DIARY yuutu

yuuutunna toki no nikki

北村薫(1949-)「ものがたり」(1993年):「娘」(茜)の渾身の実存的決断が、「侍」(耕三)によって理解された!

2023-06-29 18:09:20 | 日記
※北村薫(1949-)「ものがたり」(1993年、44歳)『日本文学100年の名作、第8巻、1984-1993』新潮社、2015年、所収
(1)
百合子の妹の茜が大学受験のため耕三と百合子のマンションに来て泊っている。耕三は会社(テレビ局)の仕事が忙しく、すでに1週間たつのに茜と会っていない。茜は18歳。耕三が茜と会うのは、3年前に耕三が、宮城の百合子の実家に婚約の挨拶行った時以来だ。百合子と茜は、九つ違う。
(2)
茜が帰る前日、耕三ははじめて茜と話をした。あれこれ話をして、最後に茜が「お話を考えるのが好きなんです」と耕三に自作の時代劇のストーリーを話し始めた。
(2)-2 ある侍の家に、一人の娘が家出してやって来た。侍の奥さんの妹だ。娘は嫌な相手との祝言を嫌い、自分の顔を切って拒否した。ただしそれは1カ月前のことだった。
(2)-3 それが噂になり、殿様がその娘に興味を持ち、鷹狩の帰りがけに娘の家に寄る。その夜、殿様が娘の部屋に案内される。(娘の家族は「お手がつくなら、それも幸せ」と考えた。)ところが娘は殿様にお手向かいしてしまった。(懐剣でお殿様を刺した。)そして今、侍の家に逃げてきたのだった。
(2)-4 娘は「従うしかない運命」を「刺した」のだ。娘は自分が、「この時のために生きてきたのだ」と悟った。娘は家を飛び出し姉の家に向かった。
(2)-5 姉の家に着いて、姉の夫である侍に「姉に会いに来た」と思われたら、「娘は死んでも死にきれないだろう」と耕三が言った。
(2)-6 茜の唇が、微かに震えた。「それでは侍は――」と茜が言った。
(2)-7 「侍は何も言えないだろう」と耕三が答えた。
(2)-8 茜のきつい顔に、「激しい喜び」が、哀れなほどあからさまに浮かんだ。

《感想1》茜の「お話」の登場人物「娘」は、茜の分身だ。「運命」に反逆するという渾身の決断、「この時のために生きてきたのだ」と思うほどの「娘」(茜)の決断。
《感想2》「お話」の中の「娘」に憑依した茜は、「侍」(耕三)が「姉に会いに来た」と決して言わないと知って、つまり「娘」(茜)の渾身の実存的決断が、「侍」(耕三)によって理解されたと知って、(茜は)「激しい喜び」を示す。
Comment
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

宮部みゆき(1960-)「神無月」(1993年):毎年、神無月に奇妙な「押し込み」がある!神様のいない神無月に娘は生まれ母親は死んだ!見られては困ることは、神様が留守の神無月にする!

2023-06-27 10:32:04 | 日記
※宮部みゆき(1960-)「神無月」(1993年、33歳)『日本文学100年の名作、第8巻、1984-1993』新潮社、2015年、所収
(1)
岡っ引き(親分)が黙々と飲んでいたが、ふと「神無月だ。去年の今頃、押し込みがあった」と居酒屋の親父に言った。
(2)
長屋で畳職人の男がひとり、病気の八つの娘のためにお手玉を縫っている。この子を産んで女房は命を落とした。女房の命をもらって来たこの子のために「どんな高価(タカ)い薬も買う」と男は言う。
(3)
「毎年、神無月に奇妙な押し込みがある」と岡っ引きは気づいた。八年前からだ。ところが盗られた金はいつも5両からせいぜい10両。「段取りを決めて、年中行事みたいに、きっちりこなしていく。しかも賊は一人だ。人を殺めることもない。」賊はおそらく「堅気」だ。
(4)
「当たり前の働きで稼ぐ以上の金が要る」とわかった時、男は心を決めた。「他人様に迷惑をかけたくないが、自分の子供の命がかかっているから仕方ない。去年は相手が飛びかかって来たので、刺すしかなかった。本当に危ないところだった」と男は思った。「今年は少し、大きな金を持ち帰ろう。」
(5)
「この先、何年かは危ないことをしないで済むように、賊は、今年は大金を狙うかもしれない」「無理をして危ない真似をするかもしれない」「歯止めがきかなくなり、本当に人を手にかけちまう前に、袖をとらえて引き戻してやらねえと」と岡っ引き(親分)が言った。そして「襲われた家どうしにはつながりはねえ」と言った。
(6)
黒い頭巾を懐(フトコロ)におさめ「おとっちゃんはこれから出かけてくる。夜明けまでには戻ってくる」と男は寝ている娘に話しかけた。「おめえは神無月の月末に生まれた。神様が留守にしちまう月だ。だからお前はこわれものの身体を持って生まれてきた。おっかさんも死んでしまった」と男は言った。
(6)-2
「とっちゃんは神さまに見られては困るようなことをする。だから神様が留守の神無月にするんだ」。
(7)
「賊は狙った家の造りをよく知っているから大工かと思って調べたら、大工に縁のなかった家があった。お得意先に出入りする油売り、魚屋、町医者も考えて調べたが、みな違う」と岡っ引き(親分)が言った。居酒屋の親父が「渡り職人の畳屋じゃないですか?あちこちの家に行きますよ」と言った。岡っ引き(親分)は合点がいった。「有難うよ。間に合うといいがな」とぐいと立ち上がった。
(8)
男、「たたみ職 市蔵」が年に一度のおつとめのため、夜道をいそいでいく。岡っ引きが不思議な押し込みの袖を、少しでも早くとらえるため、夜道をいそいでいく。神様は、出雲の国に去っている。

