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金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』I 序論(五)「精神現象学の目的」(その3-4):「ヘーゲル哲学の精神史的必然性」(ハ)《精神》における「実体性恢復の段階」(B)絶対知の立場:思弁的理性の立場!

2024-03-31 20:02:55 | 日記
※金子武蔵(カネコタケゾウ)『ヘーゲルの精神現象学』ちくま学芸文庫(1996)(Cf. 初刊1973)
I 序論(五)「精神現象学の目的」(その3-4)
(10)-2-4 「ヘーゲル哲学の精神史的必然性」(ハ)《精神》における「実体性恢復の段階」(B)「絶対知」の立場(続3):「思弁的理性の立場」からの(悟性的な)「定立」と「反定立」の「統一」!
★「悟性の立てる規定」は「それとは反対の規定」を呼び起こし、「定立」(テーシス)が「反定立」(アンチテーシス)に転じないわけにいかない。こうして一つの思惟規定に対し、反対の思惟規定が立てられ、これら二つの思惟規定が「互いに他に転換する」ことによって「統一づけ」られる。(67頁)

★この「統一づけ」は2つあるとヘーゲルは考える。一つは(悟性的な)「定立」と「反定立」とを区別した上で「統一づける」という「思弁的理性の立場」だ。(67頁)
☆もう一つは「定立」と「反定立」の区別を全然なくして「統一づける」という「神秘主義の立場」だ。だがこれは、「直接知」の立場にほかならない。これは最初の(イ)「実体性の立場」に簡単に帰ってしまうものだ。(67頁)
☆これではいけないのであって(悟性的な)「定立」と「反定立」とを統合しはするけれども、どこまでも悟性的な区別を認めた上での統一であることが必要だ。真の理性は悟性的理性だ。これが「思弁的理性の立場」からの(悟性的な)「定立」と「反定立」の「統一」だ。(67頁)

★このようにして、最初に「直観され表象される具体的な《全体》」(「統一」)がありこれが「悟性」によって「分割」され(「定立」と「反定立」)、その「分割」を通じて「統一」が再び恢復され、その「恢復された統一」において初めて「真の真理」が実現される。(67頁)

★このことをヘーゲルは次のように述べる。(68頁)
「《生き生きとした実体》は真(マコト)は『《主体》であるところの有(※存在)』であって、換言すれば『《自分自身を定立するという運動》、または《自分自身の他者となること(※悟性的諸規定)と自分自身とを媒介し調停する働き》であるかぎりにおいてのみ、真に現実的であるところの有(※存在)』である。
・かかる実体は《主体》であるから、①全く純然たる否定の働きであり、だからこそ単純なるものを分割して二重にする働き(※悟性的諸規定の付与)ではあるけれども、それでいて②《相互に交渉なきこの差異項とその対立》(※悟性的諸規定)とを再び否定しもする。
・《真理》とはかかる《再興される同一》または《他在(※悟性的諸規定)のうちから自分自身への『還帰』(反省)》にほかならないのであって、《根源的なる統一》または《無媒介の統一》そのものではない。
・《真理》とは《おのれ自身となる過程》であり、《終わりを目的として予め定立して初めとなし、そうしてただ実現と終わりとによってのみ現実的であるところの円周》である。」

★「根源的統一」というものは「真理」でなく、「一度分割されることを通じて再興された統一」が初めて「真理」である。こういう「弁証法」Dialectic が無限に繰り返されてゆくところに、「《真理》が《主体》である」というゆえんがあり、また「絶対知」が成立をみるというわけだ。(68頁)

★「悟性の反省」(※悟性的諸規定を与えること)は、たしかに「人間」を「普遍的・全体的・絶対的なもの」から「個別的・部分的・相対的なもの」に導き、したがって実生活においても個人の悦楽や幸福を求めさせることになる。(Cf. 《世間知》《専門知識》を得て実利を得ること?)(68頁)
☆「悟性の反省」は「ただ漠然と直観せられ表象せられ情感せられている《全体》」を、「明確なる《思惟規定》」、しかも「自我一般のもつところの《思惟規定》」にまで分割し分析し、最初の「直観や表象」のまぬがれえなかった「個人性や主観性」を洗い落とすところに積極的意義をもつ。(68-69頁)

☆ただ「悟性」の欠点は、個々の「思惟規定」に執着して動きのとれないところにあるが、しかし固執も極限まで行けばかえって「反対の規定」を喚起するから、それはおのずと「理性」となって最初の「全体性」が恢復せられ(「規定」の「統一」がなされ)、しかも「悟性」の与えるものは「自我一般」の「思惟規定」であるから、その「統一」はもはや「実体」ではなくして「主体」である。(69頁)

《参考》「ヘーゲル哲学の精神史的必然性」(62-66頁)
★(イ)《精神》における「実体性の段階」、すなわち「中世キリスト教」の信仰の時代!
★(ロ)《精神》における「反省の段階」あるいは「媒介の段階」、すなわち「ルネッサンス」から「啓蒙」の時代!
★ヘーゲルは現代を、(ハ)《精神》における「実体性恢復の段階」と考える。これには2通りあるとヘーゲルは言う。すなわち(A)「直接知」の立場と(B)「絶対知」の立場だ。(65頁)
☆(ハ)《精神》における「実体性恢復の段階」(A)「直接知」の立場:(ロ)「反省・媒介の段階」すなわち「ルネッサンス」・「啓蒙」の時代の「有限性」の立場を嫌悪するのあまり、「悟性」を抹殺して直接に「絶対性」の立場へ逆転しようとする立場!「永遠なもの・絶対的なもの・無限なもの」を「悟性」を媒介することなく、直接的に「感情・情緒」といったもので捉えることができると考える。かくて「悟性」とか「反省」を全く軽蔑する!「ロマンティスィズム」の立場!
☆(ハ)《精神》における「実体性恢復の段階」(B)「絶対知」の立場:「悟性の反省」の媒介の意義を十分に認めたうえで「実体性」=「直観され表象された全体」を恢復する!「定立」と「反定立」とを区別した上で「統一づける」という「思弁的理性の立場」!

《参考(続)》ヘーゲルにおいて「精神」の立場・「理念」の立場は、物事を「全体」的に見てゆこうとする立場だ。「真理は全体である」。(35頁)
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金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』I 序論(五)「精神現象学の目的」(その3-3):「ヘーゲル哲学の精神史的必然性」(ハ)《精神》における「実体性恢復の段階」(A)直接知の立場と(B)絶対知の立場!

2024-03-30 14:11:19 | 日記
※金子武蔵(カネコタケゾウ)『ヘーゲルの精神現象学』ちくま学芸文庫(1996)(Cf. 初刊1973)
I 序論(五)「精神現象学の目的」(その3-3)
(10)「ヘーゲル哲学の精神史的必然性」(ハ)《精神》における「実体性恢復の段階」(A)「直接知」の立場!
★ヘーゲルは現代を「実体性恢復の時代」だとする。すなわち(ハ)《精神》における「実体性恢復の段階」だ。これには2通りあるとヘーゲルは言う。すなわち(A)「直接知」の立場と(B)「絶対知」の立場だ。(65頁)

★《精神》における(ハ)「実体性恢復の段階」(A)「直接知」の立場は、(ロ)「反省・媒介の段階」すなわち「ルネッサンス」・「啓蒙」の時代の「有限性」の立場を嫌悪するのあまり、「悟性」を抹殺して直接に「絶対性」の立場へ逆転しようとする立場だ。(65頁)
☆つまり人間が「永遠なもの・絶対的なもの・無限なもの」を「悟性」を媒介することなく、直接的に「感情・情緒」といったもので捉えることができると考える。かくて「悟性」とか「反省」を全く軽蔑する立場だ。
☆それは「ロマンティスィズム」の立場だ。ノヴァーリス(1772-1801)、シュレーゲル(1772-1829)、シュライエルマッヘル(1768-1834)などだ。

