DIARY yuutu

yuuutunna toki no nikki

橋本多佳子(1899-1963)「夏書(ゲガキ)の筆」(『海彦』1957年所収):経文を写経した心が受け入れられない不安!

2023-02-19 19:44:36 | 日記
「炎天や笑ひしこゑのすぐになし」悲しい炎天。夏は静かだ。笑いがすぐに消える。
「踊り唄終りを始めにくりかえし」くりかえす出来事の平和。しかしくりかえすのみの単調。
「夏書(ゲガキ)の筆措けば乾きて背くなり」経文を写経した心が受け入れられない不安。
「ひしひしと声なき青田行手に満ち」無言の青田の不穏。行手の不分明。
「舷燈の一穂(イッスイ)に火蛾(ヒガ)海渡る」舷側(ゲンソク)の灯りに寄る火蛾。海を渡って行くが先は不明。
「万緑や石橋に馬乗り鎮むる」万緑の勢い。生命の力!だがやがて枯れる。
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茨木のり子(1926-2006)「存在」(『歳月』2007、所収):いきものの愛とは、「透明な気と気が触れあっただけのような」ものだ!「いきものはすべてそうして消え失せてゆく」!

2023-02-14 20:14:05 | 日記
  「存在」     茨木のり子

あなたは もしかしたら
存在しなかったのかもしれない
あなたという形をとって 何か
素敵な気がすうっと流れただけで

わたしも ほんとうは
存在していないのかもしれない
何か在りげに
息などしてはいるけれども

ただ透明な気と気が
触れあっただけのような
それはそれでよかったような
いきものはすべてそうして消え失せてゆくような

《感想1》ひとりの女性の詩人の最晩年の詩。愛する人(「あなた」)と《この世》で出会えたという出来事についての喜びの詩。愛する「あなた」はすでに亡くなった。やがて「わたし」も死に消え去るだろう。だが「あなた」と「わたし」が「消え失せてゆく」ことが、ふたりの出会いを《無効》にしない。「透明な気と気が触れあった」ことはおそらく確かだ。「それでよかった」!
《感想2》愛する「あなた」とは何か?あなたとは「素敵な気」だ。それが「あなたという形」をとって《この世》に出現した。だが「形」は消え去る。「あなた」は《この世》(物世界)に属す身体としては「存在しなかった」のかもしれない。だが「あなた」は「形」のない「透明な気」として確かに存在した。「すうっと流れた」!
《感想3》「わたし」もやがて消え去る「形」にすぎない。今は「何か在りげに息などしてはいる」わたしも、物世界に属す身体としては実は「存在していないのかもしれない」。
《感想4》いきものの愛とは、「透明な気と気が触れあっただけのような」ものだ。でも「それはそれでよかった」のだ。「いきものはすべてそうして消え失せてゆく」。
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『唯識(下)』多川俊映、第12回 人人(ニンニン)唯識:認識される世界は人それぞれ!「能変の心」(※構成する超越論的主観性)と「所変の境」(※構成された意味としての「境」=認識対象)! 

2023-02-12 12:47:05 | 日記
『唯識(下)心の深層をさぐる』(NHK宗教の時間)多川俊映(タガワシュンエイ)(1947生)2022年

第12回 人人(ニンニン)唯識
(22)自分が世界の開けである。自分が存在しなければ世界は存在しない!「自分《と》世界」ではなく、「自分《が》世界」である!(池田晶子) 
L  これまで見たように唯識仏教は「人人(ニンニン)唯識」つまり「認識される世界は人それぞれ」と述べる。「心」は「能変の心」(※構成する超越論的主観性)であり、認識対象の「境」も「所変の境」(※構成された意味としての「境」=認識対象)である。(122頁)
L-2  カエサル(前100-前44)は「人は見たいものだけ見る」と言った。(125頁)
L-2-2  哲学者の池田晶子氏(1960-2007)が『知ることより考えること』(新潮社)で次のように言う。
「自分と世界」と人は言う。見える(※触れられる「物」としての)世界が先に在り、それを自分が見ている(※「物」としての「身体」において触れている)のだと、こう思うわけである。世界は、視界は(※触れる触れられるという出来事において)、必ず自分から開けている。自分が世界の開けである。自分が存在しなければ世界は存在しないのである。だから「自分《と》世界」なのではなくて、「自分《が》世界」なのである。(125頁)

《感想1》評者は、池田晶子氏は次のように言うべきだったと思う。
「自分と世界」と人は言う。触れられる「物」としての(※見える)世界が先に在り、それを自分が「物」としての「身体」において触れている(※見ている)のだと、こう思うわけである。世界は、触れる触れられるという出来事(※視界)において、必ず自分から開けている。自分が世界の開けである。自分が存在しなければ世界は存在しないのである。だから「自分《と》世界」なのではなくて、「自分《が》世界」なのである。
《感想2》「触れる触れられるという出来事」が「物」の開け(そのものとしての「現象」の出現)である。「触れる触れられるという出来事」の境界面に「物」が「相互に他である」という出来事として出現する。この
「相互に他である」物の一方が《「身体」としての物》と呼ばれ、他方が《単なる「物」》と呼ばれる。視覚・聴覚・嗅覚・味覚はいわば「物」の属性を「現象」として出現させる。
《感想3》《「身体」としての物》すなわち「有根身」(ウコンジン)は感覚器官として五根のほかに「意根」(脳神経)を持つ。「意根」(脳神経)のはたらきが「意識」であり「八識」(前五識・第六意識・第七末那識・第八阿頼耶識)である。

《参考》「六識」は根(感覚器官)と境(認識対象)の違いによって、眼(ゲン)識(眼ゲン根・色シキ境)、耳(ニ)識(耳ニ根・声ショウ境)、鼻識(鼻根・香境)、舌識(舌根・味境)、身(シン)識(身根・触境ソクキョウ)(※唯識の前五識に相当する)、さらに意識(意根・法ホッ境)(※唯識の第六意識に相当する)からなる。「意識」の感覚器官(「意根」)といっても、「意識」(心)には感覚器官がない。かくて倶舎仏教は、現在の《認識の直前に滅した眼識ないし意識》を「意根」とみなした。(現代風には「意根」とは脳神経かもしれない。)(上45-46頁)
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『唯識(下)』多川俊映、第11回 五姓各別 唯識の成仏論:「五姓(ゴショウ)各別」説に対し、「一乗仏教」は「一姓皆成仏」の説だ!「無姓(ムショウ)有情」の人々は「本有の無漏種子」をもたない!

