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松尾正(1954-)「『デカルト的省察』(E・フッサール)と精神分裂病者――他者の〈二重の二重性〉と分裂病者の現出に関する一試論――」(その5):「事物様対象」として我々に与えられる「分裂病者」!

2021-10-31 12:57:40 | 日記
※新田義弘・宇野昌人編『他者の現象学Ⅱ:哲学と精神医学のあいだ』北斗出版、1992年所収

第5節「分裂病者の前の私自身の不自由」
(5)「絶対的な外部性」である《他なる超越論的主観性》!「事物様対象」としてわれわれに与えられる「分裂病者」!(77-79頁)
E 「明証的に直観可能な《事物様対象》」としてわれわれに与えられる「分裂病者」は、結局「第3の道が塞がれている」こと、つまり「絶対的な外部性」(※他なる超越論的主観性)としてわれわれに「分裂病者」が与えられないことを、意味する。(77-78頁)

《感想1》ここで「絶対的な外部性」とは、《超越論的な他我》(他なる超越論的主観性)ということだ。
《感想1-2》「絶対的外部性」である他者は、「われわれ」によって包摂されないし、包摂されてはならないのだ。フッサールほど、「第3の道」の存在、つまり「自我にとって決して根源的に与えられぬ他者の絶対的超越性」というものに気づいていた者はいなかった。(77頁)
《感想1-3》評者の私見では、「絶対的他者性」が「絶対的」であるとは、無条件に「心的生活を生起させる《物》」(「他なる身体」or他なる超越論的主観性)が存在するように「この世界が出来ている」ことだ。
《感想1-3-2》この「他なる身体」は「自他未分化的に未分離な《一者》である心的生活が生起する」こと(《心的共感》or「感情移入」)によって生じる。Cf. この場合、もちろん同時に「私の身体」となる《物》も生じる。
《感想1-3-3》すでに述べたが、直接の出会いのうちで、一方で相手の息づかい、ぬくもり、表情等(以上は他人の身体)が根源的に呈示され、実は他方で喜び・慰め等も、《他人の心的生活かつ私の心的生活である》ような一体的生起として、つまり《一者》として生じており、この限りで(※評者の私見では)「根源的に呈示」され、「確かに『それ自身そこに』・・・・あるものとして意識されている」。
 
《感想2》《直接の出会い》においては、「他人の心的生活」が「それ自身現在するもの」として、「私の心的生活」と区別しえぬ《一者》として《生起している》。評者の私見では、この場合、他者の「心」(超越論的主観性)が根源的に呈示されるといってよい。(他者の「心」が間接呈示されるのでない。)「他人の心的生活」の根源的呈示は、《心的共感》(フッサールは「感情移入」と呼ぶ)という《一者》的出来事(Cf. 木村の「自他未分化な領域」)において生じる。
《感想2-3》ただしその場合「他人や他人の心的生活」の総体はもちろん「原的に与えられる」(「根源的に呈示される」)わけでない。《直接の出会い》の場合以外は、他者が、根源的に与えられることはなく、ただ《類型的にor地平的に》間接呈示されるだけだ。
《感想2-3-2》言い換えれば、《心的共感》(フッサールは「感情移入」と呼ぶ)という《一者》的出来事において根源的に呈示される「他人の心的生活」も「地平」を持つ、つまり類型的に与えられる。
《感想2-3-3》この場合、「地平現象」が可能なのは、「他人の心的生活かつ私の心的生活である」ところの「一体的生起(《一者》)」という出来事が現に生じており、この限りで「他人の心的生活」が「根源的に呈示される」からだ。

《感想3》「分裂病者」においては、《心的共感》(フッサールは「感情移入」と呼ぶ)という《一者》的出来事(Cf.木村の「自他未分化な領域」)が生じないので、「他人(分裂病者)の心的生活」の根源的呈示がなされない。(「絶対的な外部性」としてわれわれに「分裂病者」が与えられない。)かくて、「分裂病者」は「事物様対象」として与えられる。
《感想3-2》「他人(分裂病者)の心的生活」の根源的呈示がなされないことは、「分裂病者」が「絶対的な外部性」(他なる超越論的主観性)として、われわれに与えられないということを意味する。
《感想3-2-2》ただしここで「絶対的」とは、「他」であること、あるいは「外部性」ということだ。
《感想3-3》「他」であり、あるいは「外部性」である、つまり「絶対的な外部性」である《他なる超越論的主観性》(=「他人の心的生活」=《他者の「心」》)が、根源呈示されることがなければ、《他なる超越論的主観性》の(矛盾的だが)「絶対的な外部性」が気づかれることはない。
《感想3-3-2》なお「事物」は根源呈示される。

E-2 「我々の前の分裂病者」は「生き生きした絶対的未来性」(※他なる超越論的主観性)としてわれわれ自身の存立根拠において到来せず、我々自身の自由を生き生きと賦活しえない他者(=「事物様的対象」)だ。(78頁)
E-2-2 「われわれ自身の絶対的未来」として、「匿名的な『原初的差異』の『超越論的媒体機能』」として「接する」(Fulung:フッサール)他者とは、その他者を前にした我々に新鮮な風を吹き込む「通風孔」だ。(78頁)
E-2-3 我々は「分裂病者」を前にしてはじめてそこに「通風孔」という特別な他者との接触性、つまり「《第2の二重性》が与えられる《第3の道》」があったことを知るが、気づかれた瞬間にはそれは「塞がれて」しまっている。(78頁)
E-2-4 分裂病者は、「塞がれた通風孔」だ。つまり「分裂病者」は「事物様対象」として、われわれに与えられる。(77-78頁)
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松尾正(1954-)「『デカルト的省察』(E・フッサール)と精神分裂病者――他者の〈二重の二重性〉と分裂病者の現出に関する一試論――」(その3):「新たな間接的呈示」と「普通の間接的呈示」!

