※清水克行『室町は今日もハードボイルド、日本中世のアナーキーな世界』2021年:第3部「中世人、その愛のかたち」(「人びとのきずな」)
第3部第9話「婚姻のはなし、ゲス不倫の対処法」
(1)平安中期から江戸前期の「うわなり打ち」(「後妻打ち」)の慣習!
(a)平安中期から江戸前期にかけて「うわなり打ち」(「後妻打ち」)の慣習があった。夫が現在の妻を捨てて、別の新しい女性(「後妻」)のもとに走ると、捨てられた現在の妻が、女友達を大勢呼び集め、夫を奪った女(後妻)の家を襲撃して破壊、時には相手の女の命を奪う。
(b)室町時代中頃、備中国上原(カンバラ)郷という荘園(東福寺の所領)に僧・光心という代官がいた。光心は「長脇殿の未亡人」と内縁関係にあった。ところが光心は好色な僧で「長脇殿の未亡人」に隠れて、他の「百姓」の女たちにも次々手を出した。
(b)-2 やがて光心は「百姓の下女」(身分の低い召使い)にまで手を出した。このことを知った内縁の妻「長脇殿の未亡人」は激怒した。「百姓」の女性に浮気するだけでも許しがたいのに、自分よりも遥かに身分の低い「下女」と通じていることに、「長脇殿の未亡人」のプライドはズタズタに傷ついた。
(b)-3 嫉妬の念に駆られた「長脇殿の未亡人」は、ついに長脇家の家人たちを大挙動員して、その「百姓の下女」の家に「うわなり打ち」を仕掛ける。未亡人の命を受けた家人たちは「下女」を召し取り、殺害してしまう。
(b)-4 だがこのあと、「長脇殿の未亡人」が殺人の罪に問われた形跡はない。男を奪われた女が新たな女に復讐するのは、慣習的に許容されていたようだ。
《感想1》ただし実際に「うわなり打ち」ができるのは「強者」の側だ。襲われるのは「弱者」の側だ。「慣習的に許容」とは、「法」的に許容されていたということだ。
《感想2》「法」的に禁止されていれば、「強者」の側であろうと、公権力によって処罰される。だが「法」的に許容されていたので、「下女」を殺した「長脇殿の未亡人」が公権力によって殺人の罪に問われることはなかった。
(2)北条政子の「うわなり打ち」:政子が「男まさり」と言うのは不正確で、中世の女性はみんな、「男まさり」だった!
(c)「うわなり打ち」(「後妻打ち」)を行った人物としておそらく史上もっとも有名なのは源頼朝の正室の北条政子(1157-1225)だろう。政子は頼朝の愛人の「亀の前」に怒り、1182年、配下の者に命じ「亀の前」の屋敷を襲撃させた。「亀の前」は辛うじて逃げた。
(c)-2 この逸話は、北条政子の「男まさり」を語るエピソードとされるが、「うわなり打ち」は、中世の女性には当たり前に許されている行為だった。政子が「男まさり」と言うのは不正確で、中世の女性はみんな、政子に限らず「男まさり」だった。
(3)10-11世紀は貴族層の婚姻形態が「一夫一妻制」(「一夫一妻多妾制」)になっていく時代だった!正式な妻の座をめぐる女性たちの間の対立が先鋭化し「うわなり打ち」の慣習が成立した!
(d)最古の「うわなり打ち」の記録は1010年である。この摂関政治の全盛期、藤原道長(966-1028)の侍女が、自分の夫の愛人の屋敷を30人ばかりの下女とともに破壊している。この侍女は翌1011年にも別の女の家を襲撃し、道長自身の日記『御堂関白記』には「宇波成打(ウワナリウチ)」と書かれている。
(e)10-11世紀は貴族層の婚姻形態が「一夫一妻制」になっていく時代だった。それ以前は「乱婚」に近いようなルーズな婚姻形態だった。
(e)-2 「一夫一妻制」と言っても現実は「一夫一妻多妾制」だった。したがって正式な妻の座をめぐる女性たちの間の対立が先鋭化した。かくて「うわなり打ち」で女性たちの怒りは、ライバルの女性に向かった。身勝手な男たちには向けられなかった。
(e)-3 つまり「うわなり打ち」の習俗は10-11世紀に「一夫一妻制」(「一夫一妻多妾制」)が成立したのと軌を一にした現象だった。
(e)-4 この限りでは「うわなり打ち」は中世の女性の「強さ」というより、「弱い立場」の表れと言うべきかもしれない。
(4)江戸時代の「うわなり打ち」は「復讐」から「儀礼」へと姿を変えた!
