DIARY yuutu

yuuutunna toki no nikki

中西進『古代史で楽しむ万葉集』「五 藤原新都」(その4):藤原朝の皇子群像(c)穂積皇子(ホヅミノミコ)と但馬皇女(タジマノヒメミコ)の悲恋!

2021-07-31 14:27:24 | 日記
※中西進(1929-)『古代史で楽しむ万葉集』角川ソフィア文庫(1981, 2010)

(5)-6 藤原朝の皇子群像:(c)穂積皇子(ホヅミノミコ)と但馬皇女(タジマノヒメミコ)の悲恋!(104-106頁)
E-8  十市皇女(トオチノヒメミコ)を愛した高市皇子(タケチノミコ)(654-696、天武の皇子)には妻・但馬皇女(タジマノヒメミコ)(天武の皇女;高市皇子は異母兄)がいた。その但馬皇女は、穂積皇子(ホヅミノミコ)(天武の皇子:但馬皇女の異母兄)を愛した。(104頁)
E-8-2  但馬皇女は、穂積を恋う歌を万葉集に三首残している。そのひとつ、穂積が近江の志賀の山寺(現在の崇福寺跡)に遣わされたときの歌。(104-105頁)
「後(オク)れ居て 恋ひつつあらずは 追ひ及(シ)かむ 道の阿廻(クマミ)に 標(シメ)結(ユ)へわが背」(巻2、115)
(ひとりあとに残され、恋い焦がれ苦しんでいないで、いっそのこと追いかけて行きたい。道を間違えないように、道の曲がり角ごとに印を結び付けておいてほしい、愛しいあなた。)
《参考》「穂積皇子に勅(ミコトノリ)して近江の志賀の山寺に遣はしし時に、但馬皇女のつくりませる御歌一首」とある。但馬皇女との関係が天皇に咎められ、ふたりの仲を裂く目的で穂積皇子が志賀に遣わされたとの説がある。
E-8-2-2  やがて但馬が「竊(ヒソ)かに穂積に接(ア)った」。そのことは世の知る所となった。(105頁)

E-8-3  但馬の熱情に対し、穂積は一種の返歌も返していない。穂積にその愛が薄かったのか?そうではない。但馬がずっと後、708年に亡くなったのち、穂積は冬の日、雪の乱れ降る中に遠くその墓を望み見て、悲傷し涙を流して一首をよんだ。(105-106頁)
「降る雪は あはにな降りそ 吉隠(ヨナバリ)の 猪養(ヰカヒ)の岡の 寒からまくに」(巻2、203)
皇女の墓は「吉隠の猪養の岡」(現在の桜井市吉隠)に営まれた。「雪よ、そんなに多く降るな。吉隠(ヨナバリ)の 猪養(ヰカヒ)の岡に眠るあの人が寒がるから」。
E-8-3-2  穂積が晩年、酒宴に好んで口ずさんだと言う戯れの歌がある。
「家 にありし 櫃(ヒツ)に鍵さし 蔵めてし 恋の奴(ヤツコ)の つかみかかりて」(万葉集巻16-3816)
恋という奴隷をしっかりと家の櫃の中に閉じ込めていた。だのにこいつは、つかみかかって来る。但馬皇女への忘れられない 思いを歌ったものかもしれない。(106頁)
E-8-3-3  穂積皇子の死は、但馬皇女の死の7年後、715年(50歳?)だった。(106頁)
Comment
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中西進『古代史で楽しむ万葉集』「五 藤原新都」(その3):藤原朝の皇子群像(a)志貴(シキ)皇子!(b)高市皇子(タケチノミコ)と十市皇女(トオチノヒメミコ)!