2021-10-30 10:45:36 | 日記
※新田義弘・宇野昌人編『他者の現象学Ⅱ:哲学と精神医学のあいだ』北斗出版、1992年所収

第3節「『デカルト的省察』再考」
(3)『デカルト的省察』第5章は、この「失敗」した試みにおいて、「決して明るみに出ることがない他者の暗闇の明証的な与えられ方」というもの(つまり「第2の二重性の与えられ方」)を明らかにした! (70頁)
C フッサールの『デカルト的省察』第5章は、「目に見えぬ暗黒の他者の明証性」(第2の二重性) を、「目に見える明証性の明るみ」(第1の二重性)へと引きずり出そうとする試みだった。つまり「第2の二重性」を「第1の二重性」のなかに吸収しようとする「自我論的理念」に支えられた試みであった。(70頁)
C-2  フッサールはこの試みに「失敗」するが、この「失敗」は、「成功として肯定的に評価されねばならない」。(70頁)
C-2-2 すなわち、この「失敗」した試みによって、「決して明るみに出ることがない他者の暗闇の明証的な与えられ方」というもの(つまり「第2の二重性の与えられ方」)がその位置と機能において明らかにされたからだ。(70頁)

(3)-2 『デカルト的省察』第5章の「他者(他我)構成」論における「新たな間接的呈示」は、「単なる普通の間接的呈示」でなく、「決して根源的に提示されざるもの」の間接呈示だ!(70-73頁)
C-3 フッサールの試みは「暗闇に潜む他者の他者性」を「純粋な自我の明るみ」において照らし出す試みだ。しかしフッサールはその「他者の暗闇」を「自我の明るみ」のなかで抹殺しようとしたのでない。(70頁)
C-3-2 すなわちフッサールが『デカルト的省察』第5章の「他者(他我)構成」論で持ち出してきた「間接的呈示」は、「単なる普通の間接的呈示」ではなく、「決して根源的に提示されざるもの」の間接呈示だ。(70-71頁)
C-3-3  このフッサールの「新たな間接的呈示」(Neue Appräsentation)(『デカルト的省察』第5章)においては(71頁)、「根源的に呈示されるもの」(第一次領域における内在的超越としての身体物体)(72頁)と、間接的に呈示される「根源的に呈示されぬもの」(他者の生ける身体性)(※つまり他我=他なる超越論的主観性=他者の《心》)が、決して統一体として一つの明証的な意味をなさない。(73頁)
C-3-3-2 フッサールの「他者(他我)構成」論においては、「他者の生ける身体性」(※他者の《心》)が、根源的に呈示される「そこ」にある身体物体(※他者の身体)の背後で、「ここ」にいる私自身の対化的連合(Paarende Assoziation)によって、「私自身にとっての第二の生ける身体」(※他者の《心》)として間接的に構成される。(73頁)
C-3-3-3 この場合、「間接的に構成された生ける身体」(※他者の《心》)という意味は、私にとっては「根源的に呈示されうる可能性がない」。つまり「他者の生ける身体」(※他者の《心》)は、私に対する「絶対的超越性」を持つ。(73頁)
C-3-3-4 つまり「根源的に呈示された単なる物体身体」(※他者の身体)は、決して「間接的に呈示された生ける身体」(※他者の《心》)という意味を、「根源的明証性」のなかで受け取ることができない。(73頁)

(3)-3 「単なる普通の間接的呈示」あるいは「通常の意味における間接呈示」:「根源的に呈示されるもの」にその「地平」的な意味を与える!(73-74頁)
C-4  「通常の意味において間接的に呈示されるもの」は、それが「極限理念として十全的明証性(※イデアとしての意味形象)を目標としうる根源的呈示可能性を有する」が故に、それは間接的に呈示されうるのであり、「根源的に呈示されるもの」にその「地平」的な意味を与えうる。(73頁)
C-4-2  すなわち「通常の意味において間接的に呈示されるもの」は、「私の脱パースペクティブ化的運動能力に理念的に対応しうるもの」であるがゆえに、「地平現象として間接的に呈示されうる」。(73頁)