Cf.  ノヴァーリス『青い花』岩波文庫(18-19頁)「このとき青年がいやおうなしに惹きつけられたのは、泉のほとりに生えた一本の丈の高い、淡い青色の花だったが、そのすらりと伸びかがやく葉が青年の体にふれた。この花のまわりに、ありとあらゆる色彩の花々がいっぱいに咲きみだれ、芳香があたりに満ちていた。青年は青い花に目を奪われ、しばらくいとおしげにじっと立っていたが、ついに花に顔を近づけようとした。すると花ははつと動いたかとみると、姿を変えはじめた。葉が輝きをまして、ぐんぐんと伸びる茎にぴたりとまつわりつくと、花は青年に向かって首をかしげた。その花弁が青いゆったりとしたえりを広げると、なかにほっそりとした顔がほのかにゆらいで見えた。この奇異な変身のさまにつれて、青年はここちよい驚きはいやが上にも高まっていった。と、突然、母の声がして目を覚ますと、すでに朝日で金色にそまったわが家にいる自分に気がついた。」

☆ヘーゲル((1770-1831))自身もフランクフルト時代(1796-1800年、26-30歳)には「ロマンティスィズム」の傾向を示していた。
☆「ロマンティスィズム」は、『精神現象学』(C)「理性」(BB)「精神」Ⅵ「精神」の終わりにある「良心」あるいは「美魂」の立場に反映している。

《参考》『精神現象学』の目次:(C)「理性」(BB)「精神」Ⅵ「精神」は、「A 真実なる精神」・「B自己疎外的精神、教養」・「C 自己確信的精神、道徳性」(「a 道徳的世界観」・「b ずらかし」・「c 良心、美魂、悪とその赦し」)からなる。

(10)-2「ヘーゲル哲学の精神史的必然性」(ハ)《精神》における「実体性恢復の段階」(B)「絶対知」の立場!「悟性の反省」の媒介の意義を十分に認めたうえで「実体性」=「直観され表象された全体」を恢復する!
★《精神》における(ハ)「実体性恢復の段階」(B)「絶対知」の立場は、「実体性」を恢復しようとするが、しかし「直接知」のように「反省」の媒介を抹殺するのでなく、「反省」の意義を十分に認めたうえで「実体性」を恢復する。(65頁)

《参考1》カントの第一批判『純粋理性批判』における認識能力の発展段階は、最初に①「直観」あるいは「感性」がある。それから②「悟性」の能力がある。「悟性」は「直観」によって与えられたものを、総合的に統一づける。だがそれはまだ部分的認識であり、全体的認識でない。そこで③「理性」が全体をとらえようとする。(35頁)
《参考1-2》カントの第一批判『純粋理性批判』の「直観」-「悟性」-「理性」という段階は、ヘーゲルに、その意味を変えてではあるが大きな影響を与えている。(38頁)
《参考2》ヘーゲル『精神現象学』の目次は次のようになっている。(36-38頁)(53-54頁)(333-336頁)
(A)意識:Ⅰ感覚的確信または「このもの」と「私念」、Ⅱ真理捕捉(知覚)または物と錯覚、Ⅲ力と悟性、現象と超感覚的世界
(B)自己意識:Ⅳ自己確信の真理性
(C)(AA)理性:Ⅴ理性の確信と真理、
(BB)精神:Ⅵ精神(A「真実なる精神、人倫」、B「自己疎外的精神、教養」、C「自己確信的精神、道徳性」)、(CC)宗教:Ⅶ宗教、
(DD)絶対知:Ⅷ絶対知
《参考2-2》これを分析すると2つの分け方が組み合わせてされている。(53-54頁)
・一方の分け方では、(A)意識、(B)自己意識、(C)(AA)理性
・他方の分け方では、Ⅰ感覚、Ⅱ知覚、Ⅲ悟性、Ⅳ自己確信の真理性、Ⅴ理性の確信と真理、Ⅵ精神、Ⅶ宗教、Ⅷ絶対知

★「反省」の意義はどこにあるのか?(ここで「直観」と「悟性」と「理性」の関係について見ておく必要がある。)(65-66頁)
☆「実体」とは「直観せられ、表象せられ、情感せられる」ものだ。すなわち「生きた全体」(※「実体性」)は「直観せられ表象される」べきものだ。(66頁)