2023-02-11 16:25:05 | 日記
『唯識(下)心の深層をさぐる』(NHK宗教の時間)多川俊映(タガワシュンエイ)(1947生)2022年

第11回 五姓各別 唯識の成仏論
(21) 唯識仏教は、「仏道」(仏となる道筋)を、「有漏(ウロ)の八識による誤謬に満ちた認識から、無漏(ムロ)の四智(シチ)による真実相の洞察へ」という「転識得智」(テンジキトクチ)の道として示す! 
J  日常の「八識」(前五識・第六意識・第七末那識・第八阿頼耶識)による認識という「有漏」(ウロ)(「不善心に誘導された愚迷の状況」また「不善の煩悩」)にして誤謬に満ちた「迷いの世界」からどう離脱するのか?あるいは「影像(ヨウゾウ)」(心の中に描き出された像)でなくものごとやことがらの「真実相」にどうすれば近づけるのか?(103頁)
《参考1》 唯識仏教においては、「心」は「能変の心」(※構成する心)であり、認識対象(「境」)は「所変の境」(※構成された対象的意味)である。(上72頁)
《参考2》誤謬があり・私たちが仏の世界に近づくのを妨げるものを、仏教では「漏(ロ)」(「有漏(ウロ)」)という。仏教は、そうしたものが取り除かれた「無漏(ムロ)」を求める。したがって仏道とは「有漏(ウロ)から無漏(ムロ)へ」の道程だ。(上124-125頁)

J-2  「仏教の三義」(仏による教え、仏という教え、仏に成る教え)の内、「仏に成る教え」こそ仏教のもっとも本質的な意味だ。 (103-104頁) 
J-2-2  唯識仏教は「仏道」(仏となる道筋)を、「有漏(ウロ)の八識による誤謬に満ちた認識から、無漏(ムロ)の四智(シチ)による真実相の洞察へ」という「転識得智」(テンジキトクチ)の道として示している。(105頁)
《参考》「四智」(シチ)は次の四つだ。(上124頁)
①第八阿頼耶識(「初能変」)からの脱却である「大円鏡智」(ダイエンキョウチ):過去の体験や経験という一切のしがらみを捨て、鏡のように、すべてのものをありのままに映し出す智慧。
②第七末那(マナ)識(「第二能変」)からの脱却である「平等性智」(ビョウドウショウチ):自分の都合(自己中心性)ではなく、平等にものを見る智慧。
③第六意識(「第三能変」)からの脱却である「妙観察智」(ミョウカンサッチ):自我によるバイアスを去り、対象を十分に観察する智慧。
④前五識(「第三能変」)からの脱却である「成所作智」(ジョウショサチ):煩悩・随煩悩にとらわれず状況を把握した上で、やるべきことをやる智慧。

(21)-2 「一切衆生(イッサイシュジョウ)悉有仏性(シツウブッショウ)」、「一切衆生悉皆成仏(シッカイジョウブツ)」:「一乗仏教」!
K 大乗を標榜する仏教各派は「誰もが仏となる可能性を持つ」と述べる。『涅槃経』(ネハンギョウ)に「一切衆生(イッサイシュジョウ)悉有仏性(シツウブッショウ)」(一切衆生は、悉(コトゴト)く仏性を有する)とある。(107頁、109頁)
K-2  また「一切衆生悉皆成仏(シッカイジョウブツ)」(一切衆生は悉く皆、成仏する)とされる。(107頁)
K-3  そして「仏となるべき教え」は「一つ」である、つまり「一乗」(一仏乗)だとする。このような見解に立つ大乗仏教が「一乗仏教」である。(109頁)

《参考》「一乗」(イチジョウ)は「一つの乗り物」の意。「乗(乗り物)」は、人々を乗せて仏教の悟りに赴かせる教えをたとえていったもの。仏教にはさまざまな教えがあるが、いずれも仏が人々を導くための手段として説いたもので、真の教えはただ一つ(「一乗」)であり、その教えによってすべてのものが等しく仏になると説く。この主張はとくに『法華経』で強調されている。すなわち、仏の教えは人々の資質や能力に応じて声聞(ショウモン)乗(仏弟子の乗り物)、縁覚(エンガク)乗(独覚乗)(ひとりで覚サトる者の乗り物)、菩薩乗(自分が仏になるとともに、他をも悟りに至らせる大乗の求道グドウ者の乗り物)の「三乗」に分けられるが、この三乗は一乗(一仏乗)に導くための方便にすぎず、すべて真実なる「一乗」に帰すと説く。この「一乗」の思想は大乗仏教の精髄として後代の仏教に大きな影響を与えた。(小学館『日本大百科全書ニッポニカ 』参照)

(21)-3 唯識仏教は「一乗仏教」の見地に立たず、「三乗仏教」(後述)の見地に立つ!一切衆生(イッサイシュジョウ)は①「理仏性」(「真如」)すなわち「現象世界の本質」のなかにある!
K-4  唯識仏教は「一乗仏教」の見地に立たない。(「三乗仏教」の見地に立つ。後述。)つまり「誰もが仏になることができる」という立場にたたない。唯識仏教は、人はそれぞれ様々な形態で生存しており、つまり「心」は「能変の心」(※構成する心)であり、認識対象(「境」)は「所変の境」(※構成された対象的意味)であるので、そうした差異を見逃してはならないと見る。(109-110頁)
K-4-2  こうした人間考察からすると、唯識仏教は、「仏性」(ブッショウ)(「一切衆生悉有仏性」)あるいは「成仏」(ジョウブツ)(「一切衆生悉皆成仏」)ということについて、現実を重視するスタンスとなる。(110頁)

(21)-3-2 「仏性」(ブッショウ)の二義:①「理仏性」(リブッショウ)と②「行仏性」(ギョウブッショウ)!①「理仏性」(リブッショウ)とは「現象世界の本質」つまり「真如」のことであり、一切衆生(イッサイシュジョウ)もこの「真如」(「理仏性」)のなかにある! 
K-5  唯識仏教は「仏性」(ブッショウ)について、①「理仏性」(リブッショウ)と②「行仏性」(ギョウブッショウ)を区別する。(110頁)
K-5-2 ①「理仏性」(リブッショウ)とは「現象世界の本質」つまり「真如」のことだ。この世界に存在するものすべては、世界の本質の「真如」に包み込まれている。一切衆生(イッサイシュジョウ)もこの「真如」(「理仏性」)のなかにある。これが「一切衆生悉有仏性」あるいは「一切衆生悉皆成仏」の意味とされる。(110-111頁)
K-5-3  ちなみに「仏十号」といって仏陀には様々な呼び名がある。その中に(a)「如来(タターガタ)」がある。これは「真如から来た者」という意味だ。(111頁)
K-5-3 -2 すなわち(a)-2 「定仏」(ジョウブツ)とは、現象世界の本質たる「真如」を、覚(サトリ)の智慧(「四智」)で見定めることであり、見定めたならば「真如」と一体化したのであり、そこから出て教えを説けば「如来」である。(111頁)
K-5-3 -3 (b)教えを説き終え「如来」が真如の世界に去れば、「如去」(ニョコ)である。「如去」もまた仏陀の別称である。(111頁)

(21)-3-3 ②「行仏性」(ギョウブッショウ):仏性(ブッショウ)にかかわる「無漏(ムロ)の種子(シュウジ)」の有無の問題!Cf. 「五姓各別」(ゴショウカクベツ)説と「本有の無漏種子」(後述)!
K-5-4 「仏性」(ブッショウ)の内、②「行仏性」(ギョウブッショウ)は、現実に仏教を日常に活かし得るかどうかにかかわるものだ。(111頁)
K-5-4-2 唯識の行為論は、「種子と現行」で考えるので、「仏性にかかわる種子」つまり「無漏(ムロ)の種子」の有無が問題だ。(111頁)
Cf. 唯識仏教の「五姓各別」(ゴショウカクベツ)説は、私たちの生存基盤の第八阿頼耶識に、声聞や独覚あるいは菩薩にかかわる「本有(ホンウ)の無漏種子(ムロシュウジ)」がそなわっているかどうかということによって、その実現可能な「覚」(サトリ)のレベルの内容が違うと主張する。(116頁)

《参考》(8)-4 第八識(第八阿頼耶識)(※超越論的主観性)は「種子」(シュウジ)つまり「過去の行為行動の情報・残存気分」(※類型的知識)を所蔵する!原因である「種子」(シュウジ)に対して、「現行」(ゲンギョウ)は結果になる:「種現(シュゲン)因果」!
U 第八意識に所蔵された「種子」(シュウジ)つまり「過去の行為行動の情報・残存気分」(※類型的知識)は、単なる過去の行動情報でなく、事後ないし将来にわたって条件(「縁」)が整えば、類似の行動(「現行」ゲンギョウ)を発出する潜勢力でもある。(上62頁)
U-2  これが唯識仏教の、阿頼耶識(アラヤシキ)をめぐる「縁起」の考え方だ。(上62頁)
U-2-2 新たに引き起こされた類似の行為行動は「現行」(ゲンギョウ)と呼ばれる。かくて原因の「種子」(シュウジ)に対して、「現行」(ゲンギョウ)は結果になる。これを唯識では「種現(シュゲン)因果」という。(上62頁)
U-3  しかし同時に、「当面ではあるが自己そのものといってよい第六意識」こそ、日常生活者としては重要だ。
つまり「深層の阿頼耶識に所蔵される過去の行動情報」である「種子」(シュウジ)がそのまま再現されるのではない。「自覚的な心の第六識」の覚悟こそ明日の自己を改造する。第六識こそ、自己を育み・成長させるものであると思い定めたい。(多川俊映氏)(上63頁)

K-5-5 唯識は「三乗仏教」である。三乗(※三つの教法or修行者の性質)とは「声聞乗」(シヨウモンジヨウ)(※師の声に導かれ仏法を修行する)、「独覚乗」(ドッカクジョウ)(「縁覚乗」エンガクジヨウ)(※師によらずして独力で仏法を修行する)、「菩薩乗」(ボサツジョウ)(※自分が仏になるとともに、他をも悟りに至らせる)である。(111-112頁)

《参考》「乗」は人間が悟りの境界へ至るための「乗物」(教法or修行者の性質)である。「声聞」(ショウモン)・「縁覚」は自利、「菩薩」は自利利他とする。縁覚と声聞をあわせて 二乗 という 。 大乗仏教(「一乗仏教」) においては、声聞乗と縁覚乗の二乗は 「小乗」 の立場を表し、「大乗(菩薩乗)」よりも劣るとされる 。 ただし、この 三乗 すべてが 一乗 (一仏乗)に帰すとされる 。

(21)-3-3-2 ②「行仏性」(ギョウブッショウ)(続):「三乗仏教」の見地に立つ唯識仏教は「五姓各別」(ゴショウカクベツ)説をとり、「一乗仏教」は「一姓皆成仏」の説をとる!「無姓(ムショウ)有情」の部類の人々は、我執も法執(ホッシュウ)も滅却できず、永く欲望に支配され続ける、つまり彼らは第八阿頼耶識に、声聞や独覚あるいは菩薩にかかわる「本有の無漏種子」がそなわっていない!
K-5-6 「三乗」をめぐって、唯識では、一切の有情(一切衆生)をその「種姓(シュショウ)」(もって生まれた資質・素質)によって5つに分類する。これは「一姓皆成仏」の説(大乗仏教にほぼ共通)と異なる立場で、唯識仏教は「五姓各別」(ゴショウカクベツ)説である。(112頁)