(3)-4「新たな間接的呈示」において、「根源的に呈示される可能性をはじめから喪失したもの」(「間接的に呈示された生ける身体」※他者の《心》)は、「根源的に呈示された対象」(※他者の物体身体)の「絶対的な未知性」として、その対象の「意味地平」から排除されねばならない!
C-5 「新たな間接的呈示」(Neue Appräsentation)において、「根源的に呈示される可能性をはじめから喪失したもの」(「間接的に呈示された生ける身体」※他者の《心》)は、万が一、間接的に呈示されたところで(これはありえない仮定であるが)(※しかしこれが、フッサールが『デカルト的省察』第5章で試みた「他者(他我)構成」論だ!)、その呈示すべき意味を「根源的に呈示された対象の地平的意味として与えることはできない」。(73-74頁)
C-5-2 かくて「新たな間接的呈示」において、「根源的に呈示される可能性をはじめから喪失したもの」(間接的に呈示された[他者の]生ける身体、※他者の《心》)は、「根源的に呈示された対象」(※他者の物体身体)の「絶対的な未知性」として、その対象の「意味地平」から排除されねばならない。(74頁)

(3)-5 「第2の二重性」として私に与えられる「絶対的他者性」(つまり新田の言う「超越論的媒体機能」としての他者性)!(74-75頁)
C-6  かくて「第2の二重性」として私に与えられる「絶対的他者性」(つまり新田の言う「超越論的媒体機能」としての他者性)は、「地平現象」としてではなく、「地平制約的な根源的匿名的な機能」として、「地平現象とは別の根源的次元」において、私にその「私自身の存立根拠」として「与えられる」。(74頁)

《感想1》だが「絶対的他者性」はどのようにして「与えられる」のか?つまり「地平制約的な根源的匿名的な機能」とはどのようなことか?
《感想2》「他人や他人の心的生活は、確かに『それ自身そこに』、しかも他人の身体と一緒になってそこにあるものとして意識されているが、しかし、他人の身体が《原的に与えられたもの》として意識されるのと同じようには意識されないのである。」(フッサール『イデーンⅠ-1』)(62頁)
《感想2-2》評者の私見では、フッサールは「他人や他人の心的生活は、確かに『それ自身そこに』・・・・ある」というのだから、実は「他人や他人の心的生活」も他人の身体と同様に「《原的に与えられたもの》として意識される」、「根源的に呈示される」ことがあると考えるべきだ。新田氏は「絶対的他者性」をだから、「地平制約的な根源的匿名的な機能」と呼ぶのだ。「根源的に呈示される」ことなしに、「他者」が、《「自我」と同等の権利をもつ「他我」だ》と気づかれるはずがない。
《感想2-3》すでに述べたが、直接の出会いのうちで、一方で相手の息づかい、ぬくもり、表情等(以上は他人の身体)が根源的に呈示され、実は他方で喜び・慰め等も、《他人の心的生活かつ私の心的生活である》ような一体的生起として、つまり《一者》として生じており、この限りで「根源的に呈示」され、「確かに『それ自身そこに』・・・・あるものとして意識されている」。
《感想2-3-2》ここでは「他人の心的生活」が「それ自身現在するもの」として「私の心的生活」と区別しえぬ《一者》として《生起しているor体験される》ことは、他者の「心」(※他なる超越論的主観性)が根源的に呈示されるといってよい。(間接呈示されるのでない。)「他人の心的生活」の根源的呈示は、《心的共感》(フッサールは「感情移入」と呼ぶ)という《一者》的出来事(木村の「自他未分化な領域」)だ。
《感想2-3-3》ただしその場合「他人や他人の心的生活」の総体はもちろん「原的に与えられる」(「根源的に呈示される」)わけでない。
《感想2-3-3-2》この場合、根源的に呈示される《一者》的出来事としての「他人の心的生活」も「地平」を持つ、つまり類型的に与えられる。この場合、地平現象が可能なのは、「他人の心的生活かつ私の心的生活である一体的生起(《一者》)」という出来事が生じており、この限りで他人の心的生活が「根源的に呈示される」からだ。

《感想3》私見では、そもそも《物》は、《触覚》という出来事、つまり《相互に他なる抵抗の出現》の出来事、つまり抵抗し合う《境界面》の生起の出来事だ。
《感想3-2》《物》の世界は《境界面》で二分される。一方の《物》は、感情・欲望・意図等の「心的生活」に対応して動くところの「第一次領域における内在的超越としての身体物体」(自己身体)だ。他方の《物》は、単なる《他》なる物体だ(単なる物体)。
《感想3-3》ところが「単なる物体」の中から「特別な物体」(※他人の身体)が出現する。直接に接触して《境界面》を生起させる他方の《物》において、息づかい、ぬくもり、表情等(以上は他人の身体)が「根源的に呈示される」とともに、同時に他方で喜び・慰め等(「心的生活」)が、他の物体の息づかい、ぬくもり、表情等と同時に、《一者》的に、つまり「《私の心的生活かつ他なる物体の心的生活》が自他未分化的に未分離の状態で」生じる。この場合、相互に他なる「物」(単なる物体)も、「自他未分化的に未分離な《一者》である心的生活」も「根源的に呈示」される。
《感想3-3-2》「根源的に呈示される《一者》である心的生活(超越論的主観性)」という出来事が起こる《超越論的主観性の領野》=《超越論的相互主観性の領野》=《超越論的モナドの全体》は3分される。
《物》世界が「相互に他なるもの」として二分されることから、①「私の《物》領域(私の身体)を含む心的生活(超越論的主観性)」と、②「自他未分化的に未分離な《一者》である心的生活を生起させることが可能な《物》領域」(他なる身体)を含む心的生活(超越論的主観性)」、さらに③「自他未分化的に未分離な《一者》である心的生活を生起させることが《不》可能な《物》領域(「裸のモナド」あるいは「眠れるモナド」)」(単なる《物》)に3分されるに至る。

《参考1》E.HUSSERL『間主観性の現象学Ⅲ その行く方』(ちくま学芸文庫)「第1部自我論」
「一三 自我-意識-対象と裸のモナド」:原典タイトル「その一般構造におけるモナド(1921年6月)」(全集第14巻、付論4)(222-231頁)
訳注[35] 「裸のモナド」あるいは「眠れるモナド」とは、非生物の段階のモナドである。もっとも不明瞭、不鮮明な表象能力の段階のモナド。

《参考2》E.HUSSERL『間主観性の現象学Ⅲ その行く方』(ちくま学芸文庫)「第4部 他者と目的論」
「三一 モナドと目的(テロス)――誕生と死」:原典タイトル「モナド論(1930年代初め)」(全集第15巻付論46)(515-521頁)
★「無意識的なもの、意識の沈殿した根底、夢のない眠り、主観性の誕生形態、もしくは誕生以前の問題にされる存在、死と『死後』の問題にされる存在」、これら「潜在的存在」は、「覚醒」した「顕在的存在」(すなわち「根源的な」存在)の「志向的変容」である。(515-6頁)
★「潜在的存在」については、「この存在領分の全体が、一種の再構築の存在領分である――すなわち、顕在的なものから潜在的なものへと、その変様をたどりつつ遡っていく」(516頁)
★「人間から動物、植物、最下層の生物、新しい物理学の原子構成へと送り返される」ような考察!(517頁)
★「沈殿という理念」(518頁)
(一)「根源的に本能的なコミュニケーションのうちにある複数のモナドの総体性」。「眠れるモナドたち」。(518頁)
(二)「眠れるモナドたちという背景をともなって、覚醒するモナドたちと覚醒における発展。」(518頁)
(三)「世界を構成するものとしての人間のモナドたちの発展。・・・・モナドたちが理性的な自己意識・人類意識へと至り、世界理解へと至る等々。」(518頁)
★「モナドは始まることも終わることもできない。超越論的モナド全体は自己自身と同一である。」(518頁)
★「系統発生的発展に対応する過程全体が、誕生へ至るすべての生殖細胞モナドのうちに沈殿している。」(519頁)
★(ア)「モナド全体、すなわちモナドの全一性は、無限に高まりゆく過程のうちにあり、この過程は必然的に、眠れるモナドから顕在的モナドへの発展の恒常的過程であり、モナドのうちで繰り返し構成される世界への発展の過程である・・・・。」(519頁)
(イ)「こうした世界構成は、つねにより高い人間性と超人間性の構成なのであって、そこにおいて、全体が自己自身の真なる存在を意識するようになり、“理性ないし完全性の形態へと自由に自己自身を構成していく存在”という形態をとるのである。」(520頁)
(ウ)「神は・・・・モナド全体のうちに存している完成態(エンテレヒイ)であり、無限の発展すなわち絶対的理性に基づく『人間性』の無限の発展の目的(テロス)という理念として・・・・ある。」(520頁)
★「死からは、誰も呼び覚まされることはできない。」(520頁)
★「普通の意味での不死性はありえない。しかしすべてのモナドと同様、人間は[別の意味では]不死であり、神性の自己実現過程への参与は不滅であり、一切の真なるものと善なるもののうちで作用し続けていくことは不滅である。」(521頁)

《感想4》かくて「絶対的他者性」のうち「他者性」は次の(ア)(イ)(ウ)によって成立する。(ア)《物》は、《触覚》という出来事、つまり《相互に他なる抵抗の出現》の出来事であることから、「他」性が出現することによって、そして(イ)「物」において《境界面》の一方が感情・欲望・意図等の「心的生活」に対応して動く「身体物体」となることで「自性」が出現することによって、さらに(ウ)ある特別な「物」(※これが「他なる身体」となる)において、「自他未分化的に未分離な《一者》である心的生活を生起させる」ことによって「他なる身体」という「物」が出現することで、成立する。
《感想4-2》ただし「絶対的他者性」の成立根拠である(ア)(イ)(ウ)は「他者性」の成立根拠だ。
《感想4-3》「絶対的他者性」が「絶対的」であるのは、(エ)「心的生活を生起させる《物》」(※他なる超越論的主観性)が存在するようにこの世界が出来ているということだ。言いかえれば「自他未分化的に未分離な《一者》である心的生活を生起させる」ことによって「他なる身体」となるような《物》(※他なる超越論的主観性)が存在するようにこの世界が出来ているということだ。

《参考3》E.HUSSERL『間主観性の現象学Ⅲ その行く方』ちくま学芸文庫「第2部モナド論」
「一四 自我論(Egologie)の拡張としてのモナド論(Monadologie):原典タイトル「事物の超越に対する他我(alter ego)の超越。超越論的自我論の拡張としての絶対的モナド論。絶対的世界解釈(1921年1月/2月)」(全集第14巻、テキスト13番)」(231-278頁)
★「絶対的な考察においては、絶対的形式における複数のモナドは、このモナドの純粋自我主観が原創設する能動性によって絶対的に結合されている。他方においては、それらモナドは、その受動的基盤に関して、その絶対的結合をもち、受動的形式における絶対的相互規定をもっている。この受動的形式とは、すなわち絶対的かつ受動的な因果性である・・・・。」(275頁)
★「複数のモナドの交流それ自体も、基づけられた発生の本質法則をもち、意識的な交流、すなわち社会的共同体(絶対的なるもの、すなわちモナド的なものへと移されている)は、その歴史および歴史の本質法則をもっている。」(276頁)
★「複数のモナドが共可能的であるのは、それらが発展の法則にくまなく支配され、この法則にしたがって一義的に規定された一つの全体、すなわちそのすべての位相が予描されているような共同体的発展の一つの全体としてのみだということ」、これを示すことが、当面の課題である。(276頁)
★「この共同体的発展は、
[1]世界がその発展において客観的世界として構成され、
[2]客観的な生物学的発展が起こり、それとともに動物と人間が客観的存在として登場し、
[3]人間が真の人類史を構成するように努力することに向けて客観的に発展していく
というようにしてのみ可能である。」(276-7頁)

《参考4》E.HUSSERL『間主観性の現象学Ⅲ その行く方』ちくま学芸文庫「第3部 時間と他者」
「二四 再想起と感情移入の並行性:原典タイトル「感情移入について:すでに感情移入の合致により、他者は、世界客観であることと共同主観であることが一つになっている。再想起と感情移入の並行性。再想起からして我(エゴ)に疑いの余地がないこと。他者(アルター)ないし共同主観の宇宙に疑いがないことの持つ問題(1932年1月27・29日)」(全集第15巻テキスト28番)」(443-461頁)
★「再想起による自己自身との合致(自己自身との共同体としてのもっとも根源的な自我-共同体)」と、「感情移入による、すなわち共現前 [※間接呈示]化による他者との合致(通常の意味での一人の他者と、そして多くの他者とのすべての共同体の基盤としてのもっとも根源的な他者との合致)」とのあいだには、必当然性に関して、本質的な違いがある。」(452頁)

C-6-2 「地平制約的な他者(※「絶対的他者性」)を地平現象的な他者性へと組み入れようとしたフッサールのの試みは、その試みの不可能性を証示することによって、逆に両者が厳密に区別されねばならない別次元の出来事であることを明らかにした。」(75頁)
《参考》「第2の二重性」として私に与えられる「絶対的他者性」(つまり新田の言う「超越論的媒体機能」としての他者性)は、「地平現象」としてではなく、「地平制約的な根源的匿名的な機能」として、「地平現象とは別の根源的次元」において、私にその「私自身の存立根拠」として「与えられる」。(74頁)
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映画『たこ焼きの詩』(2015年):おカネに苦労しながらも、母親と娘が思いやりを持って暮らす!

2021-10-29 09:02:32 | 日記
(1)舞台は大阪、澤田花梨(カリン)は中学2年生。野球部でセカンドを守る。父はDJだったが交通事故で数年前、亡くなった。母澤田みほはダンサーだったが、今は、たこ焼き屋「やん」(インド人が経営)に勤め、たこ焼きを焼く。
(2)母の収入は少ない。母子は団地の5階に住む。だが花梨の家には「DVDプレーヤー」がなく、友達から借りたDVDを見ることができない。花梨は6人のアカペラアイドルグループ「パーマネントフィッシュ」のファンだが、そのDVDがを見ることができない。また修学旅行の積立金も払えない。
(3)母親みほは、頑張って早出もして働き稼ぐが、過労気味だ。一日中立ち仕事の母親の足を、夜、もむ。そんなある日、母が勤めるたこ焼き屋に、そのアカペラアイドルグループが来て、母は色紙を書いてもらい花梨にわたす。花梨はとても喜ぶ。
(4)インド人経営者である事と、母みほの焼く美味しいたこ焼きで、たこ焼き屋「やん」は評判となり、テレビ番組で取り上げられる。お店の売り上げが増え、ある日、経営者のインド人ボスが、1万円のスンシ(寸志)を、みほに渡す。みほは喜び、花梨のために「DVDプレーヤー」と、これまで家になかった「扇風機」を買って帰る。
(5)同じ日、花梨は、戸田の伯父さんの頼みで、草野球チームの助っ人となり、試合に出る。ランニングホ-ムランを花梨が打って、伯父さんのチームが勝つ。伯父さんが、「御褒美になんでも買ってあげる!」と花梨に言う。花梨は、母のために「足マッサージ機」を買ってもらう。
(6)その夜、母みほは、買ったばかりの「DVDプレーヤー」と「扇風機」を花梨に見せる。涼しい扇風機!そして「パーマネントフィッシュ」のDVDを見て、花梨は喜ぶ。その時、花梨は、母に「足マッサージ機」をプレゼントする。母みほは、嬉し泣きする。