2021-07-30 19:29:14 | 日記
※中西進(1929-)『古代史で楽しむ万葉集』角川ソフィア文庫(1981, 2010)

(5)-4 藤原朝の皇子群像:(a)志貴(シキ)皇子!(97-98頁)
※藤原朝(天武没686、藤原京遷都694、持統在位690-697・没702、文武在位697-707)。
E-6 志貴皇子(天智の皇子、716没)は秀歌を多く残している。(97-98頁)
「采女(ウネメ)の 袖吹きかえす 明日香風 都を遠み いたづらに吹く」(巻1、51)
(采女の袖を明日香の風が吹きかえす。いまはもう都も遠いので、むなしく吹くことだ。)
藤原の新宮がなって後、旧都、飛鳥浄御原(キヨミハラ)を訪れ詠った。「采女」は諸国の旧国造(クニノミヤツコ)の娘や妹で容姿端正なものを宮廷に貢上せしめたもの。古くは天皇のみの所有しうる神聖な女性だった。明日香を渡る冬か浅春の風を志貴は感じている。だが「袖をひるがえし吹くべき采女」はここにはもはやいない。「志貴は、この聖なる美女の幻影の中に旧都の空しさを嘆く。」(98頁)

(5)-5 藤原朝の皇子群像:(b)高市皇子(タケチノミコ)と十市皇女(トオチノヒメミコ)!(100-104頁)
E-7  十市皇女(トオチノヒメミコ)(?-678)は初々しい額田王と若き天武(大海人皇子)との間に生まれた、天武最初の子だ。長じて大友皇子(天智の子)の妃となった。大友との間に葛野(カドノ)王(669-706)を生む。(100-101頁)
E-7-2  だが壬申の乱(672)が十市皇女(トオチノヒメミコ)を絶望に突き落とす。壬申の乱は父(大海人皇子=天武)と夫(大友皇子=弘文天皇)との戦いだった。夫の首は父の軍営にとどけられる。25歳の夫を失った十市はまだ20歳以前であり、その胸には4歳の葛野(カドノ)王が残されていた。数年の結婚生活であった。(101頁)
E-7-2-2  壬申の乱の6年後、678年、十市は突如として宮中に発病し死ぬ。自殺とされる。(101頁)
E-7-2-3  夫の死後、心休まる日のなかった十市に、やがて登場したのが、ほぼ同年齢の高市皇子(タケチノミコ)(654-696、天武の皇子)だった。十市の心は引き裂かれる。「亡き夫への思慕とその寂寥に満たされない心、魅かれていく心を責めながら魅かれてしまう心。」(102頁)(※十市が亡くなった時、高市は24歳。)
E-7-3  高市皇子の歌が、こうした十市の姿を伝える。
「三諸(ミモロ)の 神の神杉(カムスギ) 夢のみに 見えつつ共に 寝(イ)ねぬ夜ぞ多き」(巻2、156)
十市が亡くなった折に作られた歌だ。「あの神杉のように手を触れることもなく、夢見るばかりで、共寝をしないで夜をあまたすごした。」神杉の姿をもってなぞらえられるような皇女は、高市(タケチ)の夢をよそに、容易に身を許そうとしなかったのだ。そうした回想がいま高市に湧く。(102-103頁)(※三諸(ミモロ)の神は、三輪山の神。)
Comment
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

映画『ポーラー・エクスプレス』(2004年):少年ヒーロー・ボーイは、疑っていたサンタクロースを「信じる者」となった!「鈴の音」は彼の「心の中にある」!

2021-07-30 13:03:19 | 日記
※映画『ポーラー・エクスプレス』The Polar Express(2004年、アメリカ):C. V. オールズバーグの絵本「急行『北極号』」のアニメ映画化。

