。社会の過去は、その社会にとって「できること」が何だったかの証明だ。
《感想3-3》だが「社会」が望むこととは、何か?社会の構成メンバーの多数が望むことだ。だがそれを一つに定式化するのが難しい。「同床異夢」だ。
《感想3-4》また社会は利害をめぐる闘争だ。経済的・権力的に優位な者が望むことが、普通実現する。多数が望むことは、実現されない。
《感想4》「神」の全知全能を否定する見解は、「神」を信じる者に対して冒涜(ボウトク)的だ。
《感想4-2》私見では、おそらく神は「希望通りにこの世界を造」り、人間に試練を与えたのだ。恐ろしい神だ。
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ハイデガー『存在と時間』(1927)「序論 存在の意味への問いの提示」「第1章 存在の問いの必然性、構造および優位」「第4節 存在問題の存在的優位」(その2)

2019-03-31 13:36:04 | 日記
(※(3)~(6)の区分は評者による。)

(3)「現存在」は、「おのれ自身の可能性」(「実存」)を決定する!これが「実存の問い」である!
C 現存在が、「関わり合いうる存在そのもの」そして「関わり合っている存在そのもの」を、「実存」(Existenz)と名付ける。(12頁)
《感想1》現存在において、分裂した存在の一方が「実存」であり、もう一方の存在がおのれの「実存」を眺めるいる。現存在は、このように分裂した同一性だ。

D 「現存在の本質は、そのつどそれの存在(※実存)をおのれの存在として存在しなくてはならない、ということにある。」だから「この存在者(※現存在)の呼び名として、・・・・(※存在者表現でなく)存在表現たる現存在という名称がえらばれた。」(12頁)
《感想2》「現(Da)」とは「実存」のことだ。
《感想2-2》そして「実存」は、私見では、第4節(1)B《感想4-2》で見たように、(ア)身体をここ(Da)として中心とし、かつ(イ)今として、比喩的な意味でここ(Da)であり、さらに(ウ)現存在(※モナド)における《心》(⇔物)の在り方の固有性という意味でも、ここ(Da)だ。

E 「現存在は、自己自身をいつも自己の実存から了解している。」(12頁)
《感想3》ここで「了解」しているとは、日常語で《意識》しているということだ。

E-2 「実存」は、「おのれ自身の(※様々な)可能性」である。この可能性のいずれかが、現存在によって決定される。(※ただし下記①②③のケースがある。)
E-3 現存在は「これらの可能性」(「実存」)を、①「みずからえらんでいる」か、②「それらの可能性のなかへたまたまおちいってきた」のか、③「すでにはじめからそのなかで成長してきた」のか、いずれかだ。(12頁)
E-3-2 「実存をおのれのものとして掌握する(①)にせよ、あるいはそれを逸し去る(②③)にせよ、実存はそのつど現存在によってのみ決定される。」
E-3-3 「この実存の問いは、現存在の存在的な『懸案』である」。(12頁)

《感想4》『存在と時間』における「現存在の分析論」は、サルトルの実存主義より幅が広い。ハイデガーによれば、「現存在」は「おのれ自身の可能性」(「実存」)を、①サルトル的に「みずからえら」ぶだけでなく、《②および③》歴史的に、つまり社会的・文化的・政治的・経済的に、つまり環境的に、強制されると考える。そして、その強制が②遭遇的(「それらの可能性のなかへたまたまおちいってきた」)か、③埋没的(「すでにはじめからそのなかで成長してきた」)かに、区別される。

(4)①現存在をみちびく自己了解である「実存的了解」と、②現存在の「実存論的分析論」!
E-4 実存の決定にあたって、現存在をみちびく自己了解が「実存的了解」である。(①)
E-5 実存を構成する諸契機の構造連関が、「実存性」である。
E-5-2 現存在の「実存論的分析論」(②)は、(上記の「実存的了解」でなく)「実存論的理解」という性格をもつ。

(5)あらゆる存在論の「基礎存在論」としての「現存在の実存論的分析論」!
F 現存在には、本質上、「なんらかの世界のうちに存在する」ということが属す。

《感想5》ハイデガーの「現存在」の語は二重の意味で使われる。一方は、《世界=宇宙=モナド》に力点を置いた意味での「現存在」と、他方で《ここ・今》としてのDa(すなわち(ア)《ここor身体》、かつ(イ)今、かつ(ウ)《心》(⇔物)の固有性としてのDa)に力点を置いた意味での「現存在」だ。
《感想5-2》私見では、現存在は、本来、《世界=宇宙=モナド》と等価だ。
《感想5-3》現存在には、本質上、「なんらかの世界のうちに存在する」ということが属すと言う場合は、《ここ・今》としてのDaに力点が置かれている。
《感想5-4》しかし現存在が、「世界のうちに存在する」とは、最大限では、「世界」とおなじ広がりを持つ。つまり現存在は「世界」(※モナド)である。