《感想1》おカネに苦労しながらも、母親と娘が思いやりをもって暮らす。これからも二人の健闘、健康、幸福を祈りたい。
《感想2》家電ブランド「YAMAZEN」の紹介ムービーがもとになっているので、「DVDプレーヤー」・「扇風機」・「足マッサージ機」が登場する。

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松尾正(1954-)「『デカルト的省察』(E・フッサール)と精神分裂病者――他者の〈二重の二重性〉と分裂病者の現出に関する一試論――」(その2):「分裂病者の事物様現出」と「他者」把握の誤謬!

2021-10-28 16:49:04 | 日記
※新田義弘・宇野昌人編『他者の現象学Ⅱ:哲学と精神医学のあいだ』北斗出版、1992年所収

第2節「現象学的精神病理学の根本的な誤謬」
(2)「他者現象の第1の二重性」を見落とす:現象学的精神病理学においては、「他者」が「知覚可能な事物的存在者」に還元されてしまっている!これは「分裂病者の事物様現出」に由来する!
B 現象学的精神病理学は「他者現象の第1の二重性」、つまり「物体としての他者の身体」と「他者によって生きられる身体」がないかのように扱う。これは「根本的な誤謬」だ。
B-2 例えば(ア)ビンスワンガーが「フッサールの意味での本質直観によって、他者の心に生じる出来事の本質を直接的に捉えることができる」と主張する。
(イ)ブランケンブルグは「現象学的還元、つまりエポケーを通じ、原本的な直観によって、他者に固有な超越論的存在様式がわれわれに直接的に現前されうる」と説く。
さらに(ウ)西田哲学に依拠する木村敏は「『気』という自他未分化な領域を通じて、外部知覚される身体という壁を超え、他者における内的現象がそのまま私の内的現象へと翻って自覚的に把握されうる」と「自覚的現象学」を主張する。(65-66頁)
B-2-2  つまり「他者」が「知覚可能な事物的存在者」に還元されてしまっている。これは「他者の他者性」を踏みにじる「独我論的かつ神秘主義的主張」だ。(66頁)
B-2-3  現象学的精神病理学がこうした誤謬に陥った根拠は、「分裂病者の事物様現出」に由来する。(67-68頁)B-2-3-2 「分裂病者の事物様現出」とは、「感情移入しえない」(ビンスワンガー)、「生き生きした接触性の障害」(ミンコフスキー)、「気を通じさせることができない」(木村)などだ。(68頁)

(2)-2 「他者現象の第2の二重性」を見落とす:現象学的精神病理学は、誤って、「匿名的な接触性」を「他者知覚の一般的手段」としてしまった!
B-3 「分裂病者の事物様現出」は「他者現象の第2の二重性」の欠落である。
B-3-2 「他者現象の第2の二重性」とは、「他者は決して明証的には私に与えられぬものとして、私になんらかの仕方で明証的に与えられる」ということ、すなわち「他者とは、新田のいう『原初的差異』(Urdifferenz)として、私自身の究極的な超越論的媒体として、私によって『生きられるアノニミテート』(新田)である」ということだ。(68頁)
B-3-3 「分裂病者の事物様現出」において、普段は「匿名的に生きる」だけの、「匿名的な接触性」、「匿名的な媒体機能」が、「障害態という特別な形で意識に浮上する」。
B-3-3-2  現象学的精神病理学は、誤って、この「匿名的な接触性」を「他者知覚の一般的手段」としてしまった。Ex. 「生き生きした接触性という手段を用いて、分裂病者をその生き生きした接触性の障害として知る」(ミンコフスキー)。「気という手段を用いて、分裂病者とは気が通じないことを知る」(木村)。(68-69頁)
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松尾正(1954-)「『デカルト的省察』(E・フッサール)と精神分裂病者――他者の〈二重の二重性〉と分裂病者の現出に関する一試論――」(その1):明証的に与えられぬ他者の存在そのものが、明証的だ!

2021-10-27 19:45:01 | 日記
※新田義弘・宇野昌人編『他者の現象学Ⅱ:哲学と精神医学のあいだ』北斗出版、1992年所収

第1節「他者の二重の二重性」
(1)フッサール:「私」に対する「他者」の「他者性」=「絶対的超越性」=「絶対的外部性」!
A 「他者とは何か」という問いに対しフッサールは次のように答えるだろう。「他者とは私に決して根源的に与えられぬものである」と。(61頁)
A-2 フッサールは「私」に対する「他者」の「他者性」=「絶対的超越性」=「絶対的外部性」を直視した。(61頁)
A-2-2  フッサールは「自我論的哲学」の内部に「絶対的真理」を見出そうとしたことによって、その「自我」の前に「超然と立ちはだかる他者の絶対的外部性」に激突した。(61頁)
《感想1》ここで「私」は超越論的な「私」だ。また「他者」は超越論的な「他者」だ。
《感想1-2》ここで「他者」とは、「自我」と同等の権利をもつ「他我」のことだ。単なる「他なる対象」としての「他者」ではない。
《感想1-3》「自我」は超越論的主観性としての自我であり、「他我」は超越論的主観性としての他我である。