(f)「うわなり打ち」は江戸時代にも受け継がれる。磐城平(タイラ)藩の内藤忠興(タダオキ)(1592-1674)の正室・天光(テンコウ)院は、自ら薙刀を取って忠興の妾を預かる家臣の家に押し入った。また佐賀藩の鍋島直茂(ナオシゲ)(1538-1618)の前妻は後妻陽泰院(ヨウタイイン)の家に「うわなり打ち」を仕掛けるが、その時陽泰院は動じることなく前妻を丁重に出迎えてかえって評価を高めたという逸話もある。
(g)だが16世紀末~17世紀初頭の「うわなり打ち」は象徴的な「儀礼」へと姿を変えた。①妻を離縁して5日ないし1か月以内に夫が新妻を迎えた場合は、必ず「うわなり打ち」を実行した。②襲撃に男は加わらない。②-2 親類縁者の女など総勢20-100人で新妻の家に押しかける。③その際は使者を立てて襲撃を通告する。④武器も刃物は使わず、木刀・竹刀・棒に限る。⑤破壊は台所を中心に鍋・釜・障子に対して行われる。⑥一通りの破壊が終わると、仲介者が和解を取り持つ。
(g)-2 江戸時代に入って「うわなり打ち」は、「復讐」から「儀礼」へと姿を変えた。ただし江戸幕府から「うわなり打ち禁止令」が出たことはない。時代が「復讐」や「暴力」をネガティヴなものとする方向へ変化したというべきだろう。
第3部第9話「婚姻のはなし、ゲス不倫の対処法」
(1)平安中期から江戸前期の「うわなり打ち」(「後妻打ち」)の慣習!
(a)平安中期から江戸前期にかけて「うわなり打ち」(「後妻打ち」)の慣習があった。夫が現在の妻を捨てて、別の新しい女性(「後妻」)のもとに走ると、捨てられた現在の妻が、女友達を大勢呼び集め、夫を奪った女(後妻)の家を襲撃して破壊、時には相手の女の命を奪う。
(b)室町時代中頃、備中国上原(カンバラ)郷という荘園(東福寺の所領)に僧・光心という代官がいた。光心は「長脇殿の未亡人」と内縁関係にあった。ところが光心は好色な僧で「長脇殿の未亡人」に隠れて、他の「百姓」の女たちにも次々手を出した。
(b)-2 やがて光心は「百姓の下女」(身分の低い召使い)にまで手を出した。このことを知った内縁の妻「長脇殿の未亡人」は激怒した。「百姓」の女性に浮気するだけでも許しがたいのに、自分よりも遥かに身分の低い「下女」と通じていることに、「長脇殿の未亡人」のプライドはズタズタに傷ついた。
(b)-3 嫉妬の念に駆られた「長脇殿の未亡人」は、ついに長脇家の家人たちを大挙動員して、その「百姓の下女」の家に「うわなり打ち」を仕掛ける。未亡人の命を受けた家人たちは「下女」を召し取り、殺害してしまう。
(b)-4 だがこのあと、「長脇殿の未亡人」が殺人の罪に問われた形跡はない。男を奪われた女が新たな女に復讐するのは、慣習的に許容されていたようだ。
《感想1》ただし実際に「うわなり打ち」ができるのは「強者」の側だ。襲われるのは「弱者」の側だ。「慣習的に許容」とは、「法」的に許容されていたということだ。
《感想2》「法」的に禁止されていれば、「強者」の側であろうと、公権力によって処罰される。だが「法」的に許容されていたので、「下女」を殺した「長脇殿の未亡人」が公権力によって殺人の罪に問われることはなかった。
(2)北条政子の「うわなり打ち」:政子が「男まさり」と言うのは不正確で、中世の女性はみんな、「男まさり」だった!
