※「第1部 現存在を時間性へむかって解釈し、存在への問いの超越的地平として時間を究明する」「第2編 現存在と時間性」「第2章 本来的な存在可能の現存在的な臨証と、覚悟性」「第57節 関心の呼び声としての良心(Das Gewissen als Ruf der Sorge)」
(8)「現存在が、良心において、おのれ自身を呼んでいる」!「良心は、関心の呼び声である」!
M 「良心は現存在の自己を、世間(das Man、世人)のなかへの紛れから呼び起こす。」(274頁)
M-2 この「呼ぶ者」は「ただならぬ無規定性につつまれている。」(274頁)
M-3「現存在が、良心において、おのれ自身を呼んでいる。」(Das Dasein ruft im Gewissen sich selbst.)(275頁)
M-4「良心の呼び声は、私の内から、しかも私を越えて聞こえてくる。」(275頁)
M-5 「呼ぶ者は、おのれの不気味さのなかに立つ現存在であり、異郷にあることとしての根源的な被投的な世界内存在であり、世界の無にさらされた露骨な《事実》である。」(276-7頁)
Cf.「平均的な既成的解意(※世間話)の当然さや安心感の中には、・・・・根源喪失へ押し流されていくのに、・・・・現存在自身にはこの不動の不気味さが気づかれずに蔽われている、ということが含まれている」。(170頁)
M-6 「現存在は呼ぶ者であるとともに呼びかけられる者でもある」とは、すなわち「良心は、関心の呼び声である」ということだ。(277頁)
M-7 「呼び声はいつも私自身である存在者から来る。」(278頁)
《感想8》ハイデガーは次のように言っている。「世界内存在は本質的に関心(気遣い)(Sorge)である」。ゆえに「用具的なものにたずさわる存在は配慮(Besorgen)として、そして内世界的に出会うほかの人びとの共同現存在との共同存在を待遇(Fursorge)としてとらえることができた。」(193頁)
《感想8-2》「実在性は、存在論的名称としては、内世界的存在者(世界内部的存在者)に関わるものである。・・・・用具性と客体性が実在性の様態」である。「実在性」は「伝統的な意義」では「事物の客体性」という意味での「存在」を指す。(211頁)
《感想8-3》だが現存在が存在しているかぎりでのみ、存在が《与えられている》!実在性は「関心」に依存している!「実在性(Ralität)は・・・・関心(Sorge)の現象へさしもどされるべきものである。」そもそも「現存在が、すなわち存在了解の存在的可能性が、存在しているかぎりでのみ、存在が《与えられている(es gibt)》のである。」「現存在が実存していないならば、存在者が存在するとも、存在者が存在しないとも言うことができない。」「存在は存在了解に依存している」。すなわち「実在性は関心に依存している」。(211-2頁)
《感想8-4》「現存在の存在は関心である。」(232頁)
《感想8-5》「現存在の根本的構成は関心(気遣い、die Sorge)である。」(249頁)
《感想8-6》ハイデガーは次のように言う。「関心(気遣い)」は「①《(世界の内部で)出会う存在者のもとにある存在として、②(世界の)内にすでに、③おのれに先立って(※投企的or可能的に)存在すること》」と定義される。「③《おのれに先立って》のなかには実存が、②《内にすでに存在する》のなかには事実性が、そして①《・・・・・・のもとに存在する》のなかには頽落が、それぞれ表現されている。」(249-250頁)
《感想8-7》ハイデガーが言う「関心」(気遣い、die Sorge)とは、普通に言えば「存在」である。ハイデガーは「存在」を客体的「存在」に限定する。そして、現存在(モナド)の存在は、《気分に彩られた存在》つまり「関心」だと、ハイデガーは言う。「関心の呼び声としての良心」は「《気分に彩られた存在》(関心)の呼び声としての良心」と言い換えることができる。
(8)「現存在が、良心において、おのれ自身を呼んでいる」!「良心は、関心の呼び声である」!
M 「良心は現存在の自己を、世間(das Man、世人)のなかへの紛れから呼び起こす。」(274頁)
M-2 この「呼ぶ者」は「ただならぬ無規定性につつまれている。」(274頁)
M-3「現存在が、良心において、おのれ自身を呼んでいる。」(Das Dasein ruft im Gewissen sich selbst.)(275頁)
M-4「良心の呼び声は、私の内から、しかも私を越えて聞こえてくる。」(275頁)
M-5 「呼ぶ者は、おのれの不気味さのなかに立つ現存在であり、異郷にあることとしての根源的な被投的な世界内存在であり、世界の無にさらされた露骨な《事実》である。」(276-7頁)
Cf.「平均的な既成的解意(※世間話)の当然さや安心感の中には、・・・・根源喪失へ押し流されていくのに、・・・・現存在自身にはこの不動の不気味さが気づかれずに蔽われている、ということが含まれている」。(170頁)
M-6 「現存在は呼ぶ者であるとともに呼びかけられる者でもある」とは、すなわち「良心は、関心の呼び声である」ということだ。(277頁)
M-7 「呼び声はいつも私自身である存在者から来る。」(278頁)
《感想8》ハイデガーは次のように言っている。「世界内存在は本質的に関心(気遣い)(Sorge)である」。ゆえに「用具的なものにたずさわる存在は配慮(Besorgen)として、そして内世界的に出会うほかの人びとの共同現存在との共同存在を待遇(Fursorge)としてとらえることができた。」(193頁)
《感想8-2》「実在性は、存在論的名称としては、内世界的存在者(世界内部的存在者)に関わるものである。・・・・用具性と客体性が実在性の様態」である。「実在性」は「伝統的な意義」では「事物の客体性」という意味での「存在」を指す。(211頁)
《感想8-3》だが現存在が存在しているかぎりでのみ、存在が《与えられている》!実在性は「関心」に依存している!「実在性(Ralität)は・・・・関心(Sorge)の現象へさしもどされるべきものである。」そもそも「現存在が、すなわち存在了解の存在的可能性が、存在しているかぎりでのみ、存在が《与えられている(es gibt)》のである。」「現存在が実存していないならば、存在者が存在するとも、存在者が存在しないとも言うことができない。」「存在は存在了解に依存している」。すなわち「実在性は関心に依存している」。(211-2頁)
《感想8-4》「現存在の存在は関心である。」(232頁)
《感想8-5》「現存在の根本的構成は関心(気遣い、die Sorge)である。」(249頁)
《感想8-6》ハイデガーは次のように言う。「関心(気遣い)」は「①《(世界の内部で)出会う存在者のもとにある存在として、②(世界の)内にすでに、③おのれに先立って(※投企的or可能的に)存在すること》」と定義される。「③《おのれに先立って》のなかには実存が、②《内にすでに存在する》のなかには事実性が、そして①《・・・・・・のもとに存在する》のなかには頽落が、それぞれ表現されている。」(249-250頁)
《感想8-7》ハイデガーが言う「関心」(気遣い、die Sorge)とは、普通に言えば「存在」である。ハイデガーは「存在」を客体的「存在」に限定する。そして、現存在(モナド)の存在は、《気分に彩られた存在》つまり「関心」だと、ハイデガーは言う。「関心の呼び声としての良心」は「《気分に彩られた存在》(関心)の呼び声としての良心」と言い換えることができる。