(1)-2 「知覚」:「事物ないし出来事」を「それ自身現在するもの」として把握する!(61頁)
A-3 フッサールは終始、「他者の外部性」(※「他者性」=「絶対的超越性」=「絶対的外部性」)に突き当たった。(61頁)
A-3-2 フッサールによれば、「知覚」とは「事物ないし出来事」を「それ自身現在するもの」として把握する「直観的思向」だ。(61頁)
《感想2》「それ自身現在するもの」として把握するとは、《そのもの》が把握されることであり、《像》ではないということだ。

(1)-3 フッサール:《心的現象》を、《ありのままに直観する》ことはできない!(62頁)
A-3-3 これに対して私は「告知する人物(※他者)をまさに《人格》たらしめている《心的現象》を、《ありのままに直観する》ことはできない。」(フッサール『論理学研究第2巻』)(62頁)
《感想3》だが評者の私見では、「他者」が、《「自我」と同等の権利をもつ「他我」のことだ》と気づくためには、「他者」を「それ自身現在するもの」として把握する「直観的思向」(知覚)が必要だ。

(1)-4 フッサール:「他人や他人の心的生活は、確かに『それ自身そこに』、しかも他人の身体と一緒になってそこにあるものとして意識されている」!(62頁)
A-3-4 「他人や他人の心的生活は、確かに『それ自身そこに』、しかも他人の身体と一緒になってそこにあるものとして意識されているが、しかし、他人の身体が《原的に与えられたもの》として意識されるのと同じようには意識されないのである。」(フッサール『イデーンⅠ-1』)(62頁)

《感想3-2》評者の私見では、フッサールは「他人や他人の心的生活は、確かに『それ自身そこに』、しかも他人の身体と一緒になってそこにあるものとして意識されている」と言うのだから、実は「他人や他人の心的生活」も他人の身体と同様に「《原的に与えられたもの》として意識される」(つまり「知覚」)される(※「間接呈示」されるのでない)と考えるべきだ。そうでなければ「他者」が、《「自我」と同等の権利をもつ「他我」のことだ》と気づかれるはずがない。
《感想3-2-2》直接の出会いのうちで、相手の息づかい、ぬくもり、表情(以上は他人の身体)、喜び・慰め(これは他人の心的生活であり同時に私の心的生活であり、両者が一者として生じている)が、「確かに『それ自身そこに』・・・・あるものとして意識されている」。「他人の心的生活」が「それ自身現在するもの」として(私の心的生活と区別しえぬ一者として体験され)把握されることは「知覚」に相当することといってよい。(間接呈示されるのでない。)「他人の心的生活」の「知覚」に相当すると呼びうるものは、《心的共感》(フッサールは「感情移入」と呼ぶ)と言えるだろう。
《感想3-2-3》ただしその場合「他人や他人の心的生活」の総体はもちろん「原的に与えられる」わけでない。それらは「地平」として類型的に与えられる。

(1)-5 フッサールの明証の概念:明証(Evidez)、十全的明証(Adäquate Evidenz)! Cf. 必当然的明証(Appodiktische Evidenz)!(62頁)
A-4 「明証(Evidez)」:何の疑いもなく、現出者がその現出者それ自身として(※「像」ではない!)そこにあるがままに現出していること、その現出によって現出者が、直観的に現在化され充実されていること、これがフッサールの「明証(Evidez)」ということだ。(62頁)
A-4-2 「十全的明証(Adäquate Evidenz)」:あらゆるものは、ある一つのアスペクト与件としてそのパースペクティヴ性において与えられ、その背後に充実されざる暗い地平的現象(※《として》構造or類型的・イデア的把握)を伴う。つまりあらゆるものは「十全的明証」において与えられることはない。しかしあらゆる現象は、その「十全的明証」を極限理念として「その究極的目標に向けて無限に接近してゆく」(新田)ことができる。(62頁)
A-4-3 Cf. 必当然的明証(Appodiktische Evidenz)」:フッサールにおいて「明証」とは、直観される事象を、決して変わらぬ恒常的な明証性をもって与えられる領域、つまり現象学的還元を通し、「必当然的明証(Appodiktische Evidenz)」において与えられる超越論的自我の領域でのみ取り扱い、その構成を問うことを意味した。超越論的自我が自分で実際見ることのないものについては、いっさい言及しないようにすること、それが超越論的現象学の理念的立場だった。(62頁)

《感想3-2-4》評者の私見では、《直接の出会い》(A. Schutzの「直接世界Umwelt」)のうちで、「他人の心的生活」が「それ自身現在するもの」として把握される、つまり「知覚」に相当すること、あるいは《心的共感》とでも呼ぶべきものが生じる。
《感想3-2-5》その場合「他人や他人の心的生活」の総体(「十全的明証」)はもちろん「原的に与えられる」わけでない。それらは地平として類型的に与えられる。
《感想3-2-5-2》要するに、「他人の心的生活」は、直接の出会いのうちで、「それ自身現在するもの」として把握される、つまり「知覚」に相当する出来事が生じる、あるいは《心的共感》とでも呼ぶべきものが生じる。
《感想3-2-5-3》直接の出会いのうちで《心的共感》(あるいは相互的な「感情移入」)において、「それ自身現在するもの」として把握される「他人の心的生活」は、その背後に充実されざる暗い地平的現象(※《として》構造or類型的・イデア的把握)を伴う。
《感想3-2-5-3》つまり「他人の心的生活」は「十全的明証」において与えられることはない。しかし「他人の心的生活」は、その「十全的明証」を極限理念として「無限に接近してゆく」。そのようにして「他人の心的生活」は「私」によって把握されていく。(評者の私見)

(1)-6 「他者の現象」の二重(※二種類)の二重性:①身体物体性(Körper)と生ける身体性(Leib)!②原信憑として、他者の存在はすでに初めから明証的である!(62-65頁)
A-5 「他者の現象」の二重性①:「私が見ることができる身体物体性(Körper)」と「私が見ることが出来ぬ他者に固有の生ける身体性(Leib)」(※《他者の心=他なる超越論的主観性》)との隔たり。(63頁)
A-5-2  すなわち、「視点に対する視像としての《物体性》」と「その視像として照らし出されざる《暗闇》(※他者の心)」という他者の「第1の二重性」。(65頁)

A-6 「他者の現象」の二重性②:これは「他者一般のアプリオリな明証性」あるいは「他者実在の絶対的な確証性」のことだ。一方で私に「明証的に外部知覚される物体」について、他方で私は「その物体が目に見えぬ他者(《他者の心=他なる超越論的主観性》)に属する身体であると明証的に確信する」。「原信憑として、他者の存在はすでに初めから明証的である」。(63-64頁)
A-6-2 すなわち「明証的に与えられぬ他者の存在そのものが、明証的である」という他者の「第2の二重性」。(65頁)
A-6-3 なおこの「原信憑的な他者」は、「世界一般」と「自我自身」のアプリオリな明証性と共に、原受動的な領域における「地平形成の制約となるもの」(新田)として分析されねばならない。

A-7 かくてこの「二重の二重性」によって、現象学は「他者」を最大のアポリアとなさざるをえなかった。(65頁)

《参考1》E.HUSSERL『間主観性の現象学Ⅲ その行く方』第4部 他者と目的論(ちくま学芸文庫、2015年)「それぞれの自我は一つの『モナド』である。だがこれらモナドは窓を持つ。それらのモナドは、別の主観が実質的に入り込むことができないという意味では、窓も扉ももたないが、別の主観は窓をとおして(窓とは感情移入のことである)経験されうるのであって、それは自分の過去の体験が再想起をとおして経験されうるのと同様である。」(257頁)

《参考2》新田義弘(1929-2020)「序論 他者論の展開の諸相――現象学における哲学と精神医学との交差領域に定位して」(新田義弘・宇野昌人編『他者の現象学Ⅱ:哲学と精神医学のあいだ』北斗出版、1992年所収)
★他者は「私ではないという与えられ方」をしている!
フッサールの問いは「私ではないが、私と同じ構造をもつ他者(※超越論的主観性としての他者)をどのようにして理解できるのか」という問いである。他者は「私ではないという与えられ方」をしている。(14-15頁)
★ だが「事物への関り(①)」も、「自己自身への関り(②)」も、「他者への関り」と同様に「否定性(『~ではない』)の構造をもつ関係」である!
そもそも「事物は対象化的に認識されうるし、また自己の内部は自己自身に直接に直観されうるのに対して、他者だけが否定性を介して与えられる」との見解は、「現象学」(フッサール)と無縁である。フッサールにおいては①「事物」について「射映的な与えられ方」が探られ、志向性の構造として「意味論的な差異性」(『~として』規定する仕方)が取り出された。これが後期のフッサールでは「地平現象」として緻密に分析される。②「自己への反省的関わりを可能にする原初の出来事」は、「自己分裂として生起する差異化現象」(※「生き生きした現在」)である。要するに「事物への関り(①)」も、「自己自身への関り(②)」も、「他者への関り」と同様に「否定性(『~ではない』)の構造をもつ関係」である。(15頁)
★否定性を介して私と他者とが密接に属しあう構造:「われわれ性(Wirheit)」(「われわれ-構造」)!
他者と私との関りにおいては、《「私は他者でない」、「他者は私ではない」という否定性を介して私と他者とが密接に属しあう構造》(※超越論的モナドの共同体)が機能している。この構造は「われわれ性(Wirheit)」(「われわれ-構造」)と呼べる。この「われわれ性(Wirheit)」は、「ない」(否定性)を亀裂として内に抱いて非主題的にのみ機能するアノニム的な媒体である。(Cf. 「生きられる身体性」、「生き生きした現在」。)したがって「われわれ-構造」の有する「否定性」のゆえに、私や他者がそれぞれに人間関係の「基体」とされるとき、私や他者はすでに一つの「抽象」の産物(※対象)と化す。(16-18頁)
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