DIARY yuutu

yuuutunna toki no nikki

「笠島はいづこさ月のぬかり道」芭蕉(『奥の細道』)(13):笠島には、無念の死を遂げた実方の魂がある!それはどこだ?

2018-08-31 21:55:06 | 日記
「笠島はいづこさ月のぬかり道」
Where is Kasashima, that is, Umbrella-island? (Where is Hujiwara-no-sanekata's unhappy soul?) Now it is raining in May, and the road is muddy.

《感想1》白石を過ぎ、芭蕉は、藤原実方(サネカタ)(?ー998)の死地を訪ねようと笠島に向かう。そこは西行もかつて訪れた場所だ。「道祖神の社と形見の薄(ススキ)がある」と村人が言った。
《感想2》
ところが五月雨(サミダレ)で道はぬかるみ、その上、芭蕉は体調不良。彼は、笠島に行くのを断念し、一句詠む。「笠島はどこだ?今、五月雨でここはぬかり道だ!」笠島には、無念の死を遂げた実方の魂がある。それはどこだと問う。なお「笠」(笠島)と五月雨が縁語。
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勝者は、「敗者はクズだ」と言う!だが敗者も生き続ける!過酷な世界だ!ともかく生き抜かねばならない!「人の口」など、どうでもいい!

2018-08-31 08:26:37 | 日記
(1)
「人の口に戸は立てられない」。全くその通り。君はどうするか?とぼける。逃げる。無視する。秘かに攻撃する。全面攻撃して相手を殺戮する。(鳴かぬなら殺してしまえホトトギス)。相手と友人になる。(鳴かぬなら鳴かしてみせうホトトギス)。彼らが興味を持たなくなるまで待つ。(鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス)。君もどうせじきに死ぬことだし、今、君に特に損害が生じなければ、ほっておくのが一番だ。
(2)
それにしても腹立たしい。感情とは面倒なものだ。世の中は感情が原動力だ。カネ、出世、面子、女or男、時に愛、慈悲、赦し、和解、そして怒り、屈辱、怨念、喜び、共感・・・・。形のないもののために生きる。バカバカしい。だが形あるものは滅びる。勝つこと、相手に優ること、それがすべてだ。勝者は、「敗者はクズだ」と言う。だが敗者も生き続ける。過酷な世界だ。ともかく生き抜かねばならない。「人の口」など、どうでもいい。
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シェリー(1792-1822)「アズィオーラ」(The Aziola):私はメアリーをあらためて深く愛し、そして「悲しいアズィオーラ」とその鳴き声を好きになった!

2018-08-31 00:23:30 | 日記
 The Aziola
    By Percy Bysshe Shelley

'Do you not hear the Aziola cry? 「アズィオーラがないているのが聞えない?
Methinks she must be nigh ―' 私が思うに、彼女は近くにいるにちがいないわ―」
Said Mary, as we sate メアリーが言った。その時、私たちは座っていて
In dusk, ere stars were lit, or candles brought ― 夕暮れだった。まだ星が輝く前、まだ蝋燭が灯される前―
And I, who thought そして私は思ったのだ
This Aziola was some tedious woman, このアズィオーラは飽き飽きする女だろうと。
Asked, 'Who is Aziola?' How elate それで尋ねた、「アズィオーラって誰だ?」
I felt to know that it was nothing human, 私は舞い上がるほど嬉しかった。人間でないと知ったからだ。
No mockery of myself to fear or hate! ― それは恐れ憎むべき私自身のくだらぬ模倣でなかった!―
And Mary saw my soul, そしてメアリーは私の魂を見抜き、
And laughed, and said ― 'Disquiet yourself not, そして笑って、そして言った―「不安にならないで、
'Tis nothing but a little downy owl.' それは小さな柔らかい毛のふくろうよ。」

Sad Aziola, many an eventide 悲しいアズィオーラ、夕暮れにしばしば
Thy music I had heard お前の歌を私は聞いた
By wood and stream, meadow and mountainside, 森や小川で、草地や山腹で、
And fields and marshes wide, そして野原や広い沼地で
Such as nor voice, nor lute, nor wind, nor bird, それは声でもなく、リュートでもなく、風でもなく、鳥でもなく、
The soul ever stirred ― 魂がずっと震えるような歌―
Unlike and far sweeter than them all. 何にも似ていず、そして何よりもずっと甘美な歌。
Sad Aziola, from that moment, I 悲しいアズィオーラ、あの時から、私は
Loved thee and thy sad cry. 君と君の悲しい鳴き声を好きになった。

《感想1》「私」は「あの時」から、アズィオーラとその悲しい鳴き声を好きになった。アズィオーラの鳴き声(歌)は、「魂がずっと震える」ような歌、「何にも似ていず、そして何よりもずっと甘美な」歌だ。
《感想2》「あの時」とは、いつか?「私」は「人間」を恐れていた。つまり「恐れ憎むべき私自身」のくだらぬ模倣である「人間」を恐れていた。するとメアリーが私に言った。「不安にならないで、それは・・・・ふくろうよ。」私は「ないている」のが人間でないと知って、「舞い上がるほど嬉しかった」。その時から、「私」はアズィオーラとその悲しい鳴き声を好きになった。
《感想3》「あの時」、私は、メアリーへの愛をあらためて確認したのだ。メアリーは、「私」の恐れをよく知っていた。そして私に「不安にならないで」と言った。メアリーの私への深い理解。私はメアリーをあらためて愛し、そして「悲しいアズィオーラ」とその鳴き声を愛するようになった。
《感想4》アズィオーラは、コノハズクで、雄が悲しい声で鳴く。メアリーは、シェリーの夫人だ。
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「笈(オイ)も太刀も五月(サツキ)にかざれ帋幟(カミノボリ)」芭蕉(『奥の細道』)(12):義経のために死んだ忠臣、佐藤継信・忠信兄弟ゆかりの寺だ!

2018-08-30 19:29:06 | 日記
「笈(オイ)も太刀も五月(サツキ)にかざれ帋幟(カミノボリ)」(12)
Benkei's wooden backpack and Yoshitune's sword have to be desplayed for Boys' Festival in May while carp-shaped streamers are waving in the sky.

《感想1》福島をすぎて、芭蕉は義経ゆかりの地、瀬の上(セノウエ)宿の医王寺を訪ねる。義経のために死んだ忠臣、佐藤継信・忠信兄弟ゆかりの寺だ。二人の嫁が、各々の夫の死を隠すため、甲冑を着て、二人を演じ、母親を心配させまいとしたという。「袂(タモト)をぬらしぬ」と芭蕉は感慨を催す。
《感想2》医王寺には、義経の太刀、弁慶の笈(オイ)が宝物としてあった。この日は5月1日。芭蕉が句を詠む。「もうすぐ端午の節句だ。鯉や吹き流しのカミ幟と一緒に、非業の死をとげた弁慶の笈や義経の太刀も、せめて晴れやかに飾ってほしい。」
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モナド論(その4):《世界》に充満する一者である感情・欲望・意図が二重化して、超越論的自我主観性と超越論的他我主観性を成立させる!

2018-08-30 13:42:07 | 日記
(16)「物体」の区別:(1) 「特権的物体」の触覚的出現、(2) 「普通の物体」の触覚的出現、(3) 「音声を発する物体」(後に他我となる、Ex. 母)の触覚的出現、(4)「物体」の視覚的・嗅覚的・聴覚的拡張、(5)「物体」の意味的拡張
さて、世界「そのもの」として「物体」が出現する。この「物体」は次のように区別できる。(1)「特権的物体」(やがて自己身体とされる)、(2)特権的物体と接触しつつ、つまり触覚において生じる「普通の物体」、(3) 特権的物体と接触しつつ、つまり触覚において生じる「音声を発する物体」(後に他我となる、Ex. 母)、(4) 「音声を発する物体」「普通の物体」の視覚的・嗅覚的・聴覚的拡張(触覚できない延長的地平に物体が感覚されること、Cf.1 味覚は特権的物体との接触つまり触覚と同時に生じるので「音声を発する物体」「普通の物体」の味覚的拡張はない)、Cf.2「特権的物体」(やがて自己身体とされる)については触覚(身体内の充実感覚、痛み、冷温感覚)によって「物体」としての範囲が確定されており視覚的・嗅覚的・聴覚的拡張はない。  (5)さらに、これら3種類の「物体」の意味的拡張(Ex. 数学的に計算される宇宙の構造)。(なおこれら拡張(4)(5)はともに、触覚的=接触的に充実されることが要請される)

(16)-2 味覚は触覚の一側面!
味覚は、触覚の一側面と考えてよい。

(17)《世界》に充満する感情・欲望・意図(母の意識と自己意識両者による共有と後に名づけられる)(※(14)参照)&「〇〇ちゃん」・「お母さん」という意味(言葉)の出現
《世界》において、感情・欲望・意図の共有(母の意識と自己意識両者による共有と後に名づけられる)と呼ばれる出来事が生じる時、同時に、特権的物体(やがて自己身体とされる)に対し「〇〇ちゃん」、また「音声を発する物体」(Ex. 母)に対し「お母さん」という意味(言葉)が、「音声を発する物体」(Ex. 母)から発せられる。《世界》における、経験の重なり(意味or言葉)の形成において、「〇〇ちゃん」と「お母さん」という意味(言葉)の出現はエポック(決定的転換点)だ。

(17)-2 「充実」されていない空虚な「意味」(言葉)が、《経験の重なり》として「充実」させられる!
「〇〇ちゃん」と「お母さん」という意味(言葉)の出現は、《世界》に充満する一者である感情・欲望・意図が二重化して(つまり共有と呼ばれる)、《自己身体を含む超越論的主観性(意識)》としての自我(自我意識)と《他我の身体を含む超越論的主観性(意識)》としての他我(他我意識)を成立させるにあたり、重要だ。「〇〇ちゃん」と「お母さん」という意味(言葉)は、まだ「充実」されていない空虚な「意味」(言葉)だが、それらは、やがて《経験の重なり》として「充実」させられ、超越論的自我(自我意識)および超越論的他我(他我意識)を「充実」した意味として成立させる!

(18)《世界》に充満する感情・欲望・意図が、一方で「特権的物体」に属し、かくて自我(「〇〇ちゃん」、ただし超越論的自我)が成立する!他方で、その《世界》に充満する感情・欲望・意図が、同時に、「音声を発する物体」(Ex. 母)に属し、かくて他我(「お母さん」、ただし超越論的他我)が成立する!
「音声を発する物体」(Ex. 母)が発する「言葉」に随伴し《世界》に充満する感情・欲望・意図が、現に「そのもの」として、この《世界》に出現している。その《世界》の感情・欲望・意図が、一方で特権的物体(やがて自己身体とされる)の超越論的意識(モナド、宇宙)に属し、かくて自我(「〇〇ちゃん」、ただし超越論的自我)が成立する!同時に他方で、その《世界》に充満する感情・欲望・意図が、同時に、「音声を発する物体」(やがて他我の身体となる、Ex. 母)の超越論的意識(モナド、宇宙)に属し、かくて他我(「お母さん」、ただし超越論的他我)が成立する!

(19)《世界》に充満する一者である感情・欲望・意図が二重化して(つまり共有と呼ばれる)、《自己身体を含む超越論的意識》としての自我と《他我の身体を含む超越論的意識》としての他我を成立させる!
まず一者がある。それは《「世界がある」「いろいろなものがある」という事態としての世界》に出現した一者だ。すなわち「音声を発する物体」(Ex. 母)が発した「言葉」に随伴し今や《世界》に充満する感情・欲望・意図が、その一者である。この一者が、二重化する(つまり、これは共有と呼ばれる)。一方で《特権的物体(今や自己身体とされる)とその感情・欲望・意図からなる世界》(超越論的意識としての自我)、他方で《「音声を発する物体」(Ex. 母)(今や他我の身体とされる)とその感情・欲望・意図からなる世界》(超越論的意識としての他我)が、成立する。すなわち《世界》は、一方が《特権的物体(自己身体)をそのうちに含む超越論的意識》としての自我、他方が《「音声を発する物体」(Ex. 母)(他我の身体)をそのうちに含む超越論的意識》としての他我からなる。

(19)-2 《世界》に充満する感情・欲望・意図(一者)は、もともと一つのモナド=宇宙であったが、この一者が二重化し、ふたつのモナド=宇宙が出現する!
ここで魔術的変換が起きている。「音声を発する物体」(Ex. 母)は、他なる「物体」にすぎず、この場合、その「音声を発する物体」(Ex. 母)は、それ自らを含む超越論的主観性の領野をもたない。ところが今や、《世界》に充満する感情・欲望・意図(一者)を起点として、その感情・欲望・意図(一者)の広がりが、つまり一つだったもともとの超越論的主観性の領野が、二重化する。つまり、一方で《特権的物体(自己身体)をそのうちに含む超越論主観性の領野》としての自我、他方で《「音声を発する物体」(Ex. 母)(他我の身体)をそのうちに含む超越論的主観性の領野》としての他我へと、一挙に二重化する。ここで超越論的主観性の領野とは、モナドであり、宇宙である。《世界》に充満する感情・欲望・意図(一者)は、もともと一つのモナド=宇宙であったが、この一者が二重化し、ふたつのモナド=宇宙が出現する。

(19)-2-2 二重化するにあったって、《世界》に充満する感情・欲望・意図(一者)の一定範囲は、同一である。しかも《特権的物体(自己身体)》と《「音声を発する物体」(Ex. 母)(他我の身体)》は相互に接触して相互に他である物体を出現させているので、その出会いの境界面は同一である!
二重化するにあったって、《世界》に充満する感情・欲望・意図(一者)の一定範囲は、同一である。しかも《特権的物体(自己身体)》と《「音声を発する物体」(Ex. 母)(他我の身体)》は相互に接触して相互に他である物体の出現という出来事を「そのもの」として出現させているので、相互に他なる「物体」として、その出会いの境界面は同一である。

(19)-3 超越論的主観性の領野(世界、モナド、宇宙):①物的世界(感覚)と心的世界(感情・欲望・意図・夢・イデア的意味世界・意味展開としての諸虚構)!or②感覚(物体が出現する)、感情・欲望(Cf. 認知は注視の欲望にもとづく)・意図(欲望が目指す目標)・夢・イデア的意味世界・意味展開としての諸虚構!
超越論的主観性の領野(世界、モナド、宇宙)は、物的世界(感覚)と心的世界(感情・欲望・意図・夢・イデア的意味世界・意味展開としての諸虚構)からなる。あるいは、物的世界(感覚)と心的世界を分けるのでなければ、超越論的主観性の領野(世界、モナド、宇宙)は、感覚(物体が出現する)、感情・欲望(Cf. 認知は注視の欲望にもとづく)・意図(欲望が目指す目標)・夢・イデア的意味世界・意味展開としての諸虚構からなると言ってもよい。

(19)-4 物体の出現とは、相互的な《他》の出現だ!
①感情・欲望・意図においては、実は、そもそも《他》という契機がない。《他》は、感覚という出来事(物体の出現)においてのみ生じる。すなわち物体の出現(これが感覚という出来事だ)とは、相互に他である抵抗・延長の出現だから、常に《他》が前提される、つまり物体の出現とは、相互的な《他》の出現だ。

(19)-5 《意識、つまり世界の出現》とは、《感情・欲望・意図の充足》そのものである!
②さて《意識、つまり世界の出現》は、感情・欲望・意図を前提する。例えば感覚(物の出現)は、注視の欲望と意図にもとづき、指で何かをなぞること、あるいは感情にもとづき体が風や水を感じること(物は個体でなくてもよい)、この欲望・感情・意図によって自由になる側の物体、それが《自》である。
②-2《意識》するとは、認知的には注視の欲望の充足である。さらに欠如の感情としての欲望が充足されることも、《意識》である。空虚な意味が充足され満足することも、《意識》である。

(19)-6 《自》とは《感情・欲望・意図》のことだ!《自》なしに、世界の出現はない!したがって物体の出現もない!今、「音声を発する物体」(後に他我の身体となる、Ex. 母)が出現すると、それは、相互的な《他》の出現としての物体の出現であるが、こちら側が《自》なので、当然にも、向こう側が《他》となる!
③さて、相互的な《他》の出現としての物体の出現は、やがて、一方が《自》となり、他方が《他》となる。つまり相互的な《他》の出現としての物体の出現においてのみ、自他の差違が出現する。(⑥-2参照)
④今、「音声を発する物体」(後に他我となる、Ex. 母)が出現する。それは、相互的な《他》の出現としての物体の出現であるが、こちら側が《自》なので、向こう側が《他》となる。
⑤ まとめよう。物体的出会い(物体の出現)としてしか、《他》は出現できない。(参照①)また《この世界の出現の形式》においては、つまり《世界が意識される》あるいは《世界の出現》とは、《感情・欲望・意図の充足》そのものである。(参照②-2)《自》とは、この《感情・欲望・意図》のことだ。《自》なしに、世界の出現はない。したがって物体の出現もない。
⑤-2なお《感情・欲望・意図》は、詳しくは《感情・欲望(Cf. 認知は注視の欲望にもとづく)・意図(欲望が目指す目標)・夢・イデア的意味世界・意味展開としての諸虚構》である。

(19)-7 《自》身体は、もともとの超越論的主観性(=宇宙=モナド)に含まれているが、この超越論的主観性(=宇宙=モナド)に《自》という性格はまだ出現していない!「音声を発する物体」(Ex. 母)が、《他》身体に転換する時、それは同時に《他》身体を自らの内に含む含む《他》なる超越論的主観性(=宇宙=モナド)の出現であり、さらに同時に《自》身体を含むもともとの超越論的主観性(=宇宙=モナド)に、《自》という性格を出現させる!
⑤-3 《他》は、物体の出現なしに、出現しない。さて、すでに見たように、《世界》に充満する感情・欲望・意図(一者)を起点として、その感情・欲望・意図(一者)の広がり(《後に自己身体となる特権的物体》を含む超越論的主観性の領野)が、二重化する。つまり、一方で《特権的物体(自己身体)をそのうちに含む超越論主観性の領野》としての自我(自我意識)、他方で《「音声を発する物体」(Ex. 母)(他我の身体)をそのうちに含む超越論的主観性の領野》としての他我(他我意識)へと、一挙に二重化する。この二重化には、《他》の出現が必須であり、つまり《他》なる「物体」が必須だ。《他》なる「物体」なしに、他我の超越論的主観性の領野、つまり「音声を発する物体」(他我の身体、Ex. 母)を含む超越論的主観性の領野は、成立しない。
⑥「物体」の出現なしに《他》は出現できないので、「物体」を介してのみ他我(他の超越論的主観性=宇宙=モナド)は出現する、あるいは出現できる。(なお、他我の出現は、同時に、もともとの超越論的主観性=宇宙=モナドに、《自》あるいは自我という性格を与える。)
⑥-2 ここで《自》身体は、もともとの超越論的主観性(=宇宙=モナド)に含まれているが、この超越論的主観性(=宇宙=モナド)に《自》という性格はまだ出現していない。「音声を発する物体」(Ex. 母)が、《他》身体に転換する時、それは同時に《他》身体を自らの内に含む含む《他》なる超越論的主観性(=宇宙=モナド)の出現であり、さらに同時に《自》身体を含むもともとの超越論的主観性(=宇宙=モナド)に、《自》という性格を出現させる。
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