※サキ(Saki)、本名ヘクター・ヒュー・マンロー(Hector Hugh Munro)(1870-1916)、『サキ短編集』新潮文庫、1958年。
(16)「セルノグラツの狼」
(a) ハンブルグの裕福な商人であるコンラッドが「この城には、なにか古い伝説でもあるのかい?」と、妹のグルウベル男爵夫人にたずねた。「こんな古い家には伝説がついてまわるものよ。伝説なんてわけなく作れるんだから。この城で誰かが死んだら、村中の犬と、森じゅうの獣が、夜じゅう吠えるって話があるわ」と男爵夫人が答えた。
《感想》男爵夫人は「この城で誰かが死んだら、村中の犬と、森じゅうの獣(狼)が吠える」という伝説を「作り話」だと信じない。
(b)「この城を買ってここに移って、去年、義母(カア)さまが亡くなった時、犬も獣(狼)も吠えなかったわ。」「城の伝説なんて、もったいをつけようという作り話よ」と男爵夫人が言った。
《感想》ただしこの場合、死んだ者は、この城のもともとの持主でない。城を買って後から移り住んだ者だ。
(c)その時、白髪の女家庭教師のアマリイが言った。みんながふりかえって、びっくりして彼女を見つめた。彼女はいつも黙っていて口を開くことなどなかったからだ。「吠え声が聞こえるのは、この城の先祖伝来の所有者のセルノグラツ家の者がここで死ぬときです。何十頭という狼が現れて吠え、それにおびえて村中の犬が吠えます。そして死んでゆく人の魂が肉体を離れる時、お庭の樹が裂けて倒れます。」
《感想》「村中の犬と、森じゅうの獣(狼)が吠える」のは、この城の先祖伝来の所有者の「セルノグラツ家の者」がここで死ぬときだと、白髪の女家庭教師のアマリイが言った。だがどうして、そのようなことを知っているのか。
(d)男爵夫人は、分不相応な地位からのさばり出て、こんな無礼極まりないことを言う見すぼらしい老女を、怒って見すえた。「あなたはセルノグラツ家の伝説をよく知っているらしいわね。専攻の学問の中に、家の伝説まで入っているとは知りませんでしたよ。」
《感想》男爵夫人は、使用人である老家庭教師を侮辱した。
(e)この侮辱に対して家庭教師のシュミットが言った。「わたくしはセルノグラツ家のものでございます。ですからこの一家の伝説を知っているのでございます。私は祖父と父とこの城に住み、お城の伝説を何度も聞かされました。」誰もが驚いた。「零落いたしまして、家庭教師の仕事をするようになって、名前を変えました。こちら様に勤めさせていただく時、まさか自分の一家のお城に参るとは考えも致しませんでした。ここにだけは参りたく、ございませんでした。」
《感想》驚くべき事実!だが男爵夫人も男爵も、このような老シュミットの発言を信じないだろう。
(f)やがて老女が部屋を出ると、嘲笑と不信の渦が巻き起こった。①男爵が「あんな話はひとことだって信じやせん百姓どもと話していて伝説や物語を聞き出したんだろう」と言った。②男爵夫人が言った。「自分にもったいをつけたいんですよ。近いうちにお払い箱になると知って、同情を引きたいんですよ。」そしてさらに言った。「正月のお祝いがすんだら、すぐ暇を出しますわ。」ただし「それまでは忙しくて、あれがいないとやってゆけませんから。」
《感想》老家庭教師シュミットへの侮辱、蔑み、身分をわき目ない事への憤懣、悪意など、男爵と男爵夫人の反応は、このヴィクトリア朝の時代、つまり「合理化」と「呪術からの解放」(Entzauberung)の時代、「金(カネ)」が全ての時代では、普通のことだろう。
(g)クリスマス後、厳しい寒さが襲い、老シュミットは重い病気にかかった。客たちが暖炉を囲んでいたとき、男爵夫人が「うちじゅうお客さまがいっぱいのこの時期に、病気で倒れられるのはやはり困る」と言った。「さぞお困りでしょう」と銀行家の妻が応じた。「今年の寒さほどひどいのは覚えがない」と男爵が言った。
《感想》老女シュミットは、男爵夫妻にとって、確かに有能な使用人だった。
(h)その時、男爵夫人の狆(チン)が怯えて、震えながらソファの下に潜り込んだ。城の庭で犬どもが吠えはじめ、遠くで多くの犬が吠える。犬どもを恐怖と怒りに駆りたてたのは、狼の咆哮だった。「おびただしい狼の群だ」とハンブルグの商人コンラッドが言った。
(h)-2 男爵夫人は、自分でも説明できない衝動にうながされ、老女の寝ている部屋に行った。窓は開け放してあった。「開けたままにして」と老女が言った。男爵夫人が「寒さで死んでしまいますよ」と言うと、老女が言った。「どっちにしましても死ぬんでございますよ。あの声が聞きたいんでございます。狼どもはわたくし一家の死の歌を歌うために、方々からきたのでございます。来てくれて、ほんとによかった。わたくしが、なつかしいお城で死ぬセルノグラツ家の最後のひとりですもの。」そして「出て行って下さい」と彼女は男爵夫人に言った。「わたくし、もう淋しくはございませんから、古い、偉大な家柄のものですもの。」
《感想》「古い、偉大な家柄」であるセルノグラツ家の最後のひとりである者に、「死の歌」を歌うため、狼どもが方々からきて悲しみの咆哮をする。今は「合理化」と「呪術からの解放」(Entzauberung)の時代、「金(カネ)」が全ての時代だ。だが今や、それ以前の時代の最後の伝説「セルノグラツの狼」が、「現実」として姿を現した。
(i)「あの女、死ぬんじゃないかと思いますわ」と男爵夫人は客のところへかえってから言った。やがてなにか裂けて倒れる音が聞こえたので、男爵が「しっ!ほかの音がするがなんだろう」と言った。それは庭で樹の倒れる音であった。
(i)-2 一瞬、不自然な沈黙が全員を襲った。すると銀行家の妻が口を切った。「あまり寒いので樹が裂けるんです。あんなにたくさん狼があつまるのだって、寒さのせいですわ。」この意見を、男爵夫人は熱心に支持した。そしてまた男爵夫人にとっては、老女に心臓麻痺を起させたのも、やはり窓を開け放しておいた寒さのせいだった。
《感想》「セルノグラツの狼」の伝説は「呪術」(Zauberung)の時代に生きた老女シュミットにとっては「真」であり、「合理化」と「呪術からの解放」(Entzauberung)の時代に生きる男爵、男爵夫人、銀行家にとっては「偽」である。
(16)「セルノグラツの狼」
(a) ハンブルグの裕福な商人であるコンラッドが「この城には、なにか古い伝説でもあるのかい?」と、妹のグルウベル男爵夫人にたずねた。「こんな古い家には伝説がついてまわるものよ。伝説なんてわけなく作れるんだから。この城で誰かが死んだら、村中の犬と、森じゅうの獣が、夜じゅう吠えるって話があるわ」と男爵夫人が答えた。
《感想》男爵夫人は「この城で誰かが死んだら、村中の犬と、森じゅうの獣(狼)が吠える」という伝説を「作り話」だと信じない。
(b)「この城を買ってここに移って、去年、義母(カア)さまが亡くなった時、犬も獣(狼)も吠えなかったわ。」「城の伝説なんて、もったいをつけようという作り話よ」と男爵夫人が言った。
《感想》ただしこの場合、死んだ者は、この城のもともとの持主でない。城を買って後から移り住んだ者だ。
(c)その時、白髪の女家庭教師のアマリイが言った。みんながふりかえって、びっくりして彼女を見つめた。彼女はいつも黙っていて口を開くことなどなかったからだ。「吠え声が聞こえるのは、この城の先祖伝来の所有者のセルノグラツ家の者がここで死ぬときです。何十頭という狼が現れて吠え、それにおびえて村中の犬が吠えます。そして死んでゆく人の魂が肉体を離れる時、お庭の樹が裂けて倒れます。」
《感想》「村中の犬と、森じゅうの獣(狼)が吠える」のは、この城の先祖伝来の所有者の「セルノグラツ家の者」がここで死ぬときだと、白髪の女家庭教師のアマリイが言った。だがどうして、そのようなことを知っているのか。
(d)男爵夫人は、分不相応な地位からのさばり出て、こんな無礼極まりないことを言う見すぼらしい老女を、怒って見すえた。「あなたはセルノグラツ家の伝説をよく知っているらしいわね。専攻の学問の中に、家の伝説まで入っているとは知りませんでしたよ。」
《感想》男爵夫人は、使用人である老家庭教師を侮辱した。
(e)この侮辱に対して家庭教師のシュミットが言った。「わたくしはセルノグラツ家のものでございます。ですからこの一家の伝説を知っているのでございます。私は祖父と父とこの城に住み、お城の伝説を何度も聞かされました。」誰もが驚いた。「零落いたしまして、家庭教師の仕事をするようになって、名前を変えました。こちら様に勤めさせていただく時、まさか自分の一家のお城に参るとは考えも致しませんでした。ここにだけは参りたく、ございませんでした。」
《感想》驚くべき事実!だが男爵夫人も男爵も、このような老シュミットの発言を信じないだろう。
(f)やがて老女が部屋を出ると、嘲笑と不信の渦が巻き起こった。①男爵が「あんな話はひとことだって信じやせん百姓どもと話していて伝説や物語を聞き出したんだろう」と言った。②男爵夫人が言った。「自分にもったいをつけたいんですよ。近いうちにお払い箱になると知って、同情を引きたいんですよ。」そしてさらに言った。「正月のお祝いがすんだら、すぐ暇を出しますわ。」ただし「それまでは忙しくて、あれがいないとやってゆけませんから。」
《感想》老家庭教師シュミットへの侮辱、蔑み、身分をわき目ない事への憤懣、悪意など、男爵と男爵夫人の反応は、このヴィクトリア朝の時代、つまり「合理化」と「呪術からの解放」(Entzauberung)の時代、「金(カネ)」が全ての時代では、普通のことだろう。
(g)クリスマス後、厳しい寒さが襲い、老シュミットは重い病気にかかった。客たちが暖炉を囲んでいたとき、男爵夫人が「うちじゅうお客さまがいっぱいのこの時期に、病気で倒れられるのはやはり困る」と言った。「さぞお困りでしょう」と銀行家の妻が応じた。「今年の寒さほどひどいのは覚えがない」と男爵が言った。
《感想》老女シュミットは、男爵夫妻にとって、確かに有能な使用人だった。
(h)その時、男爵夫人の狆(チン)が怯えて、震えながらソファの下に潜り込んだ。城の庭で犬どもが吠えはじめ、遠くで多くの犬が吠える。犬どもを恐怖と怒りに駆りたてたのは、狼の咆哮だった。「おびただしい狼の群だ」とハンブルグの商人コンラッドが言った。
(h)-2 男爵夫人は、自分でも説明できない衝動にうながされ、老女の寝ている部屋に行った。窓は開け放してあった。「開けたままにして」と老女が言った。男爵夫人が「寒さで死んでしまいますよ」と言うと、老女が言った。「どっちにしましても死ぬんでございますよ。あの声が聞きたいんでございます。狼どもはわたくし一家の死の歌を歌うために、方々からきたのでございます。来てくれて、ほんとによかった。わたくしが、なつかしいお城で死ぬセルノグラツ家の最後のひとりですもの。」そして「出て行って下さい」と彼女は男爵夫人に言った。「わたくし、もう淋しくはございませんから、古い、偉大な家柄のものですもの。」
《感想》「古い、偉大な家柄」であるセルノグラツ家の最後のひとりである者に、「死の歌」を歌うため、狼どもが方々からきて悲しみの咆哮をする。今は「合理化」と「呪術からの解放」(Entzauberung)の時代、「金(カネ)」が全ての時代だ。だが今や、それ以前の時代の最後の伝説「セルノグラツの狼」が、「現実」として姿を現した。
(i)「あの女、死ぬんじゃないかと思いますわ」と男爵夫人は客のところへかえってから言った。やがてなにか裂けて倒れる音が聞こえたので、男爵が「しっ!ほかの音がするがなんだろう」と言った。それは庭で樹の倒れる音であった。
(i)-2 一瞬、不自然な沈黙が全員を襲った。すると銀行家の妻が口を切った。「あまり寒いので樹が裂けるんです。あんなにたくさん狼があつまるのだって、寒さのせいですわ。」この意見を、男爵夫人は熱心に支持した。そしてまた男爵夫人にとっては、老女に心臓麻痺を起させたのも、やはり窓を開け放しておいた寒さのせいだった。
《感想》「セルノグラツの狼」の伝説は「呪術」(Zauberung)の時代に生きた老女シュミットにとっては「真」であり、「合理化」と「呪術からの解放」(Entzauberung)の時代に生きる男爵、男爵夫人、銀行家にとっては「偽」である。