(1)クリスマス・イブの夜、少年ヒーロー・ボーイはサンタクロースの存在を疑う。ところが深夜、驚いたことに、サンタクロースの住む北極点に向かう列車、「急行『北極号』」が家の前に停車する。少年はためらいながらも列車に乗る。「本当にサンタクロースがいるかどうか」、知りたかったからだ。
(2)車内には、サンタクロースの存在を信じる20人ぐらいの子供たちが乗っていた。子供たちは、それぞれ、往復乗車券を持っている。少年ヒーロー・ボーイは、列車に乗りたそうにしていた孤独な少年ロンリー・ボーイを、列車を緊急停止させ、乗せる。
(3)少女ヒーロー・ガールの往復乗車券が、風で飛んでしまう。「乗車券がない子供は乗れない」と車掌が言い、少女を列車から降ろそうとする。しかし少年ヒーロー・ボーイが乗車券を見つける。彼は、乗車券を渡そうと少女と車掌を追いかける。
(4)列車の屋根の上に登り、少年が追いかけて行く。すると屋根の上で楽器を弾き、火を焚きコーヒーを沸かしている男ホーボーがいた。彼は自分を「北極点の王様だ」と言った。彼は少年ヒーロー・ボーイの追跡を手助けしてくれた。少年は少女に追いつき、乗車券を渡した。
(5)列車「急行『北極号』」はカリブの数万頭の群れと出会い、氷河を越え、北極点に着く。そこにはたくさんのエルフ(小人)たちが居て、サンタクロースが配るプレゼントの準備をしていた。準備が整うと、多数のエルフたちの前に、サンタクロースが登場する。サンタクロースは少年ヒーロー・ボーイに、「サンタクロースを信じるか」と尋ねた。
(6)迷う少年ヒーロー・ボーイにサンタクロースが、「本当のプレゼントは、君の心の中にあるのだよ」と言う。そしてサンタクロースは少年に、「サンタクロースの服の鈴」をプレゼントする。その後、サンタクロースは、子供たちに渡すプレゼントの入った袋をトナカイの引く橇にのせ、世界に配るため出発した。
(7)列車は北極点から子供たちの家に向かって帰っていく。その列車に乗るとき車掌が少年ヒーロー・ボーイの乗車券にBELIEVE(信じる)とパンチした。少女ヒーロー・ガールにはLEAD(指導する)、孤独な少年ロンリー・ボーイにはRELY ON(人に頼ってもよい)とパンチした。
(8)家に着いた少年ヒーロー・ボーイは、「サンタクロースの服の鈴」を落としてしまったことに気付く。がっかりするが寝てしまう。翌朝、クリスマスの日、少年ヒーロー・ボーイにサンタクロースの贈り物の箱が届く。その中に、なんとなくしたはずの「サンタクロースの服の鈴」があった。
(9)「サンタクロースの服の鈴」は少年ヒーロー・ボーイには美しい音で鳴った。しかし父親と母親には、何も聞こえなかった。鈴の美しい音は、「信じる者」にのみ聞こえる。「信じなくなった者」(大人)にはもう聞こえない。

《感想1》少年ヒーロー・ボーイはサンタクロースを「信じる者」となった。「鈴の音」は彼の「心の中にある」のだ!
《感想2》この世には「信じる者」にだけ存在するものがある。サンタクロースの話は、その一例にすぎない。

Comment
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中西進『古代史で楽しむ万葉集』「五 藤原新都」(その2):万葉歌の多彩:(a)藤原朝の皇子たちの文雅、(b)持統の行幸の風流、(c)「民俗の歌うた」への関心、(d)「ことば」への顧慮!

2021-07-29 12:12:37 | 日記
※中西進(1929-)『古代史で楽しむ万葉集』角川ソフィア文庫(1981, 2010)

(5)-3 万葉歌を多彩にした要因:(a)藤原朝(持統)の皇子たちの文雅、(b)持統の行幸の風流、(c)天武以来の「民俗の歌うた」への関心、(d)天武以来、「ことば」への顧慮!(94-97頁)
E-5  近江朝(天智)は、百済の滅亡に伴う文化の流入があり、皇太子・大友皇子が日本最初の漢詩人となった。天武朝では大津皇子が周辺に多くの文人たちを擁していた。(94頁)
E-5-2 藤原朝(持統)の皇子たちは、渡来僧・下級の文人・側近の舎人(帳内)に囲まれ生活していた。彼らも漢文化の受容者となり、藤原京の風雅が進められていった。(94-95頁)
E-5-3 当時の「宮廷歌人」とは実態はこうした文人や舎人だった。「宮廷歌人」と呼ばれるのは一人一人の皇子と固定した関係をもたないからだ。(Ex. 人麻呂、憶良)(95頁)