★だが「直観や表象」はまだ「感性」的なもので、個別性・主観性をまぬがれることができない。それゆえそこに②「悟性」の分析が必要となる。(66頁)
☆「悟性」はいわゆる「意識一般」を意味するから、「意識一般」の立場から(※「実体」・「生きた全体」に)思惟規定を与えること、また一々の思惟規定を与えるという意味における「分析」が必要となる。
☆「直観され表象された全体」は、その部分が渾然融合した全体だ。その「全体」を成り立たせる「要素」にまで「分析」するのが「悟性」であり、あるいは「悟性の反省」だ。

《参考》「ヘーゲル哲学の精神史的必然性」
・(イ)《精神》における「実体性の段階」、すなわち「中世キリスト教」の信仰の時代!
・(ロ)《精神》における「反省の段階」あるいは「媒介の段階」、すなわち「ルネッサンス」から「啓蒙」の時代!
・(ハ)《精神》における「実体性恢復の段階」(A)「直接知」の立場!
・(ハ)《精神》における「実体性恢復の段階」(B)「絶対知」の立場:「悟性の反省」の媒介の意義を十分に認めたうえで「実体性」=「直観され表象された全体」を恢復する。

★「悟性」は「一つのまとまったもの」(「全体」)を「分析」し、その側面を区別し、一般的な思惟規定を与える。かくて「直観とか表象とか感情とか」を高く評価する人は「悟性」を嫌う。「悟性」は「全体」のまどやかな統一を殺してしまうので敬遠される。(Cf. (ハ)《精神》における「実体性恢復の段階」(A)「直接知」の立場!)(66頁)

(10)-2-2 「ヘーゲル哲学の精神史的必然性」(ハ)《精神》における「実体性恢復の段階」(B)「絶対知」の立場(続):「悟性」は常に「独断論」の立場だ!
★「直観や表象」は「感性」的たるをまぬがれないから、「悟性の反省」が必要だ。しかし「悟性」の欠点は固定させるところにある。(66-67頁)
☆「直観」的に与えられたものについて、そのいろいろな側面を区別し、思惟規定を与えるのが「悟性」(Verstand)の長所だ。
☆しかしその一つ一つの規定に固執し停滞してそこから動かないのが「悟性」の短所だ。つまり「悟性」は「有限」的だ。その意味でヘーゲルに言わせると「悟性」は常に「独断論」の立場だ。「独断論」は、ある一つの問題について、一つの簡単な「命題」を立て、あるいは一つの「判断」をくだすことによって、その「真理」をとらえうると考える。

(10)-2-3 「ヘーゲル哲学の精神史的必然性」(ハ)《精神》における「実体性恢復の段階」(B)「絶対知」の立場(続々):「懐疑主義」によって「悟性」の「独断論」は破砕される!
★だが「悟性の立てる思惟規定」は決して完全なものでありえない。なぜなら「悟性の立てる思惟規定」は「分析」の産物であり、したがって決して「具体的全体」をつくしたものでなく、その一面にすぎないからだ。(67頁)
☆かくて「悟性の立てる規定」は「それとは反対の規定」を呼び起こし、「定立」(テーシス)が「反定立」(アンチテーシス)に転じないわけにいかない。かくて「悟性」の「独断論」は破砕される。ここに「独断論」に対する「懐疑主義」Skeptizismus の意義があるとヘーゲルは考える。
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金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』I 序論(五)「精神現象学の目的」(その3-2):「ヘーゲル哲学の精神史的必然性」(ロ)《精神》における「反省・媒介の段階」、すなわち「ルネッサンス」・「啓蒙」の時代!

2024-03-27 12:19:43 | 日記
※金子武蔵(カネコタケゾウ)『ヘーゲルの精神現象学』ちくま学芸文庫(1996)(Cf. 初刊1973)
I 序論(五)「精神現象学の目的」(その3-2) 
(9)「ヘーゲル哲学の精神史的必然性」(ロ)《精神》における「反省の段階」あるいは「媒介の段階」、すなわち「ルネッサンス」から「啓蒙」の時代!
★《精神》における(ロ)「反省の段階」あるいは「媒介の段階」は「ルネッサンス」から「啓蒙」の時代をさす。(64頁)
☆《精神》の(イ)「実体性の段階」では、「絶対的・普遍的・全体的なもの」のうちに「個別的・相対的・有限的・分別的なもの」は埋もれていた。
☆これに対してしだいに「個人」が自覚をえ、独立してくる。その自覚は「反省」あるいは「悟性」によってなされる。
・「彼岸」よりも「此岸」に人間の注意が向けられ、「此岸つまり現世」における労働とか幸福とかが人間生活の主要な問題となる。
・これが《精神》における(ロ)「反省の段階」あるいは「媒介の段階」だ。
・こういう気風が「ルネッサンス」から「啓蒙」にまで続く。

★ところが「相対的・有限的・時間的なもの」に人間が自分の注意と努力とを向けるという態度がまた、極限にまで行ってしまうと、もはや人間はそういう立場に倦怠を感じ、そうして再び「永遠的・絶対的なもの」を恢復したいと思うようになる。(64-65頁)
☆そこでヘーゲルは現代を「実体性恢復の時代」だとする。すなわち(ハ)《精神》における「実体性恢復の段階」だ。
☆『精神現象学』(1807)を書いている時代が「精神史的に非常な変革期」にあるとヘーゲルが考えているゆえんは、ここにあると思われる。(金子武蔵)

《参考》★「哲学が絶対知の立場にたたねばならない」というのはヘーゲルの考えであるが、さらに「時代がこれを要求している」のだ、すなわち「絶対知の哲学が出現すべき時代がやってきている」のだとヘーゲルは言う。(金子武蔵61-62頁)
☆ヘーゲル(1770-1831)は現代が「精神史における転換期である」と考える。(Cf. フランス革命1789年。)「我々は《精神》が飛躍して、従前の形態を越えて新たなる形態を獲得するという重大な転換期に、発酵の状態のうちにあるのをみる。」「哲学は《精神》を永遠なものとして認め、それに敬意を表さなくてはならぬ。」(ヘーゲル1806/9/18、36歳)
☆ヘーゲルは「絶対知の哲学は時代の要求しているものだ」、「世人の大多数も暗黙のうちに本能的に絶対知の哲学が出現しなければならぬことを認めている」と言う。
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金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』I 序論(五)「精神現象学の目的」(その3):「ヘーゲル哲学の精神史的必然性」(イ)《精神》における「実体性の段階」すなわち「中世キリスト教」の信仰の時代!

2024-03-26 17:08:05 | 日記
※金子武蔵(カネコタケゾウ)『ヘーゲルの精神現象学』ちくま学芸文庫(1996)(Cf. 初刊1973)
I 序論(五)「精神現象学の目的」(その3) 
(7)「絶対知の哲学」が出現すべき時代がやってきている!
★「哲学が絶対知の立場にたたねばならない」というのはヘーゲルの考えであるが、さらに「時代がこれを要求している」のだ、すなわち「絶対知の哲学が出現すべき時代がやってきている」のだとヘーゲルは言う。(61-62頁)
☆ヘーゲル(1770-1831)は現代が「精神史における転換期である」と考える。(Cf. フランス革命1789年。)「我々は《精神》が飛躍して、従前の形態を越えて新たなる形態を獲得するという重大な転換期に、発酵の状態のうちにあるのをみる。」「哲学は《精神》を永遠なものとして認め、それに敬意を表さなくてはならぬ。」(ヘーゲル1806/9/18、36歳)
☆ヘーゲルは「絶対知の哲学は時代の要求しているものだ」、「世人の大多数も暗黙のうちに本能的に絶対知の哲学が出現しなければならぬことを認めている」と言う。

《参考》ナポレオン戦争(1796-1815):フランス革命を外国の干渉から守る「革命防衛戦争」として始まるが、しだいに「革命の理念の拡大」の戦争、一面では「侵略戦争」へと変質。1812年のモスクワ遠征失敗を境にナポレオンの「帝国防衛戦争」に転化。ヨーロッパの「封建体制」を崩壊させ「市民社会」を拡張したが、周辺諸民族を抑圧した。軍事史的には「傭兵」による絶対王政期の軍隊から、「徴兵制」に基づく「国民軍」を主体とする戦争への転換をもたらした。

☆ナポレオン(1769-1821)の軍事行動はフランス革命末期の「総裁政府」のもとで、オーストリアとイギリスの干渉から「革命を防衛するための戦争」をナポレオンが指揮するところから始まる。ナポレオンは1796年、26歳で「イタリア遠征(第1次、1796-97)軍司令官」に任命され、オーストリアに勝利し、第1回対仏大同盟を終わらせた。
・さらにイギリスのインド支配を妨害するためナポレオンは「エジプト遠征」(1798-99)を行うが、ネルソンの率いるイギリス海軍に敗れる。イギリスは第2回対仏大同盟結成。
・ナポレオンは1799年に「ブリュメール18日のクーデタ」で実権を握り、「統領政府」(1799-1804)の第一統領となる。(ナポレオン30歳、ヘーゲル29歳。)

☆「ヨーロッパ征服の戦争」:権力を握ったナポレオンは、フランスのブルジョワ・農民の支持を背景に「革命の理念を全ヨーロッパに広げる」という大義の下、征服戦争を開始。「イタリア遠征」(第2次、1800)で再びオーストリア軍と戦い勝利。イギリスとは1802年のアミアンの和約で一旦和平を実現した。
・1804年「ナポレオンの皇帝即位」(ナポレオン35歳、ヘーゲル34歳)を受けて第3回対仏大同盟が成立。ナポレオンはイギリス征服をもくろむが「トラファルガー海戦」(1805)でネルソン率いるイギリス海軍に敗れた。
・しかし大陸での戦いは、「アウステルリッツの三帝会戦」(1805)でオーストリア・ロシア連合軍と戦いナポレオンが勝利、「イエナの戦い」(1806)でプロイセン軍と戦い勝利し、ベルリンを占領。(ナポレオン37歳、ヘーゲル36歳)
・ナポレオンは、さらにポーランドに侵攻、ポルトガル征服(1807)、スペイン征服(1808年、スペインの反乱を鎮圧するためナポレオン自ら侵攻)などで勝利を続けた。ただしスペインではゲリラ戦に悩まされて苦戦。

☆ナポレオンの「帝国防衛戦争」:ナポレオン帝国の最大の敵であるイギリスを弱体化するため、ナポレオンは1806年「大陸封鎖令」を出したが、各国の足並みが揃わず、特にロシアがその命令に従わなかった。かくてナポレオンは1812年にロシア遠征に踏み切る。モスクワに入城するが冬将軍に敗れ撤退。
・それをきっかけに「ライプツィヒの戦い」(1813「諸国民戦争」)でヨーロッパ諸国連合軍にナポレオンが敗れる。連合軍がパリに入城し、ナポレオンは1814年、退位した。
・1815年(ナポレオン46歳、ヘーゲル45歳)、ナポレオンはエルバ島を脱出し皇帝に復帰。だが「ワーテルローの戦い」で敗れセントヘレナ島に流された。(ナポレオンの「百日天下」。)

☆ナポレオン戦争の意義:約20年にわたり、全ヨーロッパを巻きこんだナポレオン戦争(1796-1815)は、多大な犠牲を払った「近代への移行」であった。フランス軍は革命中に始まる「徴兵制」によって編制された「国民軍」であり、彼らは「自由と権利」のために戦うとともに「ナショナリズム」にも燃えていた。フランス軍を迎え撃つヨーロッパ各国は敗北によって、封建的な「傭兵」部隊の時代が過ぎ去ったことを痛感させられ、各国とも「国民軍」を創設して「常備軍」の強化に向かった。

Cf. ヘーゲル(1770-1831)の生涯の略年譜③(1807-1831年、37-61歳・死)(46-47頁)
★イエナ大学が閉鎖され、1807-08年(37-38歳)、ヘーゲルはバンベルク市の新聞 Bamberger Zeitung を主宰。へーゲルがこの職を選んだのは、元来政治に興味があったことを示している。
☆1807年(37歳)ヘーゲル『精神現象学』。
★1808-1816年(38-46歳)、ヘーゲルはニュールンベルクのギムナジウム校長をつとめる。
☆1812-16年(42-46歳)ヘーゲル『大論理学』第1巻・第2巻
★1816-1818年(46-48歳)へゲルはハイデルベルク大学教授をつとめる。
☆1817年(47歳)『エンチュクロペディー』初版。
★1818-1831年(48-61歳)ヘーゲルはベルリン大学教授をつとめる。(47頁)
☆1821年(51歳)ヘーゲル『法哲学』。
☆1831年(61歳・死)英国選挙法改正の論文。(1830年フランスに7月革命があって、この波がドイツへも押し寄せてくる。こういう政治情勢に対して、ヘーゲルが態度を決しようとした論文。)

(8)「ヘーゲル哲学の精神史的必然性」(イ)《精神》における「実体性の段階」、すなわち「中世キリスト教」の信仰の時代!
★ヘーゲルは「自分の哲学の精神史的必然性」を説明する。そこには「3つの段階」が区別される。それは《精神》における(イ)「実体性の段階」、(ロ)「反省の段階」あるいは「媒介の段階」、(ハ)「実体性恢復の段階」である。(62頁)

★(イ)《精神》の「実体性の段階」:「中世キリスト教」の信仰の生きていた時代!(63頁)
☆「実体性」とは「普遍的・全体的・絶対的なもの」のことだ。これに対して「部分的・個別的・相対的・有限的なもの」は(「実体」に対する)「属性」にあたる。「属性」は「実体」に依存するだけで、「実体」からの独立性をもたない。(63-64頁)
☆「有限的・相対的・個別的・部分的なもの」は、すべて「絶対的・全体的・普遍的なもの」に依存しているという状態が「実体性の段階」だ。
☆これは具体的には「中世キリスト教」の信仰の生きていた時代だ。すなわち人間がキリスト教において「絶対的普遍的」なものに帰依し、それを信仰している段階だ。
「かつて人間は思想と表象との広大なる富をもって飾られた天国を所有していて、ありとしあらゆるものは光の糸によってこの天国に繋がれ、この糸によってその意義をえていた。人間のまなこも『この』現在に停滞することなく、光の糸をたどって現在を越えて神的なる実在を、いわば彼岸の現在を仰ぎ見ていた。」(ヘーゲル)

★『精神現象学』の本文でヘーゲルが「(イ)《精神》の「実体性の段階」:「中世キリスト教」の信仰の生きていた時代」について述べるのは、『精神現象学』が「(A)意識、(B)自己意識、(C)理性」の3段階から成りたっているという見方からすれば「(B)自己意識」の最後の段階である「不幸なる意識」においてだ。(63-64頁)
☆また『精神現象学』が「Ⅰ感覚、Ⅱ知覚、Ⅲ悟性、Ⅳ自己確信の真理性、Ⅴ理性の確信と真理、Ⅵ精神、Ⅶ宗教、Ⅷ絶対知」の8つの段階から成りたっているという見方からすれば、ヘーゲルが「(イ)《精神》の「実体性の段階」について述べるのは、「Ⅶ宗教」のうちの最高のものである「絶対宗教」(※「啓示宗教」)においてである。(64頁)

《参考1》《『精神現象学』目次》「(B)自己意識」「Ⅳ 自己確信の真理性」:「A 自己意識の自立性と非自立性、主と奴」「B 自己意識の自由、ストア主義とスケプシス主義と不幸なる意識」(333頁)
《参考1-2》 《『精神現象学』目次》「(C)理性(CC)宗教」:「Ⅶ 宗教」「A 自然宗教」a光、b植物と動物、c工作者;「B 芸術宗教」a抽象的芸術品、b生ける芸術品、c精神的芸術品;「C 啓示宗教」

《参考1-3》 『精神現象学』の構成(目次)を分析すると「2つの分け方」が組み合わせてされている。
・一方の分け方では、「(A)意識、(B)自己意識、(C)理性」である。
・他方の分け方では、「Ⅰ感覚、Ⅱ知覚、Ⅲ悟性、Ⅳ自己確信の真理性、Ⅴ理性の確信と真理、Ⅵ精神、Ⅶ宗教、Ⅷ絶対知」である。
・「(A)意識」が客体的な方向(Ⅰ感覚、Ⅱ知覚、Ⅲ悟性)、「(B)自己意識」が主体的な方向(Ⅳ自己確信の真理性)、「(C)理性」が主客統一の方向(Ⅴ理性の確信と真理、Ⅵ精神、Ⅶ宗教、Ⅷ絶対知)である。

《参考2》ヘーゲル『精神現象学』において、「Ⅶ宗教」は「Ⅷ絶対知」の直前に置かれる。「宗教」は「絶対知」の直前に位置するにふさわしい高度な「精神」の形と考えられている。
《参考2-2》なおヘーゲルは「神」(「宗教」)を人間の「精神」のとる一つの形だとするので、しばしば、「無神論者」と攻撃された。
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金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』I 序論(五)「精神現象学の目的」(その2-2):「普通の意識」が、種々の経験をして「絶対知」に高まる!「絶対知」は『精神現象学』の「全体」において示される!

2024-03-25 12:50:35 | 日記
※金子武蔵(カネコタケゾウ)『ヘーゲルの精神現象学』ちくま学芸文庫(1996)(Cf. 初刊1973)
I 序論(五)「精神現象学の目的」(その2-2) 
(6)-3-2 『精神現象学』は「意識経験の学」であり「現象知」の叙述である:「普通の意識」が、種々の経験をして「絶対知」にまで高まってゆく!
★『精神現象学』は「意識経験の学」とも呼ばれる。この場合の意識とは「普通の意識」である。この「普通の意識」は「対象は自己とちがう、自己も対象と違う」と考えている意識だ。その「普通の意識」が、種々の経験をしていくことによって「絶対知」(or「哲学的認識」)にまで高まってゆくプロセスを叙述するのが「意識経験の学」すなわち『精神現象学』である。(60頁)
☆かかる「意識経験」は、「相対知」であり「現象知」である。かくて『精神現象学』は「現象知」(「相対知」)の叙述である。

★『精神現象学』の構成は、(A)「意識」、(B)「自己意識」、(C)「理性」となっている。(A)「意識」は対象の意識、自己とちがった対象を意識するもの、(B)「自己意識」は、対象とちがった自己を意識するものだ。この「対象意識」と「自己意識」が一つになるのが(C)「理性」の段階だ。つまり(C)「理性」は、「絶対の他在のうちに純粋に自己を認識する」という「絶対知」にほかならない。(60-61頁)
☆「絶対の他在のうちに純粋に自己を認識する」とはどういうことか、「絶対知」がどういうものであるかは、『精神現象学』の「全体」において、はじめて示すことができる。

《参考》★「精神現象学の構成」(目次)(53-54頁)
(A)意識:Ⅰ感覚、Ⅱ知覚、Ⅲ悟性
(B)自己意識:Ⅳ自己確信の真理性
(C)理性(AA)理性:Ⅴ理性の確信と真理、
(C)理性(BB)精神:Ⅵ精神(A「真実なる精神、人倫」、B「自己疎外的精神、教養」、C「自己確信的精神、道徳性」)、
(C)理性(CC)宗教:Ⅶ宗教、
(C)理性(DD)絶対知:Ⅷ絶対知
☆これを分析すると「2つの分け方」が組み合わせてされている。
・一方の分け方では、「(A)意識、(B)自己意識、(C)理性」である。
・他方の分け方では、「Ⅰ感覚、Ⅱ知覚、Ⅲ悟性、Ⅳ自己確信の真理性、Ⅴ理性の確信と真理、Ⅵ精神、Ⅶ宗教、Ⅷ絶対知」である。
☆『精神現象学』の構成(目次)については、さしあたっては「(A)意識、(B)自己意識、(C)理性」の3つについて考えていけばよい。「(A)意識」が客体的な方向(Ⅰ感覚、Ⅱ知覚、Ⅲ悟性)、「(B)自己意識」が主体的な方向(Ⅳ自己確信の真理性)、「(C)理性」が主客統一の方向(Ⅴ理性の確信と真理、Ⅵ精神、Ⅶ宗教、Ⅷ絶対知)である。
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