(c)「うわなり打ち」(「後妻打ち」)を行った人物としておそらく史上もっとも有名なのは源頼朝の正室の北条政子(1157-1225)だろう。政子は頼朝の愛人の「亀の前」に怒り、1182年、配下の者に命じ「亀の前」の屋敷を襲撃させた。「亀の前」は辛うじて逃げた。
(c)-2 この逸話は、北条政子の「男まさり」を語るエピソードとされるが、「うわなり打ち」は、中世の女性には当たり前に許されている行為だった。政子が「男まさり」と言うのは不正確で、中世の女性はみんな、政子に限らず「男まさり」だった。
(3)10-11世紀は貴族層の婚姻形態が「一夫一妻制」(「一夫一妻多妾制」)になっていく時代だった!正式な妻の座をめぐる女性たちの間の対立が先鋭化し「うわなり打ち」の慣習が成立した!
(d)最古の「うわなり打ち」の記録は1010年である。この摂関政治の全盛期、藤原道長(966-1028)の侍女が、自分の夫の愛人の屋敷を30人ばかりの下女とともに破壊している。この侍女は翌1011年にも別の女の家を襲撃し、道長自身の日記『御堂関白記』には「宇波成打(ウワナリウチ)」と書かれている。
(e)10-11世紀は貴族層の婚姻形態が「一夫一妻制」になっていく時代だった。それ以前は「乱婚」に近いようなルーズな婚姻形態だった。
(e)-2 「一夫一妻制」と言っても現実は「一夫一妻多妾制」だった。したがって正式な妻の座をめぐる女性たちの間の対立が先鋭化した。かくて「うわなり打ち」で女性たちの怒りは、ライバルの女性に向かった。身勝手な男たちには向けられなかった。
(e)-3 つまり「うわなり打ち」の習俗は10-11世紀に「一夫一妻制」(「一夫一妻多妾制」)が成立したのと軌を一にした現象だった。
(e)-4 この限りでは「うわなり打ち」は中世の女性の「強さ」というより、「弱い立場」の表れと言うべきかもしれない。
(4)江戸時代の「うわなり打ち」は「復讐」から「儀礼」へと姿を変えた!
(f)「うわなり打ち」は江戸時代にも受け継がれる。磐城平(タイラ)藩の内藤忠興(タダオキ)(1592-1674)の正室・天光(テンコウ)院は、自ら薙刀を取って忠興の妾を預かる家臣の家に押し入った。また佐賀藩の鍋島直茂(ナオシゲ)(1538-1618)の前妻は後妻陽泰院(ヨウタイイン)の家に「うわなり打ち」を仕掛けるが、その時陽泰院は動じることなく前妻を丁重に出迎えてかえって評価を高めたという逸話もある。
(g)だが16世紀末~17世紀初頭の「うわなり打ち」は象徴的な「儀礼」へと姿を変えた。①妻を離縁して5日ないし1か月以内に夫が新妻を迎えた場合は、必ず「うわなり打ち」を実行した。②襲撃に男は加わらない。②-2 親類縁者の女など総勢20-100人で新妻の家に押しかける。③その際は使者を立てて襲撃を通告する。④武器も刃物は使わず、木刀・竹刀・棒に限る。⑤破壊は台所を中心に鍋・釜・障子に対して行われる。⑥一通りの破壊が終わると、仲介者が和解を取り持つ。
(g)-2 江戸時代に入って「うわなり打ち」は、「復讐」から「儀礼」へと姿を変えた。ただし江戸幕府から「うわなり打ち禁止令」が出たことはない。時代が「復讐」や「暴力」をネガティヴなものとする方向へ変化したというべきだろう。