E-5-4  (a)藤原朝(持統)の皇子たちの文雅と、(b)持統の行幸の風流(既述)とは万葉歌を多彩にした。(95頁)
E-5-5 さらに(c)天武以来の歌への関心がある。675年(天武4年)、近畿周辺の国々に勅して「国内の百姓の能く歌う男女や侏儒(ヒキヒト)(道化の者)・伎人(ワザヒト)(俳優)らをたてまつれ」と言い、685年「こうして都に集められた歌男(ウタオ)・歌女(ウタメ)、また笛吹く者はその技を子孫に伝えよ」と詔(ミコトノリ)している。例えば朝廷の「五節(ゴセチ)の田舞」は天武朝に始まる。このように「外来文化」と並行して「民俗の歌うた」を知ることも万葉歌を多彩にした。(95-96頁)
E-5-6 もうひとつ(d)天武以来、「ことば」への顧慮がみられる。天武は(ア)681年『新字』44巻を作らせる。(イ)682年には「礼儀言語の状」(宮中の礼式のことばの規定)を詔(ミコトノリ)している。また(ウ)686年天武は正月の宴席で「無端事(アトナシゴト)」(一種のことば遊び)を問うて、答えられた者に褒美を与えている。持統3年(689年)には「撰善言司」(ヨキコトエラブツカサ)(名言をめぐる故事を集める司)が志貴皇子を頭に任命された。(96-7頁)
Comment
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中西進『古代史で楽しむ万葉集』「五 藤原新都」(その1):天武の鵜野皇后が690年、持統天皇として即位!藤原京への遷都(694年)!有間皇子の悲劇を詠んだ山上憶良の歌!

2021-07-28 22:09:33 | 日記
※中西進(1929-)『古代史で楽しむ万葉集』角川ソフィア文庫(1981, 2010)

(5)持統の治世は何がなし物さびしい死のけはいがたちこめている!天武の鵜野皇后が690年、持統天皇として即位!(85-87頁)
E 実子の草壁を天皇として即位させたい鵜野(ウノ)皇后(のちの持統)は、大津皇子に「謀反」の罪をかぶせ処刑した。だがその3年後、草壁も689年、病死した。(万葉集に柿本人麻呂がはじめて姿を見せるのは、この草壁の死においてだ。)「持統の治世は何がなし物さびしい死のけはいがたちこめている」。だが持統は天武の影をしたいその遺業を継ごうと前進の姿勢を失っていない。「その悲壮さがまたきびしくもさびしい持統朝を印象せしめる。」(85-86頁)
E-2 681年天武が編纂を命じた飛鳥浄御原令22巻が689年、鵜野(ウノ)皇后(持統天皇)によって完成し、各役所に頒たれる。(86頁)
E-2-2  鵜野(ウノ)皇后は690年、持統天皇として即位した。(86頁)

(5)-2 藤原京への遷都(694年)!持統天皇の各地への行幸!有間皇子の悲劇を詠んだ山上憶良の歌!(87-90頁)
E-3  夫であった天武の意志を継いで、持統天皇は藤原宮を造営した。これは奈良京の原型をなすものだった。694年、藤原京へ遷都。(87-90頁)
E-4  持統天皇は各地に行幸の足をのばした。伊勢(壬申の乱で大海人が戦勝を祈願した土地)、吉野(持統は31回吉野行幸をしている)、また伊賀など、天武への思慕に基づくと同時に権威を誇示するものだった。(90-92頁)
E-4-2  持統4年(690年)紀伊に行幸した折り、山上憶良の作と言われる歌がある。(万葉集においてここに憶良がはじめて登場する。)(92頁)
「白波の 浜松が枝の 手向草(タムケグサ) 幾代(イクヨ)までにか 年の経(ヘ)ぬらむ」
(白波がさわぐ浜松の手向けの枝は、どれほどの歳月をすごしたのだろう。)
《参考》これは658年、中大兄によって謀反の罪で殺された有間皇子(孝徳唯一の皇子)をしのぶ歌だ。捕らえられ護送の途中、有間皇子(アリマノミコ)が詠んだ歌が『万葉集』にある。
「磐代(イハシロ)の 浜松が枝を 引き結び 真幸(マサキ)くあらば また還り見む」(巻2、141)
枝を結ぶのは無事を祈る習俗。磐代は紀伊の地名。「事無きをえて還ることができたら、再び結んだ枝を見るだろう」と呟き、有間皇子は松の枝を結んだ。だが有間は処刑され還ることはなかった。(47-48頁)
Comment
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする