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アリストテレス:アイステーシス(感覚)と「理念」の視見(ノエーシス)との「真理性」は、根源的な発見である」! ハイデガー『存在と時間』(1927)「第44節」(b)(その4)

2019-10-31 11:26:51 | 日記
※「第1部 現存在を時間性へむかって解釈し、存在への問いの超越的地平として時間を究明する」「第1編 現存在の準備的な基礎分析」「第6章 現存在の存在としての関心(Sorge、気遣い)」「第44節 現存在、開示態および真理性」(b)「真理性の根源的現象と伝統的真理概念の派生的性格」(その4)

(b)「真理性の根源的現象と伝統的真理概念(※真理は「認識と対象との合致」だ!)の派生的性格」(219頁-)(その4)
(7)アリストテレス:「アイステーシス(感覚)と『理念』の視見(ノエーシス)との『真理性』は、根源的な発見である」! 
R アリストテレスは、「真理の根源的な『ありか』は判断である」というテーゼを提唱していない。(226頁)
R-2 彼は、「ロゴスは現存在の存在様相であって、それが発見的あるいは隠蔽的でありうる」と告げる。(226頁)
R-3 彼は「ロゴスの真理概念を純粋なノエイン(思考すること)にまで『拡張』する」こともしなかった。(226頁)
S つまり「アイステーシス(感覚)と『理念』の視見(ノエーシス)との『真理性』は、根源的な発見である。」(226頁)
S-2 そして「ノエーシス(視見)が第一義的に発見的であるからこそ、ロゴスもディアノエイン(思考)として発見機能をもつことができる」。(226頁)
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言明と存在者との「連絡」(《なにごとかが発見されてある》こと)が、言明(認識=主観)と存在者(対象=客観)との「合致」と言い換えられた! ハイデガー『存在と時間』「第44節」(b)(その3)

2019-10-30 16:11:37 | 日記
※「第1部 現存在を時間性へむかって解釈し、存在への問いの超越的地平として時間を究明する」「第1編 現存在の準備的な基礎分析」「第6章 現存在の存在としての関心(Sorge、気遣い)」「第44節 現存在、開示態および真理性」(b)「真理性の根源的現象と伝統的真理概念の派生的性格」(その3)

(b)「真理性の根源的現象と伝統的真理概念(※真理は「認識と対象との合致」だ!)の派生的性格」(219頁-)(その3)
(5)-2 「現存在はいつもすでに真理と非真理との内にある」!(222頁)
M-3「パルメニデスを導いてゆく真理の女神が、彼を発見の道と隠蔽の道との両道に臨ませる。」(222頁)

(6)被発見態(真理性)は、語りだされた言葉のなかで保存されている!
N 「内世界的存在者のもとでの存在、すなわち配慮は、発見的に存在する。」(223頁)
→「しかるに現存在の開示態(※了解)には、本質的に話がぞくしている。」(223頁)
→「現存在は・・・・存在者へむかう発見的存在としての自己を発言する。」(223頁)
→すなわち現存在は「言明において、発見された存在者について発言する。」
→そして「言明は被発見態(真理性)のありさまにある存在者を伝達する。」(223-4頁)
N-2 「被発見態(真理性)は、語りだされた言葉のなかで保存されている。」(224頁)
N-3 また「被発見態は、広い範囲にわたって、各自の発見によらずに、世間で言われていることの伝聞によって領得される。」(223頁)

(6)-2 「言明」と「存在者」との「連絡」!「連絡」とは《なにごとかが発見されてある》ということである! これが伝統的な真理概念では、「言明」という客体的存在者と、(話題になっている)「存在者」という客体的存在者の間の「客体的合致」という相を呈する!
O 「言明は一種の用具的なものである。」(224頁)
O-2 「言明が、発見的言明として連絡をもっている存在者は、世界の内部で用具的もしくは客体的に存在する」。(224頁)
O-3 「言明」と「存在者」との「連絡」!「その連絡は、言明のなかで保存されている被発見態が、それぞれ《なにごとかの被発見態である》という点にある。」(224頁)
P 「この連絡は、ふたつの客体的存在者の間の関係へと切り換えられる。」かくて「この連絡は・・・・それ自身、客体的な性格をおびる。」(224頁)
P-2 「《なにごとか(Ex. リンゴ)が発見されてある》ということは、語りだされた言明(Ex.「リンゴがある」という言明)という一方の客体的存在者が、話題になった存在者(Ex. リンゴ)という他方の客体的存在者に適合しているという客体的適合性(※「合致」)に変えられる。」(224頁)
P-3 かくて「《なにごとか(Ex. リンゴ)が発見されてある》ということ」(つまり言明と存在者との「連絡」という事態)が、語りだされた「言明」という客体的存在者と、話題になっている「存在者」という客体的存在者の間の「客体的合致」という相を呈することになる。(224頁)
《感想6》ハイデガーはすでに言っている。「真理性は、ある存在者(主観)が他の存在者(客観)へ同化するという意味での、認識と対象との合致というような構造をなんらそなえていない。」(219頁)

(6)-3 伝統的な真理概念の存在論的な派生的性格!
Q 「開示態(※了解)としての真理性は、また発見された存在者へむかう発見的存在としての真理性は、世界の内部に客体的に存在する二つの存在者(※言明と存在者、知性と事物、判断の理念的意味内容と実在的事物、認識(判断)と対象、主観と客観)の間の合致という意味での真理性となった」。(225頁)
Q-2 かくて「伝統的な真理概念の存在論的な派生的性格」が明らかになった。(225頁)
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映画『マレフィセント2』(2019年、アメリカ):魔女マレフィセントは、独裁的で全能的な魔力を持つにもかかわらず、この上なく寛容だ!

2019-10-29 19:58:50 | 日記
※原題“Maleficent: Mistress of Evil”

(1)
妖精の国と人間の国の戦争と和解の物語。妖精の国のオーロラ姫と人間の国のフィリップ皇子が結婚を望み、また両国の平和な関係を望む。姫のゴッドマザーである魔女マレフィセントは、人間を疑い信用しない。彼女の気持ちは戦争と平和の間を揺れる。
(2)
人間の国では、皇子の母イングリス王妃が、妖精の国絶滅戦争を計画する。王妃は妖精を憎む。幼少期に妖精の国との戦争で恐怖の体験をしたからだ。これに対し国王は平和を望む。かくて王妃は国王を殺し、妖精の国との戦争を陰謀・計画する。
(3)
妖精の国でも、戦争派と平和派が対立する。平和派リーダーの妖精がイングリス王妃に殺され、戦争派リーダーが主導権を握る。こうして人間の国と妖精の国は全面戦争に突入する。
(4)
戦争の中で、魔女マレフィセントは、イングリス王妃を追い詰めるが、殺さず王妃と和解しようとする。ところが気を許し油断したマレフィセントを、イングリス王妃がだまし討ちによって殺す。かくてイングリス王妃は、人間の国の大勝利と、妖精の大量殺戮に高笑いする。
(5)
だが魔女マレフィセントは、不死だった。彼女は死から蘇る。王妃の裏切りへの怒りは頂点に達し、マレフィセントは、全能の凶暴な力で人間の兵士たちを攻撃し殺し、人間の国の城の破壊を開始する。
(6)
この時、オーロラ姫が、ゴッドマザーの魔女マレフィセントに「怒りを鎮めてほしい」、「人間の国と妖精の国が和解してほしい」と真底から訴える。両国の和解のみが、オーロラ姫とフィリップ皇子との結婚を可能にする。
(6)-2
魔女マレフィセントは、オーロラ姫への愛を大切に思い、人間の国と妖精の国の和解に同意する。
(6)-3
魔女マレフィセントの持つ魔力は全能だ。彼女は死んだ国王、死んだ人間の兵士たち、死んだ妖精たちをすべて生き返らせ、また破壊された城を復元する。人間の国と妖精の国は、戦争以前の美しい状態にもどる。妖精の国のオーロラ姫と人間の国のフィリップ皇子が結婚し、両国は平和のうちに統一される。
(6)-4
妖精の国への敵意に満ち、絶滅戦争を開始したイングリス王妃は、魔女マレフィセントの魔法によって無害なヤギに変身させられる。(マレフィセントは寛容だ!)

《感想1》国家間の対立がある時、それぞれの国の内部に戦争派と平和派が生まれる。戦争派は、最終的に、敵国人の奴隷化、または絶滅を目指す。例えばヒトラーは、ナチス・ドイツの世界支配、スラブ民族の奴隷化、ユダヤ人の絶滅を目指した。
《感想2》かつて米ソ冷戦は、ソ連邦の崩壊で終わった。その時、ソ連国民の奴隷化、絶滅はなかった。米国側陣営は、その限りで極めて寛容だった。民主主義が理念だったからだ。独裁国家と違い、民主主義国家は、寛容である。
《感想3》魔女マレフィセントは、独裁的で全能的な魔力を持つにもかかわらず、この上なく寛容だ。まるで民主主義的独裁者、啓蒙専制君主のようだ。


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「現存在は真理の内にある」と同根源的に「現存在は非真理の内にある」! ハイデガー『存在と時間』(1927)「第44節」(b)(その2)

2019-10-28 17:46:54 | 日記
※「第1部 現存在を時間性へむかって解釈し、存在への問いの超越的地平として時間を究明する」「第1編 現存在の準備的な基礎分析」「第6章 現存在の存在としての関心(Sorge、気遣い)」「第44節 現存在、開示態および真理性」(b)「真理性の根源的現象と伝統的真理概念の派生的性格」(その2)

(b)「真理性の根源的現象と伝統的真理概念の派生的性格」(219頁-)(その2)
(5)「現存在は真理の内にある」と同根源的に「現存在は非真理の内にある」!(222頁)
L 「現存在は真理の内にある」(その1):「現存在とその開示態の存在(※関心)とともに、同根源的に、内世界的存在者の被発見態(※真理性2)がある。」(221頁)
《感想5》ハイデガーは言う。「《そこ》(『現』、Da)という表現は、この本質的な開示態を指そうとするものである。」(132頁)

L-2「現存在は真理の内にある」(その2):「現存在の存在構成には・・・・被投性が備わっている。」(221頁)「開示態は本質的に、事実的な開示態である。」(221頁)
《感想5-2》「事実性」とは、「被投性」のことだ。つまり現存在は「特定の世界の内で、特定の内世界的存在者の特定の範囲にたずさわる存在である。」(221頁)

L-3「現存在は真理の内にある」(その3):「現存在」は「投企」=「存在可能」において、おのれを「了解」する。つまり現存在は「おのれの存在可能へ向かう開示的存在」である。「自己を自己自身に開示する」という「本来的開示態」は「もっとも根源的な真理性の現象」である。(221頁)
《感想5-3》ハイデガーは言う。現存在は「おのれに先立つ存在」である。すなわち現存在は、①《「投企」するおのれ》(「存在可能」)として存在するだけでなく、②「ある世界の内にすでに」存在している。

L-4 「現存在は真理の内にある」(その4):「現存在の存在構成には頽落がそなわっている。」頽落「世界」のなかへの自己喪失である。つまり「存在可能性への投企としての了解」は「世間das Man」に融けこみ、「公開的既成解釈」によって支配されている。「存在者」は「歪められている」、つまり「存在者」は「仮象の様態で現れている」。(221-2頁)「現存在は本質的に頽落するゆえに・・・・『非真理』Unwharheitのうちにある」。

M 現存在は「仮象の様態における被発見態」から出発して、「被発見態(真理性)をくりかえし確保しなくてはならない」。(222頁)
M-2 「真理性(被発見態)は、いつもあらためて存在者から奪取されなくてはならない」。(222頁)
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真理性は、被発見態(真理性2)と現存在=発見的存在(真理性1)だ!「真1」は「発見すること」&「真2」は「発見された」存在者だ! ハイデガー『存在と時間』(1927)「第44節」(b)(その1)

2019-10-27 12:23:38 | 日記
※「第1部 現存在を時間性へむかって解釈し、存在への問いの超越的地平として時間を究明する」「第1編 現存在の準備的な基礎分析」「第6章 現存在の存在としての関心(Sorge、気遣い)」「第44節 現存在、開示態および真理性」(b)「真理性の根源的現象と伝統的真理概念の派生的性格」(その1)

(b)「真理性の根源的現象と伝統的真理概念の派生的性格」(219頁-)(その1)
(4)真理性2:(すでにアリストテレスが指摘したように)アレーテイア(真理)とは「事象そのもの」、「自己を現示するもの」、「被発見態(隠れなさ)における存在者」である!
I 「真であること(真理性)とは、発見的である(※真理性2+真理性1)ということである。」かくて「真理の概念のなかから合致の理念を・・・・排除する。」(219頁)
I-2 これは「古代哲学の最古の伝統が予感していた事」である。アリストテレスによれば、「真である」とは、「存在者を、隠れたさまから引き出してきて、その隠れなきありさま(被発見態)においてみさせること」である。(219頁)
I-3 アレーテイア(真理)とは、アリストテレスによれば、「事象そのもの」、「自己を現示するもの」、「被発見態(隠れなさ)における存在者」である。(219頁)

(4)-2 真理性1:第一義的に「真である」もの、すなわち発見的であるものは、現存在である!
J 「真理性は、被発見態(※真理性2)と(※現存在のひとつの存在様相としての)発見的存在(※真理性1)である」。(220頁)
J-2 「第一義的に『真である』もの、すなわち発見的であるものは、現存在である。第二の意味での真理性とは、発見的であること(※発見)ではなく、発見されていること(※被発見態)である。」(220頁)
J-3 第一の意味で「真」である「発見すること」は、「世界内存在の存在様相のひとつである。」「(※道具に対する)配視的配慮も、また静かに立ち留まって注視する(※観想的理論的な)配慮も内世界的存在者を発見する。」(220頁)
J-3 第二の意味で「真」であるのが、「発見された」存在者である。(220頁)

(4)-3 内世界的存在者の被発見態(※真理性2)は、世界の開示態にもとづいている!
K ところで「内世界的存在者の被発見態(※真理性2)は、世界の開示態にもとづいている。」(220頁)
K-2 「開示態とは、現存在がそれに応じておのれの現を存在するところの根本様相である。」(220頁)
K-3 「開示態は、心境(情状性)、了解(※意識性)および話によって構成され、そして世界、内存在ならびに自己に、同根源的にかかわっている。」(220頁)
K-4 「《おのれに先立って――内世界的存在者のもとにあることとしての――世界の内にすでに存在すること》」という関心の構造は、現存在の開示態をうちに含んでいる。」(220-1頁)
K-5 「被発見態(※真理性2)はこの開示態とともに、かつこれによって存在するのであり、したがってわれわれは、現存在の開示態にいたって、はじめて真理性のもっとも根源的な現象に達するのである。」(221頁)

(4)-4 現存在は本質上「真なるもの」である!現存在は「真理の内にある」!
K-6 「現存在が本質上おのれの開示態を存在し、このように開示された現存在としてものごとを開示し発見するかぎり、現存在は本質上『真なるもの』である。現存在は『真理の内にある』。」(221頁)
K-7 「現存在は『真理の内にある』」という言明は、「現存在の実存論的構成には、ひとごとでない自己の存在の開示態がそなわっている、ということなのである。」(221頁)(※ここで「自己」とはモナドのことだ。モナドにおいては、「超越」、「外部」はなく、例えば、感覚においては「物」の像・反映でなく、「物」そのものが出現する。この「そのもの」であることが真理性だ!)

《感想2》ハイデガーは「開示態」について、次のように述べている。(※第39節《感想6-3》参照)
・「この存在者(※現存在)は、そのもっとも固有な存在において、閉ざされていない。」「《そこ》(『現』、Da)という表現は、この本質的な開示態を指そうとするものである。」「この開示性によって、この存在者(現存在)は、世界の現存とともに、おのれ自身にむかって《そこ》に存在している。(※かくて了解が可能となる!)」(132頁)
・「現存在はおのれの開示態(Erschlossenheit)を存在する。」比喩的に言えば「人間(※現存在)は内に『照明』を含んでいる」「人間(※現存在)は・・・・・・みずからその明るみ(Lichtung)を存在する。」(133頁)
《感想2-2》上記(132-133頁)についての私見:無でなく有である(存在者が存在する)こと(※恐るべき謎だ!)を、「閉ざされていない」こと、「開示態を存在する」こと、「明るみを存在する」ことと、ハイデガーは表現する。「了解」以前に、何ものかが「開示」されているという出来事こそが有(存在者の存在)なのだ。

《感想3》ハイデガーは「開示態」について、次のように述べている。(続)(※第39節《感想6-3》参照)
・視(Sicht)は、「現存在の明るみ(Lichtung)」とよぶべき内存在の開示態(※自己意識)のなかで初めて可能になる。(170頁)
・ 「①世間話(空談)(das Gerede)、②好奇心(die Neugier)、③曖昧さ(die Zweideutigkeit)は、現存在(※自分のこと!)が日常的におのれの『現』を――世界内存在の開示態を――存在しているありさまの性格である。」(38節175頁)
・「現存在の開示態の存在は、心境(情状性)、了解(※意識性)および話において構成される。」(180頁)Cf.「話(Rede)は、心境(Befindlichkeit)および了解(Verstehen)と、実存論的には同根源的である。」(161頁)

《感想4》ハイデガーは「発見態」について、次のように述べている。(※第39節《感想6-3-2》参照)
・「現存在は世界内存在であるから、いつでもすでにひとつの『世界』を発見している。」この発見は「存在者をある趣向(適所)全体性へ向けて明け渡す」こととして性格づけられる。(110頁)
・「存在論的には、世界の第一義的な発見を、原理的に『たんなる気分(※心境=情状性)』にゆだねなくてはならない」。(138頁)
・「言明的な挙示は、《了解のなかですでに開示され、あるいは配視的に発見されていたものごと》をもとにしておこなわれる。」(156頁)
・「客体的なものごとの発見は用具的現前性を蔽いかくす。」(158頁)
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