※中西進(1929-)『古代史で楽しむ万葉集』角川ソフィア文庫(1981, 2010)
(5)-6 藤原朝の皇子群像:(c)穂積皇子(ホヅミノミコ)と但馬皇女(タジマノヒメミコ)の悲恋!(104-106頁)
E-8 十市皇女(トオチノヒメミコ)を愛した高市皇子(タケチノミコ)(654-696、天武の皇子)には妻・但馬皇女(タジマノヒメミコ)(天武の皇女;高市皇子は異母兄)がいた。その但馬皇女は、穂積皇子(ホヅミノミコ)(天武の皇子:但馬皇女の異母兄)を愛した。(104頁)
E-8-2 但馬皇女は、穂積を恋う歌を万葉集に三首残している。そのひとつ、穂積が近江の志賀の山寺(現在の崇福寺跡)に遣わされたときの歌。(104-105頁)
「後(オク)れ居て 恋ひつつあらずは 追ひ及(シ)かむ 道の阿廻(クマミ)に 標(シメ)結(ユ)へわが背」(巻2、115)
(ひとりあとに残され、恋い焦がれ苦しんでいないで、いっそのこと追いかけて行きたい。道を間違えないように、道の曲がり角ごとに印を結び付けておいてほしい、愛しいあなた。)
《参考》「穂積皇子に勅(ミコトノリ)して近江の志賀の山寺に遣はしし時に、但馬皇女のつくりませる御歌一首」とある。但馬皇女との関係が天皇に咎められ、ふたりの仲を裂く目的で穂積皇子が志賀に遣わされたとの説がある。
E-8-2-2 やがて但馬が「竊(ヒソ)かに穂積に接(ア)った」。そのことは世の知る所となった。(105頁)
E-8-3 但馬の熱情に対し、穂積は一種の返歌も返していない。穂積にその愛が薄かったのか?そうではない。但馬がずっと後、708年に亡くなったのち、穂積は冬の日、雪の乱れ降る中に遠くその墓を望み見て、悲傷し涙を流して一首をよんだ。(105-106頁)
「降る雪は あはにな降りそ 吉隠(ヨナバリ)の 猪養(ヰカヒ)の岡の 寒からまくに」(巻2、203)
皇女の墓は「吉隠の猪養の岡」(現在の桜井市吉隠)に営まれた。「雪よ、そんなに多く降るな。吉隠(ヨナバリ)の 猪養(ヰカヒ)の岡に眠るあの人が寒がるから」。
E-8-3-2 穂積が晩年、酒宴に好んで口ずさんだと言う戯れの歌がある。
「家 にありし 櫃(ヒツ)に鍵さし 蔵めてし 恋の奴(ヤツコ)の つかみかかりて」(万葉集巻16-3816)
恋という奴隷をしっかりと家の櫃の中に閉じ込めていた。だのにこいつは、つかみかかって来る。但馬皇女への忘れられない 思いを歌ったものかもしれない。(106頁)
E-8-3-3 穂積皇子の死は、但馬皇女の死の7年後、715年(50歳?)だった。(106頁)
(5)-6 藤原朝の皇子群像:(c)穂積皇子(ホヅミノミコ)と但馬皇女(タジマノヒメミコ)の悲恋!(104-106頁)
E-8 十市皇女(トオチノヒメミコ)を愛した高市皇子(タケチノミコ)(654-696、天武の皇子)には妻・但馬皇女(タジマノヒメミコ)(天武の皇女;高市皇子は異母兄)がいた。その但馬皇女は、穂積皇子(ホヅミノミコ)(天武の皇子:但馬皇女の異母兄)を愛した。(104頁)
E-8-2 但馬皇女は、穂積を恋う歌を万葉集に三首残している。そのひとつ、穂積が近江の志賀の山寺(現在の崇福寺跡)に遣わされたときの歌。(104-105頁)
「後(オク)れ居て 恋ひつつあらずは 追ひ及(シ)かむ 道の阿廻(クマミ)に 標(シメ)結(ユ)へわが背」(巻2、115)
(ひとりあとに残され、恋い焦がれ苦しんでいないで、いっそのこと追いかけて行きたい。道を間違えないように、道の曲がり角ごとに印を結び付けておいてほしい、愛しいあなた。)
《参考》「穂積皇子に勅(ミコトノリ)して近江の志賀の山寺に遣はしし時に、但馬皇女のつくりませる御歌一首」とある。但馬皇女との関係が天皇に咎められ、ふたりの仲を裂く目的で穂積皇子が志賀に遣わされたとの説がある。
E-8-2-2 やがて但馬が「竊(ヒソ)かに穂積に接(ア)った」。そのことは世の知る所となった。(105頁)
E-8-3 但馬の熱情に対し、穂積は一種の返歌も返していない。穂積にその愛が薄かったのか?そうではない。但馬がずっと後、708年に亡くなったのち、穂積は冬の日、雪の乱れ降る中に遠くその墓を望み見て、悲傷し涙を流して一首をよんだ。(105-106頁)
「降る雪は あはにな降りそ 吉隠(ヨナバリ)の 猪養(ヰカヒ)の岡の 寒からまくに」(巻2、203)
皇女の墓は「吉隠の猪養の岡」(現在の桜井市吉隠)に営まれた。「雪よ、そんなに多く降るな。吉隠(ヨナバリ)の 猪養(ヰカヒ)の岡に眠るあの人が寒がるから」。
E-8-3-2 穂積が晩年、酒宴に好んで口ずさんだと言う戯れの歌がある。
「家 にありし 櫃(ヒツ)に鍵さし 蔵めてし 恋の奴(ヤツコ)の つかみかかりて」(万葉集巻16-3816)
恋という奴隷をしっかりと家の櫃の中に閉じ込めていた。だのにこいつは、つかみかかって来る。但馬皇女への忘れられない 思いを歌ったものかもしれない。(106頁)
E-8-3-3 穂積皇子の死は、但馬皇女の死の7年後、715年(50歳?)だった。(106頁)