《感想》おそらくありえないが、あったらいいなと思われる「岡っ引き」像。この小説と違って、現実の「岡っ引き」は普通、権力をかさにきて弱い者にえばり散らす。そして権力にできるだけうまく取り入り生きる。人間社会は無残だ。宮部みゆき氏はユートピアの「岡っ引き」を描く。
Comment
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大城立弘(1925-2020)「夏草」(1993年、68歳):「手榴弾」一発で豪快に恐怖から解放されると私は思った!妻が「生きているのよね、私たち」、「死にたくない・・・・・」と言った!

2023-06-24 18:14:26 | 日記
※大城立弘(1925-2020)「夏草」(1993年、68歳)『日本文学100年の名作、第8巻、1984-1993』新潮社、2015年、所収
(1)
1945年沖縄、米軍の猛攻撃下、私と妻は避難民として南部の海をめざし歩いていた。その一日、屋根の残る豚小屋に潜んでいた。砲弾が降りしきり、土煙を吹きあげる。砲声には耳慣れよほどの至近弾でなければもはや恐怖をよばない。道路には兵隊や民間人の死体がころがっているのをたくさん見てきた。部落じゅうの家が焼けている。
(2)
そこへ一人の痩せ衰えた兵隊がやって来たが、もつれる足取り、頬の肉が削げ落ち、黒ずんだ唇、鉄帽はなく略帽の顎紐が切れて垂れさがっている。その兵隊が前のめりに倒れた。死にかかった兵隊の雑嚢を探ると手榴弾があった。自決用だ。「これを持っていこうな」、私は妻に言った。これがあればいつでも楽に死ねる。
(3)
二週間前まで大きな自然壕に県庁の職員家族として家族四人(私、妻、小学生の娘と息子)が避難していた。だが集団は持ちこたえきれず解散。各自が銃砲撃をくぐって壕を出て行くことになった。数日のうちに娘が砲弾の破片を胸に受け即死。息子が貫通銃創を大腿部に受け、一日悲鳴をあげていたが出血多量で死んだ。
(4)
「餓え死にさせたのでないから」と妻が自分を慰めるように言った。「守るだけは守ってやった」ということだった。「餓死は砲火や銃弾を受けて死ぬことに比べ惨めすぎる」という思い込みが私たちに生まれていた。それからは私と妻は野生の芋や蓬(ヨモギ)のたぐいを手当たり次第に採って食べ、余分は鞄に詰め込んできた。
(5)
食うものが尽きたら、餓死する前に自分で命を絶つと、自分に言いきかせるようになったのはこの二日間だ。そして今や手榴弾をわがものとして確認すると、この上もなく勇気が湧いてきたのだった。
(5)-2
数知れない死骸を見てきた。畑、道路、家の軒下。兵隊と民間人の区別も差別もなかった。銀蠅がたかって、死んでいることを証明していた。銀蠅の群れを見ると、人間がこの上もなく劣等になったという認識を強いられた。ひどく死にたくなる瞬間があった。それは銀蠅を見るときでであった。「ああはなりたくない」という恐怖が、そこから逃げるには「死ぬしかない」と私に思わせた。
(5)-3
また遮蔽物のないときの、頭上からの機銃掃射の恐怖。その恐怖からいつ解放されるのかという思いで疲れた。「手榴弾」一発で豪快にその恐怖から解放されるという思いつきは私にある種の至福の思いを抱かせた。
(6)
私と妻は亀甲墓(カメノコウバカ)の門をはいって行った。墓は萱(カヤ)が繁り放題だった。私たちは腰をおろした。萱が周りを囲ってくれた。私は手榴弾を左手で握りしめ、目の前にかざし、右手の人指し指でピンをさわり「ここを抜くのだ」という仕種を妻にして見せた。私の指がピンにかかった。私は妻と自決するつもりだった。
(6)-2
その時、妻が「ハブ!」と声をふるわせ抱きついて来た。とぐろでも巻いたら、間違いなく襲ってくる。二人で息を殺していた。「こちらが襲う気配を見せなければ安全だ」と聞いたことがある。人間が二人だが、できるだけ一人のように振る舞う。呼吸のリズムを合わせ、呼吸音が聞こえるほど、二人は抱き合った。ハブは悠然とした動きで門を出ていった。
(7)
私たちは魔の襲撃をまぬかれた。私は全身の力を抜き、腕を解こうとした。しかし、妻の身体が離れなかった。二人は「死ぬ前に」と身体を求めあった。手榴弾を妻の頭の横においた。萱の匂いが、やさしく二人の身体を包んでくれた。妻のモンペをぬがせ、私も服をぬいだ。いま「夏草」たちに囲まれ私と妻の身体は、自由の中にあった。「食うこと」と「銃砲弾を避けること」だけを考えてきた身が、忘れていたことを思い出した。私は妻の体内で射精し、妻も同時に呻いた。
(7)-2
満ちたりた汗と息遣い。「わぁ。月がきれいさあ」妻が私の顔を下でよけて叫んだ。不意に草がピュッと鳴った。銃弾だった。私は咄嗟に全身がひきつった。妻が身体を硬くした。
(7)-3
私は頭をめぐらして妻の顔を見た。妻が「生きているのよね、私たち」と言った。わたしたちは抱き合うことで「ともに生きていること」を確かめたかったのだ。「死にたくない・・・・・」妻がさらに言った。「海まで・・・・・行けるだけ行ってみようか」と私が言うと、「そうね」妻がすんなりと答えた。立ち上がりながら「ごめんね・・・・・」妻はひっそりと呟いた。それは死んだ子供たちへの言葉であることを、私は覚った。
(8)
墓の門を出た。「手榴弾を忘れてきた」と私。「もういいんでない」と妻が言った。「そうだな」答えながら私は、子供の死体のひとつをよけて通った。

《参考》大城立弘氏は沖縄県生まれだが、中学卒業後1943年(18歳)上海の東亜同文書院大学に入学、在学中に現地入隊。終戦後、帰国。小説の舞台の1945年沖縄戦を大城立弘氏は経験していない。米軍占領下で琉球政府経済企画課長など務める。日本復帰後は沖縄県沖縄史料編集所所長、また県立博物館館長を務める。

《感想1》この小説は、伝聞あるいは手記等にもとづく虚構である。
《感想2》沖縄戦の限界状況のもとでの、死への欲求と生への欲求が対比され、後者の勝利が宣言される。
Comment
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「マティス展」東京都美術館(2023/6/20):「形と色から成る一個の全体性として自分を表現する」!

2023-06-23 13:21:41 | 日記
  (1)「野獣派」(フォーヴィズム)の始まり(1905年、36歳)
アンリ・マティス(Henri Matisse)(1869-1954)は、1892年(23歳)、象徴主義の画家ギュスターヴ・モローの教室に出入りを許された。モローは、マティスは「絵画を単純化するだろう」と予言した。1895年(26歳)「読書する女性」がマティスの画歴の最初の里程標となった。だがマティスは「また別の絵画へ移ること」を真正面にすえる。1904年、マティスは新印象主義のポール・シニャックの招きで南仏を訪れる。1905年(36歳)、マティスたちの絵画は「乱痴気騒ぎのような純粋色」の「野獣(フォーヴ)」だと批評された。これが「野獣派」(フォーヴィズム)の始まりである。
★「豪奢Ⅰ」(1907、38歳)


(2)「ラディカルな探究の時代」(1914-1918、45-49歳)
だがマティスはやがて「ラディカルな探究の時代」(1914-1918、45-49歳)に入る。第1次大戦(1914-1918)の勃発が契機となった。暗い色調と厳格な構図が戦争の暗い時代を示す。またマティスは内と外の「交換器」としての「窓」を繰り返し描く。
★「金魚鉢のある室内」(1914、45歳)


(3)「ニース時代(人物と室内の時代)」(1918-1929、49-60歳)
1918年(49歳)、マティスはニースに拠点を移す。「ニース時代(人物と室内の時代)」(1918-1929、49-60歳)と呼ばれる多作な時代だ。人物と室内が主題となる。そしてフランス的絵画伝統への回帰の時代でもある。
★「赤いキュロットのオダリスク」(1921、52歳)


(4)「広がりと実験の時代」(1930-1937、61-68歳)
マティスの1930年代は「広がりと実験の時代」(1930-1937、61-68歳)だ。米国のバーンズ財団でマティスは13m×3.5mの大壁画(「ダンス」1932-1933、63-64歳)を描いた。そしてマティスのアトリエは様々な実験が繰り広げられる工房と化した。マティスは「どうすれば人物を背景の中に、しなやかにかつ劃然とした輪郭のもとに置くことができるか」について探求した。
★「夢」(1935、66歳)


(5)「ニースからヴァンスへ」&「ヴァンス室内画」の時代(1938-1948、69-79歳)
1939年(70歳)、第2次世界大戦(1939-1945)勃発、マティスは1941年(72歳)十二指腸癌の手術を受け、九死に一生を得る。1943年(74歳)、ニースへの空爆を避け近郊の丘の町ヴァンス(「夢」荘)に移る。1946年(77歳)から、マティスは油絵連作「ヴァンス室内画」を制作した。
★「赤の大きな室内」(1948、79歳)


(6)「切り紙絵と最晩年の時代」(1949-1954、80-85歳)
1943年(74歳)、ヴァンスの「夢」荘に居を構えたマティスは、体調がすぐれず一日の大部分をベッドまたは車いすですごすことも多かった。油絵連作「ヴァンス室内画」の時代(1946-1948、77-79歳)を過ぎてからは、彼は切り紙絵を芸術実践として制作するようになる。(Ex. 画文集『ジャズ』1947、78歳。)「切り紙絵と最晩年の時代」(1949-1954、80-85歳)だ。
★「馬、曲馬師、道化」『ジャズ』(1947、78歳)


(7)「ヴァンス・ロザリオ礼拝堂」の制作(1948-1951年、79-82歳)
疎開した丘の町ヴァンスで1948-1951年(79-82歳)、マティスは「ヴァンス・ロザリオ礼拝堂」の制作に取り組んだ。彼は一種の「大型コンポジション」として制作した。建物の設計、装飾、什器、祭服、典礼用品まですべてマティスが担当した。「ここで私は、形と色から成る一個の全体性として自分を表現する機会を得たのです」とマティスは述べている。
★「ヴァンス・ロザリオ礼拝堂」(1951年、82歳)
Comment
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

阿川弘之「鮨」(1992年、72歳):浮浪者は「自由人」・「ディオゲネス」・「老荘思想」の体現者?