《参考1》唯識仏教は「一乗仏教」の見地に立たない。「三乗仏教」の見地に立つ。つまり「誰もが仏になることができる」という立場にたたない。唯識仏教は、人はそれぞれ様々な形態で生存しており、つまり「心」は「能変の心」(※構成する心)であり、認識対象(「境」)は「所変の境」(※構成された対象的意味)であるので、そうした差異を見逃してはならないと見る。こうした人間考察からして、唯識仏教は、「仏性」(ブッショウ)(「一切衆生悉有仏性」)あるいは「成仏」(ジョウブツ)(「一切衆生悉皆成仏」)ということに関して、現実を重視するスタンスをとる。(110頁)
《参考2》法相宗などの「三乗家」(「三乗仏教」)は衆生が生まれながらに具えている素質に基づき、「菩薩定姓(ジョウショウ)」・「縁覚(独覚)定姓」・「声聞定姓」・「不定姓」(「不定種姓」フジョウシュショウ)・「無種姓」(「無姓ムショウ有情)の五種類に区別する「五姓各別」を説く。五姓の内、菩薩定姓と、不定姓の中の菩薩になれる者だけが仏果を得られると説く。
《参考2-2》これに対し華厳宗や天台宗などの「一乗家」(「一乗仏教」)は「すべての衆生に仏性が具わっている」という「悉有仏性」説を用い、成仏できない者はいないとする。すなわち「一乗家」(「一乗仏教」)は「一切皆成仏」(イッサイカイジョブウツ)、つまり「すべての衆生は仏になることが可能である」という説をとる。

K-5-6-2  さて唯識仏教の「五姓各別」(ゴショウカクベツ)説は一切の有情(一切衆生)をその「種姓(シュショウ)」(もって生まれた資質・素質)によって5つに分類する。①「声聞定姓(ジョウショウ)」、②「独覚定姓」、③「菩薩定姓(ボサツショウジョウ)」、④「不定種姓(フジョウシュショウ)」、⑤「無姓(ムショウ)有情」。(112頁)

K-5-6-3 さて「五姓各別」(ゴショウカクベツ)の類別は、「覚」(サトリ)の内容を基準にする。そもそも「覚」(サトリ)は、一方で(a)《我執(ガシュウ)(自我に対する執着)によって引き起こされる「煩悩障」(ボンノウショウ)》の断滅としての「涅槃」(ネハン)(身心ともに安穏で寂静に至った境地)であり、他方で(b)《法執(ホッシュウ)(ものごと、ことがらにかかわる執着)から引き起こされる「所知障」(ショチショウ)》の断滅としての「菩提」(ボダイ)(四智;覚の智慧;転識得智の智慧)である。仏陀の「覚」(サトリ)の境地は「涅槃」と「菩提」からなる。(113頁)
K-5-6-3-2 つまり「菩提」における覚の智慧(四智)は現象世界の本質(真如)の洞察によって、「涅槃」といわれる安穏で静寂な時空が一気に拡がる。これが仏陀の「覚」(サトリ)の境地である。(113頁)

K-5-6-4 唯識仏教は、仏陀が証得されたと同等の「覚」(サトリ)の境地にいたるだけの資質を持っているか、一切の有情(一切衆生)をその「種姓(シュショウ)」(もって生まれた資質・素質)によって分類する。「五姓各別」(ゴショウカクベツ)説!
K-5-6-4-2 ③「菩薩定姓(ジョウショウ)」(の人々)は「煩悩障」(ボンノウショウ)と「所知障」(ショチショウ)を乗り越え、「涅槃」と「菩提」の覚の境地に至るだけの資質・素質を持つ。③-2 つまり「菩薩定姓(ジョウショウ)」(の人々)は覚に直結する「本有(ホンウ)無漏種子」を本来的に持つ人たちだ。(114-115頁)

K-5-6-4-3 ①「声聞(ショウモン)定姓(ジョウショウ)」(の人々)は「煩悩障」(ボンノウショウ)だけは断ち切ることができる資質を持つ。つまり「我執」によって引き起こされる「煩悩障」の断滅としての「涅槃」に(だけは)至ることができる。「声聞定姓」(の人々)は仏・高徳の師・善き先輩・同朋などの指導や示唆の声を聞いて仏教的人生を歩む。(「声聞乗」!)(115頁)※かくて「声聞定姓」(の人々)は、法執(ホッシュウ)(ものごと、ことがらにかかわる執着)から引き起こされる「所知障」(ショチショウ)の断滅としての「菩提」(四智;覚の智慧;転識得智の智慧)には至れない。
K-5-6-4-4 ②「独覚(ドッカク)定姓(ジョウショウ)」(縁覚定姓)(の人々)も「煩悩障」(ボンノウショウ)だけは断ち切ることができる資質を持つ。「独覚(縁覚)定姓」(の人々)は師友を頼らず独力で「我執」を断滅し「煩悩障」を乗り越え「涅槃」に(だけは)至ることができる。(「独覚(縁覚)乗」!)(115頁)※かくて「独覚(縁覚)定姓」(の人々)は、法執(ホッシュウ)(ものごと、ことがらにかかわる執着)から引き起こされる「所知障」(ショチショウ)の断滅としての「菩提」(四智;覚の智慧;転識得智の智慧)には至れない。
K-5-6-4-4-2 ①「声聞(ショウモン)定姓(ジョウショウ)」(の人々)と②「独覚(ドッカク)定姓(ジョウショウ)」(縁覚定姓)(の人々)は、どちらも「我執」を制御・滅却する素質にかかわる「本有(ホンウ)の無漏種子」がある。(115頁)※「本有(ホンウ)」とは、「資質・素質として本来的に有している」ことだ。

K-5-6-4-5 ④「不定種姓(フジョウシュショウ)」(の人々):①「声聞(ショウモン)」・②「独覚(ドッカク)」(縁覚)・③「菩薩」のうち、2種以上の資質を兼ね備え、そのいずれの方向に進むか決定されていない部類の人々だ。この「不定種姓(フジョウシュショウ)」(の人々)には(1) 声聞と菩薩の二姓(ニショウ)不定(フジョウ)、(2) 独覚と菩薩の二姓不定、(3) 声聞と独覚と菩薩の三姓不定、(4) 声聞と独覚の二姓不定の4類がある。(1)(2)(3)の部類は、「煩悩・所知の二障」を制して円満な「覚」(サトリ)に至りうる菩薩の資質(本有無漏種子)を備えている。(115-116頁)
Cf. (4) 声聞と独覚の二姓不定の部類の人々は、我執を断滅し「煩悩障」を乗り越え「涅槃」に至ることができるが、法執(ホッシュウ)(ものごと、ことがらにかかわる執着)から引き起こされる「所知障」(ショチショウ)の断滅としての「菩提」(四智)には至れない。
K-5-6-4-6 唯識仏教の「五姓各別」(ゴショウカクベツ)説は、私たちの生存基盤の第八阿頼耶識に、声聞や独覚あるいは菩薩にかかわる「本有の無漏種子」がそなわっているかどうかということによって、人々ごとにその実現可能な「覚」(サトリ)のレベルの内容が違うと主張する。(116頁)
K-5-6-4-7 そして⑤「無姓(ムショウ)有情」(の人々)は、我執も法執(ホッシュウ)も滅却できず、永く欲望に支配され続ける人々(有情)の部類だ。(116頁)※⑤「無姓(ムショウ)有情」の部類の人々は、生存基盤の第八阿頼耶識に、声聞や独覚あるいは菩薩にかかわる「本有(ホンウ)の無漏種子(ムロシュウジ)」がそなわっていない。
K-5-6-4-8 大乗仏教各派にほぼ共通する(一切衆生)悉有仏性(シツウブッショウ)や(一切衆生)悉皆成仏(シッカイジョウブツ)という一仏乗の考え方(「一姓皆成仏」の説)からすれば、三乗はともかく受け入れるが、いかなる「覚」(サトリ)や心のやすらぎにも至りえない「無姓(ムショウ)有情」の一類を立てる「五姓各別」(ゴショウカクベツ)説は、およそ受け入れがたいだろう。(多川俊永師)(116頁)

《参考》唯識は「三乗仏教」である。三乗(※三つの教法or修行者の性質)とは「声聞乗」(シヨウモンジヨウ)(※師の声に導かれ仏法を修行する)、「独覚乗」(ドッカクジョウ)(「縁覚乗」エンガクジヨウ)(※師によらずして独力で仏法を修行する)、「菩薩乗」(ボサツジョウ)(※自分が仏になるとともに、他をも悟りに至らせる)である。(111-112頁)

(21)-3-4 「五姓各別」(ゴショウカクベツ)、とりわけ「無姓(ムショウ)有情」の一類を取り上げる唯識の見解は「外ならぬこの〈私〉はどうなのか」という厳しい自己凝視とのかかわりにおいてこそ、取り上げられるべきものだ!(118頁)
K-6  「一姓皆成仏」の説と「五姓各別」(ゴショウカクベツ)の説のどちらが仏陀の真意に適っているか、古来論争された。「一姓皆成仏」の説は、理を重視し・理想主義的に衆生を包摂していこうとする立場だ。唯識の「五姓各別」(ゴショウカクベツ)の説は理を重視しつつも・現実の状況や差異を直視しようとする立場だ。(117頁)
K-7  多川俊永師の見解によれば、「五姓各別」(ゴショウカクベツ)、とりわけ「無姓(ムショウ)有情」の一類を取り上げる唯識の見解は実に、「他者をはかる尺度」でも「冷徹に分類分けする」ものでもない。むしろ「外ならぬこの〈私〉はどうなのか」という厳しい自己凝視とのかかわりにおいてこそ、取り上げられるべきものだという。(118頁)
K-7-2  「この〈私〉はどうなのか」という厳しい自己凝視とのかかわりにおいて、〈私〉は「悉有仏性」(シツウブッショウ)と聞き、さらに「悉皆成仏」(シッカイジョウブツ)と聞く時、「こんな自分にも仏性があるのだ」と思い、その時はただただ歓喜する。その高揚した気持ちが、仏道への心を発(オコ)す大きなきっかけとなる。(117頁)
K-7-3 だが仏道の道は平たんでない。(ア)「欲望」を慎むのは難しく、(イ)「散心(サンジン)から定心(ジョウシン)へ」の道筋も困難で心を一境(一つの認識対象)に集中できない、(ウ)「名利」(名聞ミョウモンと利養;よい評価と実利)を追い求める、その揚句(エ)涅槃と菩提に通ずる仏道に「退屈」(退き屈する)・・・・、ここで撤退すればこの〈私〉こそ、いかなる「覚」(サトリ)や心のやすらぎにも至りえない「無姓(ムショウ)有情」ではないかと深く沈みこむ。(117-118頁)。
K-7-4 解脱上人貞慶は「自己凝視による愚の徹底」の中に、「済度(仏菩薩の救済)への強烈な思い」が生じ、いわば「有漏(ウロ)から無漏(ムロ)への転回点」が見いだされると言う。(118-119頁)
K-7-4-2 「愚なるを以て、還(カエ)って知んぬ、大乗の姓(ショウ)あることを。猶(ナオ)、趣寂(シュジャク)にあらず、況(イワ)んや無姓(ムショウ)たらんや。」(貞慶『法相心要抄』)――自己の愚迷さを見定め「還って知った」。仏陀に通ずる大乗の資質(姓ショウ)がこの自分にあることを。その資質は「趣寂」(声聞と独覚)でなく、ましてや「無姓(ムショウ)有情」でもない。(117-118頁)。

K-7-4-3 ただし仏陀に通ずる「大乗菩薩定姓(ジョウショウ)」の本有無漏種子(ホンウムロシュウジ)も、「声聞定姓(ジョウショウ)」や「独覚定姓」(ドッカクジョウショウ)となる本有無漏種子も、第八阿頼耶識に蔵されるので、それら本有無漏種子の有無は、自覚されないし、他者が認定することもできない。(120頁)
K-7-4-3-2 唯識仏教の「五姓各別」(ゴショウカクベツ)の部類分けは、「この自分はどうなのか」という厳しい自己凝視の下でのみ取り扱われるべきだ。(120頁)

《参考1》唯識仏教の最深層の無意識である「阿頼耶識」は「不可知」である。(上57頁)

《参考2》 唯識仏教の「五姓各別」(ゴショウカクベツ)説は一切の有情(一切衆生)をその「種姓(シュショウ)」(もって生まれた資質・素質)によって5つに分類する。①「声聞定姓(ジョウショウ)」、②「独覚定姓」、③「菩薩定姓」、④「不定(フジョウ)種姓(シュショウ)」、⑤「無姓(ムショウ)有情」。(112頁)
《参考2-2》③「菩薩定姓」は、「煩悩障」(ボンノウショウ)と「所知障」(ショチショウ)を乗り越え、「涅槃」と「菩提」の覚の境地に至るだけの資質・素質を持つ。つまり「菩薩(ボサツ)定姓(ジョウショウ)」は覚(サトリ)に直結する「本有(ホンウ)無漏(ムロ)種子(シュウジ)」を本来的に持つ人たちだ。(114-115頁)
《参考2-3》①「声聞(ショウモン)定姓(ジョウショウ)」と②「独覚(ドッカク)定姓(ジョウショウ)」(縁覚定姓)は、どちらも「我執」を制御・滅却する素質にかかわる「本有(ホンウ)の無漏種子」である。(115頁)

《参考3》「本有(ホンウ)」とは、「(第八阿頼耶識のうちに)資質・素質として本来的に有している」ことだ。

《参考4》「種子(シュウジ)」は、過去の行為・行動(「現行」ゲンギョウ)の情報(印象・気分なども含む)が深層の第八意識に送り込まれ・植え付けられ・蓄積されたものだ。この心的メカニズムは「熏習」(クンジュウ)(移り香)と呼ばれる。こうした過程は「現行熏種子(ゲンギョウクンシュウジ)」と呼ばれる。「現行」(ゲンギョウ)は済めばその「種子」(シュウジ)(行動情報)を第八阿頼耶識に「熏習」(クンジュウ)する。第八阿頼耶識には「種子」(シュウジ)がプールされる。かくて第八識は「一切種子識」とも言われる。(上34-35頁)

《参考5》(20)-3 「有漏(ウロ)種子(シュウジ)」と「無漏(ムロ)種子(シュウジ)」:「本有」(ホンヌ)か「新熏」(シンクン)か?
D-4-2  「不善心に誘導された愚迷の状況」また「不善の煩悩」は、「漏」(ロ)または「有漏」(ウロ)という。(上68頁)
D-4-3  この日常では「種子」(シュウジ)も「現行」(ゲンギョウ)も概ね、「有漏」(ウロ)である。(上68頁)
D-5  だが仏教の唯識説の立場が求めるのは「有漏といういわば汚れた日常」からの「離脱」だ。めざすべきは「覚(サトリ)」の境地だ。(上68頁)
D-5-2  かくて「有漏(ウロ)種子」でなく「無漏(ムロ)種子」というものがめざされる。(上68頁)
D-5-3  「有漏」・「無漏」の2種子について、「本有」(ホンヌ)(私たちの中に本来備わったもの)か「新熏」(シンクン)(行為の変容などによって新たに熏習クンジュウされたもの)なのか古来、さまざまに論じられてきた。(上68頁)
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『唯識(下)』多川俊映、第10回 第八阿頼耶識をめぐって②(続):「有根身」の消滅(死)で、意識する宇宙(モナド)である「第八阿頼耶識」が消滅する!他方、「第八阿頼耶識」の「霊魂」化!

2023-02-07 16:19:08 | 日記
『唯識(下)心の深層をさぐる』(NHK宗教の時間)多川俊映(タガワシュンエイ)(1947生)2022年

第10回 第八阿頼耶識をめぐって②(続)
(20)-10 唯識仏教(多川俊永師)では、「有根身」の消滅(死)においても、そして「有根身」と「器界」が属す《「物」および「物世界」》が意識化されることがなくなっても、第八阿頼耶識が言わば「霊魂」のように存在する!
G  評者の見解では、「識体」(心)(第八阿頼耶識)(※超越論的主観性)(※生命)とは、すなわち「現象」(「自体分」)である世界(宇宙)そのものが、みずから意識すること(「見分」と「相分」に分化すること)だ。「識体」(心)(※超越論的主観性)(※生命)は、意識する世界(宇宙)そのものだ。
G-2  「意識」の感覚器官(「意根」)は、「有根身」における「脳神経」である。「有根身」の消滅(死)において、意識する宇宙(モナド)(《本識》である第八阿頼耶識)も消滅する。(評者の見解)

G-3 第八識(第八阿頼耶識)(※超越論的主観性)が所蔵するものは「種子」(シュウジ)(「過去の行為行動の情報・残存気分」(※類型的知識)、また「有根身(ウコンジン)」(肉体)とそれを取り囲む「器界」(器世間)(自然など)である。(上61頁)
G-3-2  多川俊永師は、「意識」(《本識》としての第八阿頼耶識)の感覚器官(「意根」)は、「有根身」における「脳神経」である(上46頁)とするが、「有根身」の消滅(死)において、《本識》である第八阿頼耶識(※意識する宇宙)(※モナド)も消滅すると言わない。(83頁)
G-3-3  多川俊永師は、「有根身」の消滅(死)においても、そして「有根身」と「器界」が属する《「物」および「物世界」》が意識化されることがなくなっても、第八阿頼耶識は存在し続けるとする。(83頁)
G-3-3-2  すなわち多川俊永師(唯識仏教)は言う。①「根本の識体である第八識が老朽した肉体を言わば捨てた時が、私たちの臨終だ。」(83頁)
《感想》「肉体」(有根身)の感覚器官(「意根」)なしに「意識」(第八識)は生起しない。「肉体」が「第八識」を可能にしている。「第八識が老朽した肉体を捨てる」という言明は、誤りだ。これは「第八識」の実体化、言わば「霊魂」化だ「第八識」が「肉体」以前に(つまり有根身の感覚器官「意根」のはたらき以前に)存在することはない。
G-3-3-3 ②「第八識」が「肉体(有根身)を認識対象から外せば、有根身を取り巻いていた受け皿の器界もまた、意味のないものとなる」。(83頁)
《感想》これは「有根身」と「器界」が属す《「物」および「物世界」》が意識化されることがなくなる、つまり世界(宇宙)そのものがみずから意識することがなくなる、つまり第八識が「見分」と「相分」に分化することがなくなるということだ!
G-3-3-4 かくて多川俊永師は、その結果③「第八識の認識対象は、(一切)種子シュウジだけということになる。第八識はここで、まさに『一切種子識』となる。」(83頁)
Cf.  第八阿頼耶識は(a)「種子(シュウジ)」(過去の行動情報)(※知識在庫)」、(b)「有根身(ウコンジン)」(身体)、(c)「器界」(自然など)を所蔵(管轄)する深層の根本識体だ。(上65頁)

《感想》このような多川俊永師の見解(唯識仏教の見解)は、《「意識」の感覚器官(「意根」)は「有根身」における「脳神経」である》と述べる見解(上46頁)と矛盾する。
今や多川俊永師は、(1)「有根身」の消滅(死)においても、
つまり(2)「意識」の感覚器官(「意根」)である(「有根身」における)「脳神経」が消滅しても、
つまり(3)「意識する宇宙」(モナド)(《本識》である「第八阿頼耶識」)が消滅しても、
つまり(3)-2 「有根身」と「器界」が属す《「物」および「物世界」》が意識化されることがなくなっても、
つまり(3)-3「阿頼耶識縁起」(本識たる第八識阿頼耶識から「転変」して前五識・第六意識・第七末那識という「転識」が生起する)が生じなくなっても、
つまり(4)「現象」(「自体分」)である世界(宇宙)そのものが、みずから意識すること(「見分」と「相分」に分化すること)がなくなっても、それでも「第八阿頼耶識」が存在すると述べる。
《感想(続)》多川俊永師(唯識仏教)は、先に一方で「有根身」の消滅(死)(「意識」の感覚器官「意根」である「脳神経」の消滅)において、意識する宇宙(モナド)そのものである「第八阿頼耶識」が消滅すると言いつつ、今や他方で「有根身」の消滅(死)においても、「第八阿頼耶識」が(「意識」の感覚器官「意根」である「脳神経」の消滅にもかかわらず)、実体的に独立して、言わば「霊魂」のように存在し続けるとする。これは矛盾である。
《感想(続々)》「有根身」の消滅(死)において、意識する宇宙(モナド)そのものである「第八阿頼耶識」は消滅すると考えるほかない。

(20)-11 実体化され「霊魂」化された「第八阿頼耶識」の「輪廻転生」! 
G-4  (※実体化され「霊魂」化された意味での)「第八阿頼耶識」は、「有根身」の消滅(死)後、「一切種子」のみを所蔵(管轄)し認識対象とする。(83頁)
G-4-2  「一切種子」は私たち一人ひとりの「過去」の行動情報群だが、その「過去」とは今生(コンジョウ)の過去だけでなく、前世・前々世・前々々世・・・・とさかのぼるもので、(※地球生物学的には)生命誕生の時点まで行きつく。(84頁)
G-4-3 仏教の「過去」は、「輪廻転生」の考え方に基づく。(84頁)
G-4-3-2  「善or不善の現行(ゲンギョウ)」の熏習(クンジュウ)により(※「霊魂」としての)第八阿頼耶識に蓄積された「無漏(ムロ)or有漏(ウロ)の種子(シュウジ)」によって、一切種子を所蔵(管轄)する「第八阿頼耶識」(※霊魂)が「五道」(地獄・餓鬼・畜生・人ニン・天)(Cf. 日本では「六道」:地獄・餓鬼・畜生・修羅・人ニン・天)を生まれかわり死にかわりして輪廻転生する。(84-85頁)
G-4-3-3  なお本有(ホンウ)(私たちの中に本来備わった)「無漏(ムロ)種子(シュウジ)」もありうる。(85頁)

G-4-4 「第八識阿頼耶識」所蔵のおびただしい種子(シュウジ)群は、煮詰めていくならば、「生きたい」という一点、要するに「生の執着」に集約される。(88-89頁)
G-4-4-2 この(※「霊魂」としての)第八阿頼耶識が、「結生(ケッショウ)の識」として、次生を担保する有根身(ウコンジン)を求めて浮遊する。(89頁)
G-4-4-3  浮遊する「結生(ケッショウ)の識」(生の執着or阿頼耶識)は、適宜の「赤白(シャクビャク)二滴」(精子と卵子)と合体して、次の生存を始める、すなわち身人一如(シンニンイチニョ)の生命体が誕生する。(89頁)
G-4-4-3-2 それまでの一切種子(シュウジ)は、「結生(ケッショウ)の識」(これまでの生の阿頼耶識)から次生の主体となった阿頼耶識に受け継がれ、「生果(ショウガ)の功能」として、つまり現行(ゲンギョウ)の潜勢力として保存される。(89頁) 

(20)-11-2 (※「霊魂」としての)第八阿頼耶識の「恒転如暴流(ゴウテンニョボル)」(恒ツネに転ずること、暴流ボルの如し)!
H  世親菩薩の『唯識三十頌(ジュ)』は、根本の識体である(※「霊魂」としての)第八阿頼耶識について「恒転如暴流(ゴウテンニョボル)」(恒ツネに転ずること、暴流ボルの如し)と述べた。(91頁)
H-2  つまり(※「霊魂」としての)第八阿頼耶識は、永遠の上流(生命の起源、あるいは永遠の過去)から流れ来り、現在というこの一瞬にとどまらず、なお未来の彼方という下流へと荒々しく流れる大河(暴流ボル)に喩えられるという。(91頁)
H-2-2  この「生死(ショウジ)」(輪廻転生)は私たちが「生の執着」を捨てない限り、永遠に繰り返される。(91頁)

(20)-12 「八識」(前五識・第六意識・第七末那識・第八阿頼耶識)の八つの識体(心王)は、基本的に「俱起(クキ)」(「俱転」)する、つまり、いっしょにはたらく!      
I  唯識仏教は「八識」(前五識・第六意識・第七末那識・第八阿頼耶識)という心の構造体について解明した。(七識の発出元として、最深層の第八阿頼耶識を配置し心を重層的に捉える阿頼耶識縁起!)八つの識体(心王)は、「心心所」(シンシンジョ)で、それぞれ相応する心所(心のはたらき)といっしょにはたらく。(96頁)
I-2  そしてこれら八つの識体は、基本的に「俱起(クキ)」(「俱転」)、つまり、いっしょにはたらく。(96頁)
I-2-2 まず(a)(※霊魂としての)「第八阿頼耶識」が新たな有根身(ウコンジン)(肉体)を認識の対象として「触」(ソク)し「作意」(サイ)すれば、相応する「受」・「相」・「思」(シ)とともに、一期(イチゴ)(※一生)の間つねにトギレることなく無間断(ムケンダン)に作用し続ける。(96頁)

《参考》根本識体の第八阿頼耶識という心王に相応する心所は、五十一心所のうちもっとも基本的な「遍行」の五心所、(1)触(ソク)・(2)作意(サイ)・(3)受(ジュ)・(4)想(ソウ)・(5)思(シ)だけだ。(80頁)
《参考(続)》「遍行」の五心所:(1)触(ソク)「心を認識対象に接触させる」、(2)作意(サイ)「心を起動させる」、という心所、(3)受(ジュ)「認識の対象を苦とか楽、憂とか喜、あるいはそのどちらでもないと受け止める」、という心所、(4)想(ソウ)「受け止めたものを自己の枠組みにあてはめる」、(5)思(シ)「認識対象に具体的に働きかける」。(80頁)
《参考(続々)》この(5)「思(シ)」の心所の具体的な内容が、②「別境」(ベッキョウ)(5心所)、③「善」(11心所)、④「煩悩」(6心所)、⑤「随煩悩」(ズイボンノウ)(20心所)、⑥「不定」(フジョウ)(4心所)の、46心所のはたらきだ。(上130-131頁)

I-2-2-3 第八阿頼耶識の無間断ムケンダンな作用という生存基盤の上に、(b)「第七末那識」の潜在する自己中心性が、これまた一期(イチゴ)(※一生)の間、トギレることなく無間断(ムケンダン)にはたらく。(96頁)
I-2-2-4 そういう第七識を初依(ショエ)(よりどころ)として、(c)「第六識」が、第八識から転変し、いわゆる「わが心」として発出(※出現)する。(96頁)
I-2-2-5 (d)(いわゆる5感覚の)「前五識」も第八識から発出するもので、ほぼ第六識と相まって「わが心」(第六識)の世界をとりあえず明瞭にする。(96頁)

《参考》「 前五識」は対象を現在時点で「ただそのままに」認識するとはいえ、「五倶の意識」なので、必ず「第六識」と倶に働き、「第六識」(Ex. コトバ、判断、感情)の影響を受ける。(74頁)
《参考(続)》例えば、前五識の耳識(ニシキ)の対象である「声」(ショウ)境において、郭公(ホトトギス)は「てっぺんかけたか」と鳴くと言われるが、これは「第六意識」(Ex. コトバ)を潜り抜けてきたものだ。耳識(ニシキ)自体は郭公の「鳴くそのまま」を聞く。(70頁)

I-2-2-6 かくて「ちょっと香りを嗅ぐ」といっても、単に鼻識だけの問題ではなく、第八識はじめ、ほぼ八識という心全体がかかわっている。(96頁)

(20)-12-2 「第六識」は「善」の方向にも、また「不善」(「煩悩」・「随煩悩」)の方向にもはたらく!未来の展開は「第六意識」のはたらきのいかんによって規定される!仏教の道筋は偏(ヒトエ)に「散心(サンジン)から定心(ジョウシン)へ」である!
I -3 八識という心全体のうち、「第六識」は「広縁の識」である。(96頁)
I -3 -2 (ア) 第六識はさまざまな認識の対象を扱い、しかも知・情・意の3方向から対応する。(96-97頁)
I -3 -3 また(イ) 第六識の視野を制限するものは本質的にない。その認識は続行に意欲を燃やせば、深層・真相にまで近づきうる。(97頁)
I -3 -4 そして(ウ)第六識は認識対象を、現在の時点でのみ思量するのではなく、過去にさかのぼって考え、また未来の展開を予測する。(97頁)
I -3 -5 さらに(エ)第六識は五十一のすべての心所(心のはたらき)と相応する。つまり第六識は「善」の方向にも、また「不善」(「煩悩」・「随煩悩」)の方向にもはたらく。(97頁)
I -3 -5-2 第六識は、潜在する第七末那識の自己中心性を初依(ショエ)(よりどころ)としつつも、また本識(第八阿頼耶識)がかかえる膨大な過去の行動情報(種子)に縛られながらも、(種子は「無記」であるから)未来の展開は第六意識のはたらきのいかんによって規定される。(97頁)

I-4  自覚的な「わが心」といえば「第六識」だ。第六識は「広縁の識」なので認識の対象があれも・これもと拡散しがちだ。しかし仏教の道筋は偏(ヒトエ)に「散心(サンジン)から定心(ジョウシン)へ」である。(98頁)
I-4-2  わが心の第六識に「欲」がからめば、欲望は満足せず、それこそあれも・これも・そのことも・・・・と随増する。(散心(サンジン)!)仏教の道筋のためには、拡散する思いを可能な限り抑制すべきだ!(98頁)
I-4-3 「心は、捉え難く、軽々とざわめき、欲するがままにおもむく。その心をおさめることは善いことである。心をおさめたならば、安楽をもたらす。」(初期経典『ダンマパタ』[35])(98-99頁)
I-4-4 散乱する「わが心」が一時的にしろ、集中し定まった状態になればそれが「定心」(ジョウシン)である。「心一境性(シンイツキョウショウ)のひととき」つまり「わが心がまさに一つの境(対象)に集中するひととき」を仏教の道筋のためにどう確保するか、そのことを肝に銘じたいと、多川俊映師が言う。(99-100頁)
I-4-4-2 尾崎放哉「心をまとめる鉛筆とがらす」の句あり!ざわついた心をおさめる!(100頁)
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