F-2 現存在には、本質上、「なんらかの世界のうちに存在する」ということが属すので、現存在に本属する存在了解(※意識)は、「世界」の了解と世界内部の存在者についての了解にも及ぶ。
F-3 かくて現存在でない存在者を主題とするもろもろの存在論は、現存在(※モナド=宇宙=超越論的主観性)の存在的構造に基礎を持つ。
F-4 かくてあらゆる存在論の「基礎存在論」(Fudamentalontologie)は、現存在の実存論的分析論(existenziale Anaalytik des Daseins)だ。
F-5 つまり「現存在こそ、他のあらゆる存在者に先んじて存在論的に第一次的に問いかけらるべきものである。」(※この問いかけが、「現存在の実存論的分析論」である。)
《感想6》私見では、現存在とは、世界=モナド=宇宙=超越論的主観性のことだ。

(6)存在への問いの存在的優位!(※存在への問いが実存的に選び取られた!)
G (現存在の)実存論的分析論は、「実存的な、すなわち存在的な根」を持つ。実存の実存性を開示しようとする実存論的分析論は、「各自実存する現存在の可能性としてみずから実存的に(※存在的に)選び取られた。」
《感想7》存在への問いを「実存的に選び取る」とは、それに「存在的優位」を与えることだ。
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ハイデガー『存在と時間』(1927)「序論 存在の意味への問いの提示」「第1章 存在の問いの必然性、構造および優位」「第4節 存在問題の存在的優位」(その1)

2019-03-30 23:46:44 | 日記
(※(1)(2)の区分は評者による。)

(1)ハイデガーは「存在者(人間)」を、「現存在」と述語的に指称する!
A 「学問または科学は人間の振舞のひとつである」。ハイデガーは、「存在者(人間)」を、「現存在」と指称する。例えば、学問的研究はこの存在者の存在様態のひとつにすぎない。

《感想1》「存在者(人間)」は普通の存在者でない。なぜならそれは、厳密には「存在者」でないから。それは「現存在」だ。「存在者(人間)」は、つまりある特別な「存在者」でなく、ある特別な「存在」のあり方だ。
《感想2》私見では、ここで言われている「人間」は、《モナド》に相当し、宇宙そのものである。それは現象学の用語では《超越論的主観性》だ。
《感想2-2》《モナド》あるいは《超越論的主観性》は、《有》(存在)そのものだ。(それは、《虚無》でない。)《有》(存在)そのものとは宇宙であって、そこに《物》そのものも出現する。
《感想2-2-2》《超越論的主観性》は超越論的《意識》と呼ばれることがあるが、この場合、《意識》と別に、《物》そのもの(Ex. 物自体)があるわけでない。《物》(の出現)は《意識》の一部だ。
《感想2-3》《モナド》あるいは《超越論的主観性》は、《物》そのものの出現を、含む。これが《感覚》だ。
《感想2-4》《モナド》あるいは《超越論的主観性》は、《感覚》(《物》そのものの出現)、《感情、欲望、意図、夢、意味世界、意味世界の展開としての想像・虚構》からなる。
《感想3》「現存在」は、いわゆる「存在者」でない。ハイデガーは便宜的に「格別な存在者」(人間)とよぶだけだ。それ(「格別な存在者」つまり人間)は、《モナド》あるいは《超越論的主観性》であり、《有》(存在)そのものだ。
《感想3-2》《モナド》(宇宙)あるいは《超越論的主観性》あるいは《ハイデガーの「格別な存在者」つまり人間》のうちに、《物》そのものも出現する(《感覚》)。
《感想3-3》しかも《モナド》(宇宙)あるいは《超越論的主観性》あるいは《ハイデガーの「格別な存在者」つまり人間》は、《感情、欲望、意図、夢、意味世界、意味世界の展開としての想像・虚構》(これらは普通《心》と呼ばれる)も含む。
《感想3-3》(ア)《モナド》(宇宙)はまた、《物》そのものの出現において、《身体》(つまり《心》に従う《物》)を常に、中心に伴う。その中心がここ(Da)だ。
《感想3-4》また(イ)存在(有)は次々と出現する。存在の出現の現場が現在(今)であり、比喩的に、ここ(Da)だ。
《感想3-5》さらに(ウ)《心》の在り方の固有性ゆえに、その存在は、ここ(Da)と呼ばれる。
《感想4》「格別な存在者」つまり人間(現存在)は、「存在」(有)そのものである。それは、「存在者」でなく、存在者の「存在」だ。
《感想4-2》しかもそれは、(ア)身体をここ(Da)として中心とし、かつ(イ)今として、比喩的な意味で、ここ(Da)であり、さらに(ウ)《心》の在り方の固有性を示すという意味でも、ここ(Da)だ。
《感想4-3》かくて「格別な存在者」つまり「人間」は、「現存在」と指称される。

(2)現存在は、「私(主体)」が形作られる以前から、分裂しつつ同一である「存在」だ!
B 「現存在は・・・・おのれの存在において、この存在そのものに関わらされている」。(12頁)
(※頁は、原書 MARTIN HEIDEGGER “Sein und Zeid” (1927) の頁である。)

《感想5》ここでは、人間の《意識》について、語られている。例えば石や死体は《意識》がない。だが生きた人間(「現存在」)には《意識》がある。
《感想6》存在が分裂しつつ同一であることが《意識》である。同一であるのに分裂している。
《感想6-2》モナドのうちに蓄積された意味(イデアor観念)は、その中にやがて「私(主体)」を形作り、存在の分裂の一方が「私(主体)」となる。
《感想6-3》だが「現存在」(モナド)は初めから、(「私(主体)」が形作られる以前から、)分裂しつつ同一であるような「存在」だ。

(2)-2 現存在は、自己了解している(※《意識》を持つ)!
B-2 かくて「現存在は・・・・なんらかの様式と明確度において、自己を了解している。」
《感想7》この自己了解が、日常的に《意識》と言われる。

B-3 現存在という「存在者」においては、「存在了解は、それ自体、現存在の存在規定である。」
B-4 現存在が「存在了解」している(※《意識》を持つ)限りで、それは「存在論的に存在する」。(ただしまだ、理論的に存在者の存在を問うているわけでないので「前=存在論的な存在」と呼ぶべきだ。)

《感想8》現存在以外の存在者は、言わば、ただ「存在」的に(「存在論的」でなく)存在する。例えば、石ころのような存在者は、いわゆる《意識》を持たず、「存在了解」する「存在」でなく、「存在論的に存在する」ことがない。
《感想8ー2》私見では、人間とコミュニケーション可能な、例えば犬、チンパンジーなどは、「現存在」でありうる。Cf. フッサールは『デカルト的省察』で人間精神のほか動物精神、植物精神も認める。ここで精神とは、《モナド》のことだ。
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笑い話「親犬がこわい」安楽庵策伝『醒酔笑』(1628):「石橋をたたいてわたる」僧の話!用心に越したことはない! 

2019-03-29 19:04:09 | 日記
ある僧が犬(成犬)を怖がった。 A monk feared an adult dog.
しかし、ある日、彼は子犬を怖がって、逃げた。 However, one day, he feared a puppy and ran away.
友人が彼にたずねた。「ただの子犬だ。君は怖がる必要がない。」 His friend asked him, "It was only a puppy. You didn't need to fear it."
その僧が答えた。「近くに親犬がいたに違いない。だから逃げた。」 The monk replied, "There must have been its parental dog nearby. Therefore, I ran away."

《感想》この僧は、よほど犬(成犬)が怖いのだ。もちろん子犬は、小さいし怖くない。しかし近くに親犬(成犬)がいる可能性がある。だから僧は逃げた。「石橋をたたいてわたる」人だ。用心に越したことはない。「取り越し苦労」かもしれないが・・・・。
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ハイデガー『存在と時間』(1927)「序論 存在の意味への問いの提示」「第1章 存在の問いの必然性、構造および優位」「第3節 存在問題の存在論的優位」

2019-03-29 11:19:13 | 日記
第3節 存在問題の存在論的優位 (※参照:細谷貞雄訳(1994))(※(1)~(3)の区分は評者による。)
《感想》「存在への問い」は、「実証的諸科学(存在的諸科学)」の先験的可能条件をめざすにとどまらず、さらに実証科学の基礎付けとなる「存在論」そのものの可能条件をめざす。つまり「存在への問い」は、「実証的諸科学(存在的諸科学)」、さらに「存在論」の前提だ(=基礎づけをなす)。

(1)前=学問的に画定された事象領域を示す「基礎概念」と「実証的諸科学(存在的諸科学)」!
A 存在者の一切は、そのさまざまな境域(自然・空間・歴史など)に応じて、事象領域の諸分野となる。
A-2 事象領域の諸分野は「基礎概念」によって提示される。「基礎概念」は、前=学問的な経験および解釈によって画定された存在境域である。
A-3 学問的研究(実証的諸科学)は、事象領域を、基礎概念によって、素朴な態度で大まかに画定している。Ex. 数学、物理学、生物学、歴史的精神科学、神学。
A-4 「基礎概念」とは、それぞれの科学の主題的対象の根底にある事象領域についての規定である。

(2)実証科学の基礎付けをなす「存在論」!
B 事象領域は、存在者そのものの境域から得られる。
B-2 素朴な態度にもとづき画定された存在境域としての「基礎概念」は、真正の証示と「基礎づけ」が必要だ。
B-3 実証科学の基礎付けをなすのが「存在論」である。この例としては、①歴史学の概念形成の理論(リッケルト)、②歴史学的認識の理論(ジンメル)、③歴史学の客観としての歴史の理論」(ディルタイ学派)、④自然という存在領域の根本構成を究明する先験的事象論理学(領域的存在論)(カント)

(3)存在論そのものの可能条件をめざす「存在への問い」!
C 「存在への問い」は、存在の意味をゆきとどいて明らかにすることによって、「存在論」そのものの可能条件をめざす。
C-2 すなわち「存在への問い」は、「すでにある存在了解のなかでうごいている諸科学」の先験的可能条件をめざすにとどまらず、「存在的諸科学に先行してこれらをもとづけているもろもろの存在論」そのものの可能条件をめざす。
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