2023-06-22 13:16:17 | 日記
※阿川弘之(1920-2015)「鮨」(1992年、72歳)『日本文学100年の名作、第8巻、1984-1993』新潮社、2015年、所収
(1)
A 上野から特急で3時間と少々の町で彼はセミナー(討論会)の講師として参加し、帰りがけに主催者側から折詰の「鮨」をいただいた。彼は討論会終了後の宴席を辞退したからだ。東京帰着後、人と遅めの夕食の約束があった。それなのに折詰の「鮨」をいただいてしまった。彼は考えた。四十何年前の「餓えて苦しくあさましかった時代」の記憶が残っていて、「無駄にしてしまえばいい」(捨ててしまえばいい)とは思わない。
(2)
B ともかく折詰の「鮨」を開くと、おいしそうで「よし、一つだけ。人の好意だ」と彼は一番好物の太巻の海苔巻を手でつまんで口に入れた。だがすぐ彼は後悔した。残りをどうするのか?①「鮨」をこれ以上食うわけには行かない。夕食の約束があり、満腹では先方に無礼だ。②家に持ち帰っても、冷蔵庫の中で滞留し数日後、生ごみとなる、亡くなった老母なら「今にドバチがあたる」と言うだろう。③「貰ったまま」の折包みなら特急の乗務員室に持っていき受け取ってもらうこともできたのに、今はそれも無理だ。④屑物入れに捨てるのは人の心づくしの食物を土足にかけるようなことでやっちゃいかん。
(3)
C その時、彼は此の列車の終着駅は上野駅で、その地下道に浮浪者がたむろしていることを思い出した。こちらに浮浪者を蔑(サゲス)む気持ち恵む気持ちさえ無ければ、食べ残しの「鮨」を渡しても構わないのではないかと、彼は思った。
D だが浮浪者は「自由」を求める「樽の中のディオゲネス」あるいは「老荘思想」の体現者のような存在との意見を、友人の新聞記者から聞いたことがある。
D-2  これら「上野地下道の自由人たち」に食べ残しの「鮨」を渡した場合、いくつかの反応が想定できる。彼は列車の中で想像した。(ア)「貰ってやるからその辺に置いときな」と言われ、浮浪者に見向きもされない。こちらはムッとせず「あいよ」とすぐ立ち去る。(イ)浮浪者が酔っぱらっていて「俺がその鮨食うから、お前も此のチュウ、一杯だけ飲め」と言われるかもしれない。まして断って「飲み残しは飲めないというのかよォ」とからまれたら困る。(ウ)「自由人」・「ディオゲネス」・「老荘思想」の体現者のような浮浪者から「そんな物、要らないよ、俺たちは乞食じゃないんだ」、「馬鹿にしてるのか」と剣突(ケンツク)を食わされる場合もありうる。
(4)
E 列車は上野駅に着いた。地下道には四人の浮浪者がいた。そのうちの一人に声をかけた。彼は手短に事情を話し、「食べ残しだがよかったらこの鮨を食ってくれないか」と言った。すると思いがけないことに浮浪者は立ち上がり、不動の姿勢をとり、一礼し「頂きます。有難うございます」と両手を差し出し「鮨」の袋を受け取った。(この浮浪者は七十歳前後で従軍経験があるのかも知れなかった。)(※阿川弘之氏と同世代!)
E-2 浮浪者の態度は列車の中で彼が想像したどの場面とも全く違っていた。彼は感動した。「通りすがりの男が僅かな食い物をくれたからって、今どき、直立不動の姿勢をとって、有難うございますと両手で受け取る奴が世の中にいるかね。フィリピンで三十年ぶり(1974年)に発見された小野田少尉のようだった」と彼は家で話した。
E-3 一週間後、彼に又、上野を通る用事が出来たので、地下道をたずねたが、当該の浮浪者はもういなかった。

《感想1》浮浪者を「自由人」・「ディオゲネス」・「老荘思想」の体現者とする阿川弘之氏の見方は、誤りだ。浮浪者は「自由人」でない。(※以下は「浮浪者は自由人と思うか?」との質問に対するChatGPTの回答を参考にして要約&大幅補足した!例示はすべて評者の補足!)
(a)「浮浪者が自由人である」との見方は、一部の人々の間で存在するが、一面的で正確でない。(これはChatGPTの「浮浪者の自由」問題についての基本的スタンスだ!)
(a)-2 浮浪者の状況は次のような要素の結果として生じる。
①貧困(Ex. 失業、非正規雇用の雇止め;Ex. 学歴が高くない)、
②住居不安(Ex. アパートを借りる金がない)、
③社会的孤立(Ex. 家族がないor連絡がない;Ex. DVによる家族関係崩壊;Ex.障害年金を家族が使ってしまう;Ex. いじめの被害者;さらにEx. ホームレス同士のいじめ)、
④健康な生活にアクセスする権利を保障され医療的サポートを受ける(Ex. 健康保険)ことができない、
④-2精神的疾患(Ex. 知的障害;Ex. 借金癖;Ex. アルコール中毒;Ex. 賭け事中毒)、
④-3身体的健康問題(Ex. 薬品アレルギーによる失業;Ex. てんかん;Ex. 高齢化による貧困・ホームレス化;Ex. ホームレスであることによる不潔・劣悪な環境・社会的放置が疾病を引き起こす)など。

(b)「自由」とは「選択や意思決定の自律性」である。しかし、浮浪者は社会的・経済的・健康的制約によって「選択や意思決定の自律性」(「自由」)が制限される。また浮浪者は社会的孤立、差別、暴力のリスクなどの問題にも直面する。

