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上原隆(1949-)「テレビドキュメンタリーのその後」『雨にぬれても』(2005年):みんな大変だと思う。楽な人はいないと思う。

2018-01-30 20:57:18 | 日記
(1)
「カメラのニシダ」(さいたま市)、1998年倒産。従業員31人。
従業員たちが、店を自分たちで管理。これがテレビのドキュメンタリー番組に取り上げられた。
自主管理に参加したのは15人。リーダーは川野辺勇次(51歳)。
店を赤羽駅前に移し、メンバーは7人へ。(番組は、ここまでだった。)
この頃から、日本中が不景気になる。

《感想》
自主管理は、会社の経営そのものだ。(資金繰り、販路開拓、労務管理等。)大変な仕事だ。
確かに、これまで、社長がいなくても会社が動いていた。
だから自主管理が可能に見える。
だが、道は困難であり、自主管理開始の時、参加した従業員は、半数15人にすぎなかった
それが、さらに、7人に減ってしまった。茨の道だ。

(2)
その後、どうなっているのだろうかと、著者が、6年後、2004年、赤羽駅前店を訪れる。
だが店は、移転していた。
大宮駅西口で、こじんまりした写真店「カメラのニシダ」になっていた。
川野辺が、「赤羽店は家賃が高いので、こちらに移転した」と言った。
赤羽駅前店は従業員7人だったが、今は、パートの女性と川野辺2人だ。

《感想》
具体的には、実家の家業を継ぐために帰った人、定年になった人、収入が少ないとやめた人など、参加する従業員が減った理由は様々だ。
自主管理への不安が、そもそも大きいのだ。

(3)
「それぞれ都合があって、やめていったんだから仕方がない」と川野辺。
従業員として働いていた時、川野辺の給料は48万円。
自主管理では一律25万円と半減。(1998年)
川野辺は、子どもが3人いて(24歳、21歳、12歳)、教育費が大変だった。

《感想》
1997ー98年は金融危機の年、その後、就職超氷河期がくる。
1991-2010年まで日本経済は「失われた20年」だ。
リストラの嵐が吹き、非正規雇用が激増し、日本的経営が崩壊する。
川野辺氏と似た倒産・リストラ経験が、たくさんあった。

(3)ー2
経営者に雇われていた時と、自主管理で、何が変わったか?川野辺が答える。
「サラリーマンの時は、気楽だった。それなりに仕事すれば、給料がもらえた。」
「今は、そういう感じからは脱皮した。自分の置かれている立場、足元が、よく見えるようになった。」
また今の店について、川野辺が言う。
「毎日10時間以上、仕事してるし、ある程度楽しくやりたい。」
「明るくてニギニギシイ感じの店にしたい。」

《感想》
「一国一城の主(アルジ)」は、自己責任であり、サラリーマンの時より、「自分の置かれている立場、足元」をよく観察し把握する必要がある。
他方で、自分に忠実に仕事を進める余地が大きい。楽しそう。

(4)
突然の倒産と自主管理の経験は、川野辺をどんなふうに鍛えたか?
「倒産してから学んだことは、そうね、あまりふてないっていうことかな。」
「ダメだ、ダメだっていってると、本当にダメになっちゃう。だから、すぐに次のことを考えるっていう姿勢が身についたね。」

《感想》
「冬来たりなば春遠からじ(フユキタリナバハルトオカラジ)」。そう思いたい。
人生、「七転び八起き」だ。頑張るしかない。
「艱難汝を玉にす( カンナンナンジヲタマニス)」と言う。自分を鍛え上げる!

(4)ー2
だが、当時、大宮駅周辺は、ビックカメラが進出する直前だった。
「それに対してこまわりをきかして対抗していかなきゃならない。」「みんな大変だと思う。楽な人はいないと思う。」と川野辺。
同時に、「それを克服するプロセスが楽しいんじゃないかな。」とも言う。                     
最後に、川野辺が、言った。「希望をもってやっていくよりほかに、ないんだよ。」  

《感想》       
「どんなに暗い夜でも明けない夜はない」と思ってやり抜く。
「災い転じて福となす」となれば、ラッキーだ。
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1 Comments

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川野辺部長 (KK)
2019-06-16 14:39:11
ネットサーフィン中懐かしい名前を見つけて、
寄らさせて頂きました。
川野辺氏に、倒産前のカメラのニシダで御世話になった者です。当時は部長でした。
川野辺さんは大宮のビックカメラ近くの店舗を閉鎖された後(デジカメの時代が来るとは)2010年に癌で亡くなられました。
「現像屋は赤鉛筆一本で創められる」が口癖で、そのうち独立してやるんだ、と言ってました。そういう意味では夢は適えられたのかな、と思います。
ご冥福を祈ります。

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