(c)このような状況下で浮浪者が「自由」を享受していると主張するのは誤りだ。
(c)-2 浮浪者の問題を解決するには、「社会的なサポート」(包括的な支援や保護の仕組み)が必要だ。それによって彼らが①自立つまり十分な「機会」(Ex. 就労)を獲得し、①-2「貧困」から解放され、①-3基本的なニーズ(Ex. 衣食住)を満たし、②安定した環境(Ex. 住宅)を得て住居不安がなくなり、③「社会的孤立」から救われ、社会的なつながりを持てるようになり、④健康な生活にアクセスする権利を保障されて医療的サポートを受け(Ex. 健康保険)、かくて④-2精神的疾患の治療を受け、また④-3身体的健康問題の解決に向かえる。
(c)-3 このような取り組みつまり「社会的なサポート」によって、言いかえれば「浮浪者が浮浪者でなくなる」ことによってのみ、浮浪者の「自由」(選択や意思決定の自律性)が実現される可能性が高まる。

《感想2》「ChatGPT」の回答に含まれなかったが、「浮浪者」になる原因につては、(ア)「怠惰」こそが最大の要因だ、彼らは「怠け者」だという意見も多い。その上、(イ)彼らは「無能」だから浮浪者になったのだとの意見もある。これらは、この世は「弱肉強食」「優勝劣敗」だという「社会ダーウィニズム」の立場だ。「浮浪者」は「怠惰」で「無能」だとされる。
Cf. 「無能」な人間(or人種・民族・国家)はたとえ「怠惰」でなく、いくら切磋琢磨し「努力」しても「優秀」な人間(or人種・民族・国家)に勝てないと「社会ダーウィニズム」は主張する。。
Cf.  貧困者・敗者・奴隷・低学歴・非差別集団所属等は、「怠惰」かつ「無能」の結果だと「社会ダーウィニズム」は主張する。
Cf. 「怠惰」かつ「無能」の結果でなく、「親ガチャ」が貧困者・敗者・奴隷・低学歴・非差別集団所属等の原因のひとつだとの見方もある。(Ex. 奴隷制社会の奴隷、封建制社会の下級武士・農奴・農民、資本制社会の貧困者。)「親ガチャ」とは子供が親を選べないことをガチャに例えたコトバ。①生まれもった容姿や能力(親からの遺伝)、②家庭環境(親の経済力・社会的地位)によって人生が大きく左右されることだ。
《感想2-2》「社会ダーウィニズム」には「人間同士が助け合う」との見方はない。大乗仏教的「慈悲」の立場とも無縁だ。むき出しの権力支配・暴力支配・金権支配こそ人間社会だと考える。切磋琢磨する「優秀な者」(エリート)たちが権力・暴力・金力を独占し、怠惰で無能な「劣等者」を支配or放置する。これこそが社会の実際の姿だと「社会ダーウィニズム」は主張する。
《感想2-3》「社会ダーウィニズム」はダーウィンの生物進化論を社会現象に適用する。生物学の「生存競争」における「適者生存」の理論を拡大解釈し、社会進化における「自然淘汰」説を唱える。
《感想2-4》「社会ダーウィニズム」はEx. ①利潤追求・経済的成功の正当化や、②「優秀な」人種・民族の支配・征服の合理化(Ex. ナチズムの人種理論)、③「劣等者」を絶滅する優生学,また④強大な国家による支配・制服としての「帝国主義」の思想的正当化の一翼をになった。

《感想3》「無能」と言われ、また「親ガチャ」がアンラッキー(不運)であっても、ともかく生き抜かねばならない。この世が「弱肉強食」「優勝劣敗」であることは事実だが、しかし時に「渡る世間に鬼はない」、「地獄で仏」、「袖すれ合うも他生の縁」、「魚心あれば水心」ということもあり、善いor良い人と出会う可能性もある。
《感想3-2》苛烈な「いじめ」、不幸な「DV」もある。生き抜ければよいが、不幸にも力尽きることもある。

Cf.  阿川弘之の小説『ぽんこつ』(1960)ではハンマーで古い自動車を解体している様子を「ぽん、こつん。ぽん、こつん。」と表現した。これが話題となり「ぽんこつ」は古く故障が多い自動車さらに機械類、ひいては「役に立たない人間」を指すようになった。
Comment
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする